タイトルに書いたのは私の最近のテーマ。
結婚する少し前くらいからここまで、もう、すっかり人生の迷子です。
そもそも人生に正しい道ってあるのか?
きっと人生に正解なんてなくて(何かしらの宗教を信じていたらあるのかもしれないけれど)、納得しているかどうか?気に入っているかどうか?が道標なんじゃないかな、とつくづく思います。
その観点でいえば……納得感も気に入ってる感も、今の自分には物足りない。必要なのは主体性。自ら選んで行動すること。
なんとなくの流れに流されて、ここまできてしまったんですよね。
学校も、仕事も、結婚も、妊娠出産も。社会(というよりも世間)がもつ「そういうもの」の圧力に押されて、気づけばこんなところまで。
きてしまったものはしょうがない。
きたからには、せめて、居心地よくありたたいものだ。
こうしてやっと主体性がでてきたのは、ひとえに産後二年を過ぎて心身と生活に余裕が出てきたことが大きいです。産後二年の間は、それどころじゃなかったから。毎日を生き抜くのに精一杯だったから。
訳もわからず放り込まれた環境で、訳もわからず期待されている通りにこなそうとして、こなせなくて、苦しくて、逃げたくて、逃げられなくて、助けを求めたくて、求められなくて……そんなかんじの産後でした。
自分からそれに相当する行為(結婚や妊娠など)をしているくせに「訳もわからず」って一体何なんだよ、責任転嫁するんじゃないよ、だったら最初からするなよ、という自分自身を責める思いもあります。これは実際に言われたり、誰かが言っているのを耳にしてすっかり自分の中に定着してしまった非難の声。
けれど言葉であらわすのなら、やはり「訳もわからず」がしっくりくるんですよね。
そのあたりの矛盾に説明の光が当たったのが、先日の読書体験でした。
この本を読んで、「結婚後、あるいは産後の女性が突如として直面する生活の変化を受け入れられずに戸惑いを感じることは、現在の社会の構造上ごくごく当然のことなんだ」と認識するに至りました。
「できない」とか「慣れない」とか「抵抗の気持ちがある」とかが、それまではとても恥ずかしくて、情けなくて、落ちこぼれで、生きていく価値がないに等しいこと…と思っていたんです。なんて自分は駄目な人間なんだろうって。
でも、そうなってしまうのは、決して個人の問題に留まる話ではなかった。
社会の仕組みが、そういうふうにできていた。
これは私にとって大きな気づきでした。
自分一人が駄目なんじゃない。自分一人が駄目だと思いつめるほどに追い込んでくる社会のほうに、もっともっと大きな問題があったんだ。
ほんのちょっと、物事を捉える視点が広がったのです。
自分の苦しさばかり見ていたけれど、少し引いて見たら同じような苦しさを抱えている人は案外多くて、さらに引いて見たら苦しんでいる人々は同じ檻の中に閉じ込められていた、かんじ。ああ、こんな檻に囲まれていたら、それは苦しくなって当然だよねと、やっと状況を把握できたかんじ。
それが「見えた」ところで檻から出たり檻自体を無くしてしまうことは容易ではないのですが、まずは「見える」だけでも大きな進歩だと思うのです。
苦しさから少しでも逃れられる可能性に希望を感じられるから。そのための方法を探る手がかりになるから。
すごくここまで抽象的に書きましたが、具体的に現実で解決していくためには具体性が必要不可欠。
けれど「しんどい」ばかりで具体的に問題を洗い出してこられなかったのが、これまで。
少し余裕がでてきたこれからは「しんどい」の正体を言葉にすることで、より具体的に、生活からしんどさを減らしていけたらと思います。
答えを見つけるには、何事も問いを立てるところから。
問いを立てるためには、まずは言葉にして現在地を把握するところから。