創世記から ゲラル滞在~アブラハム、イサクをささげる
あなたもあなたの家来も皆、
必ず死ぬことを覚悟せねばならない。
このラウンドでは自意識のイニシアティブはない同然である
長生きしたいと思えば察知されて神に帰属していないと
思われるかもしれない
鶏が金網越しの餌を廻りこんでとれない義憤イメージ以上の
スタイルにはまって死んでいく蟻イメージである
聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう
奇跡がよくあるので常識が違い
何が面白いのか論拠がよくわからない
神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。
疲れて 飽きて だんだん批判的な考えがなくなるか というと
そうではない
1日1日人間はリニューアルされるので毎日批判的である
むしろ ここではおとなしくして皆と同じように宗教的に~
という考え方の方が面白い
じゃあ コンセプト とか アイデンティティ とか
全部理解できていない ということなので
人間としてのスタート地点にいないことになる
本人たちも自分が 面白いか 面白くないか どっちかだと思う
わたしが命じる山の一つに登り、
彼を焼き尽くす捧げ物としてささげなさい
今回コンセプトを変えて 美しい環境の内に存在している と
仮定して考えても想像がつかない
この宗教の寓話の世界が現実で
何を考えているかわからない人間に囲まれた環境だったらどうだろう
その環境の内は 不可避 不可解 不条理 だが
自分から見て 殺人 暴力 はイリーガルであることは理解できる
さらにこの内容から考えて
個人主義 非暴力 のこちらから見て
人選だけはシビアにしないといけないのがわかる
でないと具体性を獲得できなくなるどころか
やればやるほどマイナスということである
集団帰属した人間 とか 全員無罪論を唱える人間 だけは
何をやっても絶対に失敗して環境を面白くなくするので
絶対にいらない ということである
近況
映像の世紀 の動画を見ました