エズラ記から 神殿の基礎~ダレイオス王の返事
この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き、
また多くの者が喜びの叫び声をあげた。
冒涜 退廃 を繰り返して滅亡して
再建の基礎が据えられると感情が高揚してしまう ということで
この感情は結局贖罪の可能性に対する集団心理と判断できる
ブログでも内容が自分たちに贖罪の可能性が見いだせるときは
ヒット数が上がりそうじゃないときは下がるということを
漫然と繰り返している
バビロンの捕囚 とは哲学的には選民思想の選民現出のときに
宇宙は始まり選民以外の非選民は無意識により自在に
コンディション アクション をコントロールされることで
最近ではバビロンの捕囚により無意識により強制的に
集団の選民思想が肯定される内容と
選民思想を肯定できるようなアベレージがないような内容に
西側の言動は分離して全体構成のフォーメーションが構成されている
という状態である
ダレイオス王へ、大いなる平和をお祈り申し上げます。
もう1つ考えられるのは存在証明のエントロピーの上昇と
贖罪の可能性の上昇を同一視していることで
存在証明のヴォルテージの上昇=贖罪の可能性の上昇 の感じで
この辺りでは建設の中断とか再開とかいいあっているが
要するにそういうことをやっているように見える
この2つは存在証明のエントロピーに集約されるので
この局面では この地域と同じじゃないか ということになる
そういうことに固執すると実存主義に見えない ということがある
この定めに違反するものはだれであれ、自分の家から抜き取られた
角材にはりつけにし、その家も廃墟とすることを、わたしは命ずる。
知的内容に興味がある様子や競争原理の否定の様子は
デフレーションシフトの自分たちのイニシアティブの内で
反実存主義的で人を騙そうとして誘導しているようにも見えて
自分たちに都合の悪い内容がディーリングされると
途端にブログのヒット数が落ちる結果を構成している
エズラ書から 天国 地獄 が開闢する というような
天国 地獄 の様子がダブルミーンニングで表現されているという
理解で見てみると
身動きのとれない密閉空間内で 強迫観念 被害妄想 に苛まれて
人間は フリーイング→環境 人 からの逃避 を失ない
ファイティング→競争原理 で構成される自意識の原罪による
罪悪感と羞恥の 高揚する天国 放棄される地獄 が構成されて
フォミケーション→性行動 天国そして地獄において
不可避の 地獄 苦痛 天国 快楽 という本来性行動に起因する
存在証明が構成されて
昨日のブログのように脳の視床下部で調整されるこれら4つのFは
表現を構成する概念ではなく
意味を構成する概念にディヴィジョンされて
意味を構成する概念により
本当の意味で 定義付けが自動する→自動詞 を構成して
食事 性 競争 逃避 において
自分のイニシアティブで意味付けする自己論証が必要で
特に フィーディング→食事 という糧食の 真剣 な内容において
フィーディングの度に実はセクシャリティは全肯定されて
論拠を失なう地獄行きの人間は全否定される ということになり
すでに自己論証での糧食の正当性を失なっている地獄行きの人間に
イエスの最後の晩餐はナンセンスにしか機能しないということである
そしてネガティブという意味ではなく
目的のための手段 快楽のためのインフラ という意味で
地獄 生活 の次にセクシャリティは成立して というとき
地獄 生活→糧食 をクリアしていない地獄行きの人間の
ナンセンスは大変なもので 金の器 神殿 も意味がないという
そういう内容が文面に現れていると思う
全くナンセンスだが NOTHING BUT で 地獄 贖罪 に
イニシアティブがあり続ける ということである
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