どもどもカタールおじさんです。
最近、日本語で紹介されたカタールの歴史をいろいろと見ているのですが、もともとの資料がハッキリしていないせいか、どの記事も、微妙に内容が違っています。
でもまあ、しようがないのでボチボチ行きたいと思います。
今回は「カタールの歴史をたどってみよう!」と題しているものの、ありようはアール・サーニー家の歴史ですな。うん。
実際、カタールの歴史といっても、18世紀以前のものってあんまりはっきりしていなくて、地図でさえも、カタール半島が記載されていないのなんてザラにあります。
1707年のアラビア半島の地図
けっこうしっかり書いてある。
(でも拡大してみると…)
バーレーンでさえ書いてあるのに、カタールが
存在してない!
てなわけで、そもそも場所さえもハッキリしていないところに、きちんとした歴史の記載があるってわけもないので、ある程度資料の残っているアール・サーニー家から始めようってわけです。
で、初回は一応初代って事になっているモハメッド・ビン・サーニーさんから。
おじいさんの方がモハメッドさんです。
生まれたのが1788年ってことになっていますので、日本でいえば江戸時代は天明年間、ざっと田沼意次の活躍した時代であります。
田沼意次(1788年没)
奥さんの名前がヌーラ・アル・クワーリー夫人。
おお!クワーリーって、今(2014年)の文化大臣と同じ名前じゃないですか! うーんやはり名門部族なのでしょうね。
みなさん、突然ですが左手を出して、手のひらを見てください。指はくっつけたままでお願いします。
これがカタール半島です。小指の付け根くらいがドーハです。
くすり指の先端あたりが、フワイリットという街(現在はごく小さな漁村)になりますが、モハメッドさんはここで、時のカタールのハーキム(統治者)の次男として生まれたそうです。
このときの生活についてはよく分かりませんが、モハメッドさん59歳の年、1847年にドーハに一族をあげて引っ越しをします。
何かあったんですかね?
ちなみにカタール美術館庁(QMA)の資料では、この年をもって即位したとしてあります。
即位したから引っ越したのか、引っ越したから即位したのかは不明です。
そんなこんなでモハメッドさんは勢力を拡大し、カタール半島全体を支配下におくようになりました。
対外的にも、第2次サウジ王国のファイサル・ビン・トゥルキーと同盟を結んでその地位を強固なモノにしていきます。
サウジ王のファイサル・ビン・トゥルキーも1851年にはカタールを訪問しているとのことですが、サウジ側からの資料によれば、カタール半島も第2次サウジ王国の勢力範囲に入っていまして、どうもカタールから見れば「同盟者」、サウジ側から見れば「勢力下の優勢な部族長」といった、あいまいな状況になってるように見えます。まあ、持ちつ持たれつってとこでしょうか。
もっとも、この第2次サウジ王国も、その後いろいろあって、結局内紛等で滅亡しちゃいます。
で、クウェートに逃げていた一族が1902年にリヤドを奪還して、現在のサウジアラビアに繋がっていきます。
さて
「カタールの歴史」なんかで検索すると、「1868年、独立を果たし」だとか、「イギリスとの条約によりサーニー家の支配権が確立しました」だとか「バーレーンから分離し、…」等、でてきます。
具体的にはどんなことがあったのかというと、1868年9月12日、時の英国ペルシア湾代理総督ペリー大佐とモハメッドさんが「カタールの自立を承認する」条約に調印したということです。
じゃあ、何でイギリスと条約を結んだのかって話になりますが、これまた長い話があります。
「アラブの海賊」って話があります。まあ、主に現在のペルシア湾岸の各首長国が1800年代初頭に、ペルシア湾でバカスカ海賊行為を行っていて、これに手を焼いたイギリス海軍(インドのボンベイ拠点)が戦争を行って、「今後は海賊しないようにして、休戦条約を結ぼう」ってことになりました。
なので、UAEは独立前は「休戦海岸」なーんて呼ばれていたわけです。
こうした時代背景のなか、1860年代になると、カタールとバーレーンとの間で小競り合いが頻発して、関係がどんどん悪化していきます。
そんな中の1867年、カタール半島に駐留していたバーレーンの守備隊が、カタールのベドウィンを逮捕して、バーレーンに連れ去ってしまうという事件が発生します。
これに憤慨したカタールの部族が、バーレーン守備隊を攻撃して、バーレーン守備隊を半島から駆逐してしまいます。
翌1868年10月、こんどはバーレーンが、カタールを攻撃するために、2000人の兵士を、同盟国のアブダビに派遣します。
バーレーンとアブダビの連合軍は、ドーハ(当時はアル・ビダと呼んでいたらしいです)と、その南部の都市アル・ワクラを襲撃しますが、カタール軍の反撃に遭い、結局は死者数1000名、60艘のダウ船が破壊され、攻撃は失敗に終わりました。
この紛争を受け、英国のペルシア湾岸代理総督のペリー大佐は、バーレーンに対して「休戦条約違反についての非難」と「賠償金の支払い」を求める通知を送付します。
バーレーンでは、時の君主、モハメッド・アル・ハリーファが隠遁し、英国の指名によって、弟のアリが即位します。
それまで(1867年以前)、英国はカタールを、バーレーンの保護領と見なしていたのですが、この紛争を通じ、アール・サーニー家による支配権を認めることとなります。
ただ、独立と言うにはどうでしょうか。英文では「semi-independent political unit in Qatar」という表現を使用していますので、やはり支配権を確立したという程度にとどめるべきなのでしょう。
話は戻りますが、1868年、ペリー大佐がカタールを訪問し、モハメッドさんと条約を締結しました。その締結内容は「バーレーンはカタール本土に対する統治権を放棄する」旨が盛り込まれ、ここにカタールのアール・サーニー家の支配権が確立しました。
モハメッドさんは1878年12月18日に天寿を全うし崩御しました。
はい、この12月18日。そうですカタール・ナショナル・デーです。別にモハメッドさんの崩御をお祝いしてではなく、次のジャーシムさんの即位を記念しての祝日です。
次回はいよいよ、カタール建国の英雄、ジャーシムさんの出番です。