サムブークでございます。

ときどきサブークと書かれることもありますね。一応ここではカタール美術館庁(QMA)の資料に従ってサブークにします。


いまカタールで目にするのはもっぱらこれですね。

お土産の模型だとか、カタール人のオフィスに飾ってある模型なんかは大部分がサムブークというタイプのダウ船になります。


                   
                             サムブーク


え?前回のブームとの違いが分かりにくいですか?

最大のポイントは、船尾がすとんと切り落とされた形になっていることです。船を真上から見下ろすと△の形になっているということです。

ちなみにブームは◇ですな。


                   

はい、ここです。分かります?


もう一度見てみますと…
                      

こんなふうに船尾が切り落とされたタイプがサムブークで、


                   

しゅうーっととんがっているのがブームです。


このサムブークは、ずいぶんと使い勝手がよい船らしく、ウィキペディアの説明によると「It has been one of the most successful dhows in histry. (最も成功したダウ船のひとつ)」なんて説明がされています。


ダウ船の起源っていうのは、実はよく分かってないらしいのですけど、どうも紀元前600年から1000年くらいかけて中国あたりからの影響で出来上がったらしいんですね。


でもこのサムブークについては、どうもポルトガル船の影響が出ている見たいです。

基本的には貨客船のマルチタイプなのですが、真珠採取にも盛んに使われたようで、真珠採取の古写真を見るとたくさんサムブークが出ています。


                  


ブームなんかは、外洋に出るのでインドやアフリカ東岸あたりでも見ることがあるらしいのですが、サムブークは中型船で、カタールをはじめとして湾岸諸国、イエメンを経て紅海あたりまで見られます。

真珠取りにも使用されていたもあって、まさにペルシア湾の主役といってもいいのではないでしょうか。


                  

                         サムブークのデッキ


ブーム到来です。


って、ダウ船の話なんですけどね。

英語で書いたらBoumだとかBoom。数あるダウ船の種類の一つで、わりあいとドーハでも目にするタイプです。


                 

                          ブームです。

                 
                 
                    ちょっと大きめの、これもブーム。


ブームの特徴はすぐに分かります。

船尾が、船首と同じようにとんがっていることです。他のタイプのダウ船は、船尾がストンと切り落とされたような切り妻タイプになっているのが多いのですが、ブームだけは、前も後もとんがっていて、笹舟のような形をしています。


ちょうどブームの模型が展示してあるレストランがあったので、写真を撮ってしまいました。カメラ


                 

              前は、もちろんとがって、波を切るようになっています。


                 
         で、お尻も船首と同じように、ヒュッとすぼまった形になってますね。


このブームは大きさが10~25m程度の中型のダウ船で、クウェートの国章にも入っています。

主に商品輸送に使われたほか、一部で真珠の採取にも使われていたそうで、だいたい15人から40人くらいが乗り込んでいたみたいです。


クウェートでは、このブームに対する思い入れが強いみたいで、クウェートの科学センター博物館にもブームの実物(約20m、95トン)が展示されています。


科学センター(Scientific Center, Kuwait)のHPはこちらです。

http://www.tsck.org.kw/detailPage.aspx?id=3&PageId=16


カタールでも、イスラム芸術博物館わきの、MIAパークに、カタール美術館庁が所有するさまざまなタイプのダウ船が展示されています。

こちらは見るだけで、中には入れないのが残念です。

                  
                  

                             MIAパーク  


よしよし、これで今週の更新ノルマも達成!

さぼらないように更新、がんばります。 f^_^;      


はい、ダウ船です。



                  

で、そもそもダウ船って何よ?って話ですが、定義はいくつかあって

・ まずアラブ~インド、場合によってはアフリカ東海岸で使用

・ 帆が三角帆

・ 釘を使わず、タールや紐で固定してある

なんだそうです。


だもんで、カタールを紹介する本なんかですと、「釘を使用しないので、どこでも簡単に補修か可能であった」なーんて書いてあります。


が…、釘を使わないって、何で?ってことです。


調べてみると、やっぱりちゃんと理由があるのですね。

船体を作るのはもちろん木材です。


                  

                          木が生えてねー!


うーん、この状況じゃ、良質の木材を大量に準備するのは不可能なんですね。

無いんですよ。木が。


もっと言えば「釘」ってもちろん鉄でありまして、鉄を作るには、溶かすために燃料として大量の木材が必要になってきます。


つまり、釘を使わなかったっていういうよりも、使えなかったという方が正しそうです。

まあ紐を使うことで、修理が簡単だというのは、もちろん大きな利点でもあったのでしょうが。


大型の外洋船(バグラだとかバッガラという船)だとチーク材も使われていたようですが、多くのダウ船はアラビア半島でも多くあるナツメヤシとかが使われていたようです。


                   


このナツメヤシは、釘を使うと割れちゃって、釘には不向きらしいデス。

どーも、カタールおじさんです。


約2週間、更新をさぼっていました。でもアレですね。仕事でもそうですが、しばらく放っておくと再開するのが面倒になるというか、何というか…。


さて、アラブといったらダウ船。

カタールやクウェートの国章にもその姿が描かれていますね。


                       

               カタールの国章               クウェートの国章


       

ダウ船といったら、やはりそのイメージは大きな三角帆ですかね。

船の世界では、あの三角の帆は、ラテン・セイルだとかラティーン・セイルだとかいうそうのですが、実はあの形が船の歴史では画期的な発明だったらしいです。


帆を横に張って、追い風を受けて前に進む。

これは単純で、簡単で誰にでも思いつきそうです。


でも、でもですよ、進行方向に向かって縦だとか、斜めに帆を張るという発想。これがスゴいらしいんですな。


                  


何がすごいのかって、向かい風でも前に進むことが出来るんだそうです。


さっきも書いたのですが、横の帆だと、後からの風がないかぎり前には進めません。

至極単純明快ですね。


で、帆を縦に張るとどうなるかというと、前からの風でも、これを斜めに受け流すことで、反作用の法則で、船は斜め前に進むことができるんです。

こうして帆を右と左に張り替えることで、直線的にまっすぐではないにせよ、ジグザグに前に進めるんですね。

おおー、スゲー!


一説には、このダウ船の三角帆の影響を受け、西洋の帆船も、マストから、船首部分に三角帆を張るようになったとのことです。


ダウ船は現地のアラブ人はダウ船とは呼ばないとのこと。

もともとは西洋人が、アラブの船をひっくるめてダウ船と呼ぶようになったのであり、現地では、その船の大きさや用途によって呼び方が「ブーム」だとか、「サムブーク」だとか変わるんだそうです。


でも、まあアラブ人に「ダウ船」といっても普通に通じますけどね。


今日はここまでに。

うん、更新することに意味があるのです。

どもどもカタールおじさんです。


最近、日本語で紹介されたカタールの歴史をいろいろと見ているのですが、もともとの資料がハッキリしていないせいか、どの記事も、微妙に内容が違っています。


でもまあ、しようがないのでボチボチ行きたいと思います。

今回は「カタールの歴史をたどってみよう!」と題しているものの、ありようはアール・サーニー家の歴史ですな。うん。


実際、カタールの歴史といっても、18世紀以前のものってあんまりはっきりしていなくて、地図でさえも、カタール半島が記載されていないのなんてザラにあります。


             

             1707年のアラビア半島の地図

             けっこうしっかり書いてある。



             

             (でも拡大してみると…)

             バーレーンでさえ書いてあるのに、カタールが

             存在してない!


てなわけで、そもそも場所さえもハッキリしていないところに、きちんとした歴史の記載があるってわけもないので、ある程度資料の残っているアール・サーニー家から始めようってわけです。


で、初回は一応初代って事になっているモハメッド・ビン・サーニーさんから。


             

             おじいさんの方がモハメッドさんです。


生まれたのが1788年ってことになっていますので、日本でいえば江戸時代は天明年間、ざっと田沼意次の活躍した時代であります。


             

             田沼意次(1788年没)


奥さんの名前がヌーラ・アル・クワーリー夫人。

おお!クワーリーって、今(2014年)の文化大臣と同じ名前じゃないですか! うーんやはり名門部族なのでしょうね。


みなさん、突然ですが左手を出して、手のひらを見てください。指はくっつけたままでお願いします。

これがカタール半島です。小指の付け根くらいがドーハです。


くすり指の先端あたりが、フワイリットという街(現在はごく小さな漁村)になりますが、モハメッドさんはここで、時のカタールのハーキム(統治者)の次男として生まれたそうです。


このときの生活についてはよく分かりませんが、モハメッドさん59歳の年、1847年にドーハに一族をあげて引っ越しをします。

何かあったんですかね?

ちなみにカタール美術館庁(QMA)の資料では、この年をもって即位したとしてあります。

即位したから引っ越したのか、引っ越したから即位したのかは不明です。


そんなこんなでモハメッドさんは勢力を拡大し、カタール半島全体を支配下におくようになりました。


対外的にも、第2次サウジ王国のファイサル・ビン・トゥルキーと同盟を結んでその地位を強固なモノにしていきます。

サウジ王のファイサル・ビン・トゥルキーも1851年にはカタールを訪問しているとのことですが、サウジ側からの資料によれば、カタール半島も第2次サウジ王国の勢力範囲に入っていまして、どうもカタールから見れば「同盟者」、サウジ側から見れば「勢力下の優勢な部族長」といった、あいまいな状況になってるように見えます。まあ、持ちつ持たれつってとこでしょうか。


もっとも、この第2次サウジ王国も、その後いろいろあって、結局内紛等で滅亡しちゃいます。

で、クウェートに逃げていた一族が1902年にリヤドを奪還して、現在のサウジアラビアに繋がっていきます。


さて

「カタールの歴史」なんかで検索すると、「1868年、独立を果たし」だとか、「イギリスとの条約によりサーニー家の支配権が確立しました」だとか「バーレーンから分離し、…」等、でてきます。

具体的にはどんなことがあったのかというと、1868年9月12日、時の英国ペルシア湾代理総督ペリー大佐とモハメッドさんが「カタールの自立を承認する」条約に調印したということです。


               


じゃあ、何でイギリスと条約を結んだのかって話になりますが、これまた長い話があります。


「アラブの海賊」って話があります。まあ、主に現在のペルシア湾岸の各首長国が1800年代初頭に、ペルシア湾でバカスカ海賊行為を行っていて、これに手を焼いたイギリス海軍(インドのボンベイ拠点)が戦争を行って、「今後は海賊しないようにして、休戦条約を結ぼう」ってことになりました。


なので、UAEは独立前は「休戦海岸」なーんて呼ばれていたわけです。


こうした時代背景のなか、1860年代になると、カタールとバーレーンとの間で小競り合いが頻発して、関係がどんどん悪化していきます。

そんな中の1867年、カタール半島に駐留していたバーレーンの守備隊が、カタールのベドウィンを逮捕して、バーレーンに連れ去ってしまうという事件が発生します。


これに憤慨したカタールの部族が、バーレーン守備隊を攻撃して、バーレーン守備隊を半島から駆逐してしまいます。


翌1868年10月、こんどはバーレーンが、カタールを攻撃するために、2000人の兵士を、同盟国のアブダビに派遣します。


バーレーンとアブダビの連合軍は、ドーハ(当時はアル・ビダと呼んでいたらしいです)と、その南部の都市アル・ワクラを襲撃しますが、カタール軍の反撃に遭い、結局は死者数1000名、60艘のダウ船が破壊され、攻撃は失敗に終わりました。


この紛争を受け、英国のペルシア湾岸代理総督のペリー大佐は、バーレーンに対して「休戦条約違反についての非難」と「賠償金の支払い」を求める通知を送付します。

バーレーンでは、時の君主、モハメッド・アル・ハリーファが隠遁し、英国の指名によって、弟のアリが即位します。

それまで(1867年以前)、英国はカタールを、バーレーンの保護領と見なしていたのですが、この紛争を通じ、アール・サーニー家による支配権を認めることとなります。


ただ、独立と言うにはどうでしょうか。英文では「semi-independent political unit in Qatar」という表現を使用していますので、やはり支配権を確立したという程度にとどめるべきなのでしょう。


話は戻りますが、1868年、ペリー大佐がカタールを訪問し、モハメッドさんと条約を締結しました。その締結内容は「バーレーンはカタール本土に対する統治権を放棄する」旨が盛り込まれ、ここにカタールのアール・サーニー家の支配権が確立しました。


モハメッドさんは1878年12月18日に天寿を全うし崩御しました。

はい、この12月18日。そうですカタール・ナショナル・デーです。別にモハメッドさんの崩御をお祝いしてではなく、次のジャーシムさんの即位を記念しての祝日です。


次回はいよいよ、カタール建国の英雄、ジャーシムさんの出番です。

ども、カタールおじさんです。



2014年1月末までカタラ文化村でシェイク・アブドラ・ビン・ジャーシム・アール・サーニー展をやっているということで、行ってきました。


カタールの首長家は、もちろんAl Thani家なんですけど、この Al はアラビア語の定冠詞のアルではないので、発音はアールなんですね。外務省のWebでも「アール」と記載されています。


それから、アラブ人の名前の付け方ですが、○○の子の○△の子の誰々と、ずらずらずらーっと父親の名前を後につなげていきます。

「~の息子」の場合はビン、「~の娘」の場合はビントになります。


ですので何でもいいのですが、例えば、自分の名前が太郎、父親が一郎、祖父が五郎で、世田谷部族出身だったりしますと、名前は「タロウ・ビン・イチロウ・ビン・ゴロウ・アル・セタガヤ」だとか、「タロウ・I・ G・アル・セタガヤ」なんてなったりします。

まあ、いろいろと例外はあるらしいですが…。


仕事をしていて困るのが、相手の呼び方。

アラブ人同士は、上司だろうが部下だろうが、あまり敬称にこだわりなく「ハマッド!」だとか「アリ!」だとか呼び合っているようで、別にMr.だとかの敬称はつけていないようです。(…に感じます)

でも、我々日本人は、いきなり相手を「アフマッド!」と呼びかけることは、何となく憚られるし、かといってファーストネームにMr.をつけるのもなんだかなあという感じです。

どなたか、正しいアラブ人への呼びかけのマナーをご存じの方、コメント下さい。


なお結婚しても、ご先祖様の名前が変わることはないので、夫婦は別姓です。


ご存じ現在のカタール首長は

・ タミーム・ビン・ハマド・アール・サーニー首長(2013~)

です。で、父君は当然

・ ハマド・ビン・ハリーファ・アール・サーニー首長(1995~2013)

その先代は

・ ハリーファ・ビン・ハマド・アール・サーニー首長(1972~1995)

となります。

    ↑

   ↑  ここから先は、ちょっと傍系にはいります。

   ↑  ・ アフメド・ビン・アリ・アール・サーニー首長(1960~1972)

   ↑                        ↑

   ↑  ・ アリ・ビン・アブドラー・アール・サーニー首長(1949~1960)

   ↑                        ↑

( ハマド・ビン・アブドラー・アール・サーニー殿下 ) ↑                                                   

                            ↑

    ・ アブドラー・ビン・ジャーシム・アール・サーニー首長(1913~1949) 

                    

                  ↑

    ・ ジャーシム・ビン・モハメッド・アール・サーニー首長(1878~1913)  

                  ↑

    ・ モハメッド・ビン・サーニー(1847~1878)

           

           初代のモハメッド。子供がジャーシム

           さんかはどうかは不明です。


この2代目のジャーシムさんがカタールの建国の英雄で、バーレーンの人質になったり、いろいろすったもんだの挙げ句、オスマントルコ軍を撃破して独立を守っただとかなんとかだということで、ジャーシムさんが即位した12月18日が、カタールの祝日(カタール・ナショナル・デー)になっています。

こんにちは、カタールおじさんです。


前回、意外に簡単にバルザン・タワーまで行けちゃいましたので、今回はウム・スラル・モハメッド砦に目標を設定しました。


で、例によってウム・スラル・モハメッド砦(Umm Slal Mohammed Fort)ってどこって話です。

カタール在住者必携の書「MARHABA」によれば、「ドーハの北方約20Kmに位置する。この要塞は行政、軍事双方の目的で、19世紀末から20世紀初頭にかけて建設された。」


…そうかあ。ドーハの北方約20Kmね。

ざっくりすぎてわからん。別の資料を探してみよう。


あ、なんだ「地球の歩き方」に出てんじゃん。って、これも写真無し、文章だけでドーハの北20キロのところとだけとさらっと。具体的な行き方の説明は無し。

でも「地球の歩き方」の編集者、すごいな。ここまで来たのかな?


結局わからん。

こんな時は、ネットで検索。

英文もあわせて検索しましたが、どーも「ズバリこれ!」って記事が出てこない。ひどいのになると、前回行ったバルザン・タワーが紹介されていたりして、情報が錯綜しています。


でもガイドブックだとかQMA(カタール美術館庁)のHPには写真が載っているくらいだから、どこかに存在しているのは間違いないはず。

あれ?そういえば前回、バルザン・タワーの場所を調べていたら、「バルザン・タワーは、シェイク・モハメッド砦の約1.5キロの所に所在する」ってあったような気が。

ひょっとしてこのシェイク・モハメッド砦のことか?


グーグル・マップでバルザンタワーの近くを調べてみたところ、ありました。

バルザン・タワーまでの行き方は前回と一緒。で、バルザン・タワーの南前を東西に走る道を西進して突き当たった先が、こんもりとした丘みたになっていて、衛星写真ではどーも要塞っぽいものが映っています。



実際に行ってみました。

バルザン・タワーの手前から入って、しばらく行きますと、街並みの向こうに、ちょこんとタワーの頭がみえます。おー、あるじゃん。ここだよと1人興奮です。

が、ウム・スラル・モハメッド砦周辺は工事用の柵がぐるりと巡らされていて、入れない。

ぜーったい部外者は入れないぞってくらいの勢いで、柵があります。

どうも修復工事中らしい。



柵の切れ目を探して、北上すると、ウム・スラル・モハメッド砦から随分離れてしまいました。

うーむ、すぐそこに見えるのに入れないとは想定外。

(でもカタールの常識では、ままある話です)


とりあえず周辺道路から、裏手にまわってみた。


…って、修復工事どころか、ばりばり「新築」してんじゃん!

あー、こりゃ当分だめそうですね。

ガイドブックの写真では、世界遺産のズバラ・フォートよりも大きそうな砦だったのに残念。





で、このエリアには、天然のオアシスがあり、デーツ林をはじめとして、各種農業が行われていたそうです。エリア内には伝統的な方式による灌漑用水もあったようです。

時の支配者、モハメッド・ビン・ジャーシム・アール・サーニー首長によって19世紀末に建設されたとのこと。

つまりは、このウム・スラル・モハメッド砦も、近くのバルザン・タワーも、水利確保ための軍事施設ってところなんですかね。

というか、このあたり一帯はウム・スラル・モハメッド砦の敷地内であって、バルザン・タワーはその一部(出城)といった方が合っているかも知れません。

こんなに近くに別々の砦を作る必要がありませんよね。だとすれば、ネット等での情報の錯綜というか、ウム・スラル・モハメッド砦=バルザン・タワーといった混同も理解できます。

何か情報があれば教えて下さい。

次はどこにしようかなあ。



第1回目のツアーはドーハの北にあるというバルザン・タワー(the Burj Burzan Fort)に行ってきました。

バルザン・タワーは、ときどき写真になんかも使われていて、まあ有名なんですが、「じゃあー、それ、どこあんのよ」と言われてもよくわからない。


とりあえず、カタール在住者の必携書「MARHABA」でチェック。

「2つの塔はウム・スラル・モハメッドに建っている。バルザン・タワーは、19世紀末に建てられ、独特のT字型をしている長方形の建物は3階建てで、外部に階段が設置してある。修復は終了済み。」


…場所がわからない。

てか、ウム・スラル・モハメッドってどこ?


別のガイドブックでは

「バルザン・タワーは、カタールで最も重要なものの一つである物見塔が設置してあり、シェイク・モハメッド要塞の西方、約1.5Kmに位置する。」

うーん、わからない。


結局、外国人のブログで、だいたいのあたりをつけ、グーグルマップの写真で、割り出しました。

ドーハからDリングロードで北に向かい、IKEAを過ぎたら、次の出口(Umm Slal Mohammed方向)で降ります。

高速道路の上を跨線橋で反対側(西側)に渡って、最初のかわいらしいランドアバウト(ロータリー)を右折。

住宅街を北上すると、視界が開け、またランドアバウトがあるので、10時の方向(左斜め上)に抜けます。

最初の右折を入り、直進すると5分くらいで到着です。




地元学校の隣です。

ウェスト・ベイ地区からだと、だいたい30分くらいでしょうか。



モスクの前に入り口があり、小屋におじさんがいます。声を掛けると、ノートに名前と国籍、人数を書くようにいわれます。入場料はありません。

このノートを見ると、一日に3~4グループ程度来訪者があるみたいです。


このバルザン・タワーは、軍事・行政双方の目的で使用され、近くのため池の監視をしていたようです。

バルザン・タワー内部


内部はがらんとしていて、とくに観るべきものもありません。

屋上まであがっても、胸壁が高くて外をのぞき見ることもできません。

うーん、見学時間はどんな粘っても30分が限度でしょうか。



はじめまして。カタールおじさんです。

カタールに昨日今日来たばかりの、カタール歴ひよっ子の小僧です。


こんなとことありませんか?

出張者(えらい人)  「そうかあ、○○君もすっかりドーハに馴染んでいるようだね」

Qおじさん       「ええ、まあ」

出張者        「ところで、あのビル、面白いかたちだねえ。あれ何?」

Qおじさん       「…え?」


知り合い       「今度、カタール行くんだけど、遊びに行っていい?」

Qおじさん       「おー。来てきて!」

知り合い       「どっか、イイ場所あるかな?」

Qおじさん       「…え?」


…みなさん、ここはロンドンやNYのような観光地じゃありません。そんなときに何気なく蹴り込まれる質問のキラーキック。ああ~、答えられない。


んで、いろいろカタールの歴史とか、観光地だとか、出張者の皆様と一緒の車内でも、さりげなく繰り出せるカタールうんちくを、書きたいと思います。

不定期です。


それから、いろいろな一応いろいろな資料に基づいてうんちくを書こうとは思いますが、学術的なブログではありませんので、間違っているかも知れません。

お気づきの方は、コメントで訂正とか、追加情報を書いて頂ければ嬉しいです。


どーぞ、よろしくお願いいたします。