ファイナルディスティネーション~映像の世紀
ファイナルディスティネーションを観ているとアクシデントは
どれも現在の社会においてリアリティがある
人によったら現実の毎日の事故の少ない事実が
フィクションに見えているだろう
ここはこう出来ているはずだ と
ハンバーガーを食べて指についた唾液は気にしないが
そのコントロールの甘さはほとんどの個人に該当して
悪い予感だけよく当たる というときに
あまりにもアクシデントが少ない気がする
その後にリンクしていた 映像の世紀 の動画を見る
印パ紛争による結果独立
中国対立による結果独立
それは 当事者 近景 が強いということで
国家の独立はこういうパターンが多い
じゃあ 当事者 近景 で身内攻撃を始めたらどうなるだろう
アドリブで自国を攻撃し出す身内
そうなったら何が結果成立するだろう
EUはすでにこれは考えていると思う
携帯電話により 個人の権限→不可侵の時間 が
レコグナイズされたからだ
これを防ぐには万難排して鉄の結束をするしかない
しかも世界レベルでだ
特に比較的勉強している人間は個人のエゴがあると思うので
よほど能力がない個人の集団でないと達成できないと思う
普通に考えればガンジーのような人間はごく少数で
大抵は日常の持続的な条件と一過性の条件を天秤にかけて
このケースでは身内攻撃したほうが
もはや 大衆的 今日的 だと判断しかねない
セブンイヤーチベットの人相は個人の行為と捉えようとするが
そうではなく身内攻撃は不特定の行為で理解される
個人の行為と捉えようとする集団ほど面白くないので嫌われる
社会は変わってもそういう ドラッガー→引くこと をしない
個人 人相 がいる限り 面白くない ということである
時代精神のわからない 具体性のない が
セブンイヤーチベットの人相のメインファクトである
パーパスな は具体性のない故の場当たりで
同様に具体性のない故の
喧嘩 約束 仲直り 言い訳 その代わり 水くさいぞ なのが
理解できる
セブンイヤーチベットの人相の本質は
自分たちに具体性があるのか?
本当にやりたいことなどないはず を前提にした
ガンジーのような人間性ということが理解できる
近況
ランニングをしました