「きれいごというな」
「結局自己満でやってるんだよね」
「そこまでfacebookに意識高いアピールしたいの?」
「偽善者」
これは、ボランティア参加に積極的な人や同性愛者擁護者などによく使われる批判である
しかし、人間は善行は突き詰めていけばすべて偽善なのではないだろうか。人間の善行の中には、「認められたい願望」が少なからず含まれているのではないだろうか。本当に心から好きで善行をやっている者はいるのだろうか?いるとしたらその根底にも「認められたい願望」があるのではないだろうか。自分のやりたいことと社会から必要とされていることが一致することがそう頻繁にあるものだろうか。
いや、そんなことはない。むしろ善行を行っている人は不本意でやっている人も多いことだろう。
心の中では同性愛者をキモチワルイと思いつつも、「そういう人たちも受け入れられるべきだ」という時代の潮流に乗って、「彼らにも権利を」と叫ぶ人たちは、キレイゴトを抜かす偽善者だと言われる。しかし、だったらお前は自分の心に嘘をつかずに思うがままに動くのか?と言いたい。
たとえば、道端ですれ違った女性が美人でスタイルも良い人で、心の中で「犯したい」と思っていて、本当に犯すのだろうか?ゲスで高慢な上司を「殺したい」と思っていて、本当に殺すのだろうか?
あたかも自分の心に正直なのが良いように言われているが、私たちの行動規範は自分の信条ではなく、社会の信条によって動かされ、社会の信条の尺度で、善行か悪行かが判断される。そもそも自身の行動が本意であることの方が少ないのではないか?
そもそも善行だと言われる行為自体が、自身の信条とは逆行するものだから、その苦労を褒めたたえられているのではないだろうか?なんのメリットもなくただ「やりたかったからやりました」だったら、ますます偽善だと言われる。ここまでくると嫉妬のようにも聞こえるが。
誰にでもできるようなことは、「あたりまえのこと」として扱われ、善行にはならないだろう。誰にでもできることではないことは、本質的に私たちの本意とは逆行する行為であるはず。「特に理由もないけどやりたかったからやった」は偽善だと言われる。
善行はどう転ぼうと偽善になるのだ(偽善とみなされるのだ)。
話が変わるがそもそも偽善がいけないことなのだろうか
私たちの行動は自分の心に正直ではなく、不本意であることが当たり前だと上で述べた。だからその点で責めるのはナンセンスである。むしろ、一時期流行った「ありのまま」の自分が良いように見なされる方が恐ろしい。
「偽善」という言葉は第三者から出る言葉であり、当事者の間ではただ「感謝」しかないのである。善行を行った者に下心や裏、自己満足があったにせよ、恩恵を受けた人にとっては関係なく、ただ親切にされてうれしいだけである。それで見返りがもらえたのであれば、Win-Winであり、何も問題にならない。偽善であろうが善行であろうが、結果だけ見れば関係ない。やらないやつより数倍マシである。
偽善者だと言って批判している奴は、偽善者よりもたちが悪い。行動しない奴が行動している人より評価を受ける理由はどこにもない。