私は三島由紀夫は好きではない。

しかも「サド侯爵夫人」などというテーマはゴメンだ・・・といつもなら避けていた舞台です。

なのに珍しく見たいと思ったのは、宮本亜門さんが演出で、成宮寛貴・東出昌大というSNSを騒がせた上、しばらく芸能界から消えていた人たちと組んで、男性6人で女性だけが登場する舞台をすると知ったからです。

そこにどんなメッセージがあるんだろう?

 

2時間あまりの舞台を、6人の役者がしゃべりに喋っていました。

昔の日本の丁寧な言葉のもつ響きの美しさと、リズム感のある台詞回しが心地よく、ずっと引き込まれて最後まで見ることができました。大成功の舞台だったと思います。

面白かった。

 

サド侯爵夫人ルネは夫が乱行や暴行の罪で牢獄に入れられても、「私は彼の貞淑な妻です」といい続け、母親が別れるよう勧めても決して別れようとはしません。

それどころか、彼を庇い、彼の正当性を信じ続けています。

サド公爵は19年という長い間、牢獄に入れられたままでした。

ルネはずっと彼に会いにいき続け、彼の貞淑な妻であり続けます。

彼は牢獄の中でも、背徳的な小説を書き続けています。

 

時は流れ19年経ち、フランス革命が起こります。

価値観がすっかり変わろうとしている。

そこにサド侯爵はある小説を書きました。

それを読んで、ルネは夫が自分をどのように見ているか気づくのです。

悪徳を貫く姉は幸せになり、美徳を守り続ける妹はどんどん不幸になり死んでいく。

 

それを読んでルネは気づくのですね。

夫サドが悪徳の象徴であり、自分が美徳を守っている側の人間だと。

そこで彼女からパタっと落ちていくものがあります。

ずっと守り続けてきた「貞淑な妻」です。

彼女は、19年経ってようやく牢獄から出てきた夫に会いもせず、会うことを拒否し、自身は尼僧になる決意を固めるところで終わります。

けれど、舞台はそんなに単純ではありません。

三島はルネにこう言わせています。

「自分たちは、彼(サド公爵)が作り出した世界にいる」と。

 

 

舞台のことを書いておきます。

6人の女性たちを男優だけで作ったのは大成功でした。

女性にも男性にも偏らず、さりとて中性的でもなく、人という存在そのものとして見ることができたところがとても良かった。

だから、登場人物6人が際立って、人として迫ってきました。

 

面白かったのは三浦涼介・大鶴佐助という私が知らない役者さん二人が素晴らしくうまく、対照的な女性を「女性的に演じていた」のに対し、東出昌大・加藤雅也の二人の役者はそこまで女っぽく演じるのではなく男性性も残していると感じたことです。

演出の亜門さんはそこをどう考えられたのでしょうか?

私は、どちらかに寄せようとは思わなかったということなのだと解釈しました。

役者たちが舞台上でいきいき存在感を持って演じていること、膨大なセリフを体の奥から発すること、それらの方が大切だったのではないかしら・・と。

だから、全員が生きていました。

 

サド侯爵夫人役は成宮寛貴さんでした。

みんなが黒い衣装なのに、彼だけは真っ白。

しかも、襟は立って前はぴったり詰まっていて、まるで修道僧のような衣装でした。

貞淑な妻という言い方にぴったりの衣装です。

けれど、最後の最後に、ルネは全て脱ぎ捨ててしまいます。

舞台上で成宮さんは後ろ姿ですが、全裸になって 光の当たるところで立ち尽くしていました。

とても象徴的な終わり方でした。

 

濃厚なのに重くなりすぎないのは宮本亜門さんの個性かなと思います。

きっと人を信じ、人の持つ力を信じ、美徳も悪徳も持ち合わせた私たちの存在そのものを愛している人なのだろうと思ったのです。

大成功の舞台でした。

見にいけて良かった。

 

一晩経って、今朝一番に思うこと。

宮本亜門さんの懐の深さと そこから滲み出る「人への愛情のような温かいエネルギー」です。

そして、そこに6人の役者さんが全身全霊で応えていました。

素晴らしい舞台でした。

嬉しい出会いになりました。

 

 

 

 

 

私は発表会にルンバで出るのですが、二回目の参加なので1分半 踊らないといけません。

一回目、ワルツで1分。

このワルツがね、覚えるのが大変で大変で。

立ったの1分なのにね、初めてのことは本当に大変。

 

自分の脳細胞が こんなにも「覚える」ということに特化して(?)ぼんやりになっているとは‼️と驚くくらい覚えるのが大変でした。大変すぎて、ずっとケラケラと笑っちゃいましたけれどね😀

 

今度は1分半にもなるのでビビっていましたら、先生が音楽のイントロにあたる部分にダンスのイントロのような部分をつけてくださったので、まあ、かなりホッとしています

しかも私のことを考えてくださって、かなり運動量がすくない振り付けになっています。

ホッDASH!

 

昨年はずっと、立ち方、足の運び方(ルンバは特殊な運び方をしますので)などを習ってばかりでした。

で、昨日ですよ。

今度は「肘の位置」「肘の力の抜き方」だけで約1時間‼️

 

私はスポーツジムなどでずっとバレエのレッスンを受けていました。

バレエは左右同じ動きをするので、体を整えるのに一番いいと思って。

で、バレエでは肘は下を向いたらいけません。

肘が垂れるととんでもなくカッコ悪くなるのです。

だから、体は肘を横に張るような動きに慣れています。

ところが、ルンバでは肘は下を向いていなければなりません。

昨日はずっとその訂正。

肘を張るということは力が入っているということです。

けれど、先生から「力を抜いて」と言われます。

私の場合下手に力を入れると肩まで上がって、とっても不格好になるのですが、そういう人間なので。。。。。

 

いろんな状況をずっと力を入れて乗り越えてきたので、実は寝ている時まで気合を入れていて、朝身体中が力が入った状態でガチガチになっていることも多々あります。

起きた時には「あ〜、疲れた」という感じ。

 

ダンス的には、「動きの前」の段階からなかなか抜けられていないので、これから振り付けを覚えられるのかとか、間に合うのかなという不安もあるし、踊っている人たちが羨ましくもあるし。。。

けれど、昨日は ちゃんと「肘の位置」を会得したいと思いました。

そうしたら、普段の私も力を抜いて生きることができて、楽になるはずだからです。

 

ああ、こうしていても、また肩に力が入って持ち上がってきています。

毎日、とにかく、腕の力を抜くこと。

肩が持ち上がらないようにすること。

そして肘の位置。

これらを思い出すたびに確認するようにして、ダンスの前に、日々の暮らしを楽しく楽に、過ごせるようにしようっと〜‼️

と思っています。

 

あのね。

先生が肘を持って「力を抜いて」と言われます。

力を抜きました。

すると先生に「今度は下向きに力が入っています」と言われました。

「ほら」

と、先生が手をのけると私の体がドット下に落ちます。

ね〜〜〜。不自由な人間でしょう?

力を抜いてと言われたら、今度は下向けに力が入る・・・。

こんな単純なことができない。

こんな時、私は自分の生きてきたこと、してきたこと、性格や性分がどんなかということに出逢います。

意識と体が結構離れちゃっていますね。

 

歌もそうでした。

録音を聴いたら、自分がどんな人間かわかりました。

それで、続いていた部分も結構あるのです。

 

ダンスもまた、私を知るとてもいい鏡になっています。

先生のおかげです。

 

 

 

坪内稔典さんの主宰する句会に月に一回参加しています。

彼は毎日「窓と窓」というブログを書いています。

最近は なんと言っても句会が楽しいのだ・・・ということを何度も書かれています。

 

本当にそうなのです。

私が俳句を続けている大きな理由です。

「生(なま)」であるということがとっても大切な人間なので。

 

けれど、句会ではちょこちょこストレスが溜まる。

それは 読む側の人たちが作句者の感性を否定するような言い方をした時です。

私はこのことに関しては、その人がそう感じたことまで否定するのは受け入れられないと感じています。

だって、その人はそうなんですもの。

その上で「私はそのように感じることはない」という風に言うべきかと。

だって、自分がせまっ苦しい感性のまま生きているかもしれませんからね。

 

昨日の「窓と窓」

 

 

稔典さんはこう書いています。

「俳句の言葉は575、ごく短い。だから、とっても伝わりにくい。逆にいえば、受け手の役割がとっても大きい。作者(発信者)と読者(受信者)がせめぎ合う言葉の現場、それが句会である。」

へ〜〜〜と思う。

なら、もう少し、句会で作句者の感性を否定することが起きた時、それはダメと言ってほしい。

 

私はむしろ 受け手の人たちの感性の硬さや狭さ、古めかしさが気になってならない。

ここに何度か書いたけれど、目玉焼きの外側が焼けすぎてヒラヒラしているのを「フリル」と表現した句を 男性諸氏が猛烈に批判した。

「食べ物にフリルは可笑しい、変だ」と。

流石に日頃おとなしい女性もみんなが 食べ物に「フリル」という表現は使うと反論。

私は一所懸命「フリルレタス」というのがありますよと言ったけれど、ダメでした。

 

そうです、俳句は句会が魅力。

なら双方向の文芸で、しかも同時に両方の役目を担うのだから、私たちはもっともっと、みずみずしく今を生きないとね〜〜と思っている。

言葉だけ今のものを取り入れても 今を生きている言葉にはならないんですもの。

 

言葉は単なるツールだから、それをみずみずしく使えるようにならないといけないわ〜。

それがね、難しい。

私の問題は 自分にとってとても身近でみずみずしいものが ただ私自身にしかわからない感覚のことが多いということです。

それをどのように 「伝わる言葉」にするか、それが問題です〜〜。

 

歌もそう。

どれだけ生き生き歌えるか・・それによって、古い歌も今を生きる私たちの歌になると思っているのです。

そしてそのように音楽が届いた時、音楽は不思議な力=人を助ける力を見せてくれる。

音楽のそのような「人を助ける力」をいっぱい信じているのです。

 

あらあら、俳句の話がいつの間にか、音楽の話になっちゃった。

 

皆さんは、冷たくなったご飯はどうして食べていますか?

チンして温める・・・が一般的なのでしょうか?

残念ながら、私は電子レンジを持っていないので、温めようと思ったら「蒸す」ということをしないといけません。

ちょっと面倒だし、おかずも必要になるので、大抵の場合、私はお野菜や卵などと炒めることをしています。

まあ、チャーハンというか・・・。その辺にあるものを使うので、そんなに立派なものではありません。

 

次にやっているのが、同じ材料ですが、作り方は少し違います。

表面がちょっと硬くなったりしたご飯は 卵を溶いて入れて、混ぜ合わせておきます。

卵の水分を吸ってご飯がやわらなくなりますね。

そこにお野菜などを刻んで入れていきます。

好みで塩で味をつけてもOK.

で、これをお好み焼きのように平らにして焼くのです。

表面が少しカリッとなると美味しいラブラブ

 

塩味をしっかりつけていたらそのままでもいいし、好きなソースをかけても大丈夫。

私は、ケチャップにウスターソースを混ぜて塗ることもあります。

柚子胡椒などもいいかもしれません。

 

あとは、お雑炊にする。

お出汁に適当な野菜を入れ、冷やご飯を入れ、塩味にして最後にやはり卵を入れたい。

大抵、これらで食べちゃっています。

元気な日は オムライスにすることもあります。

これが一番美味しいけれどね。

 

 

今日は、お味噌汁を作りました。

その時点でもう何だか面倒になったので、冷やご飯はそのまま。

でも、やっぱり冷たくて美味しくない。。。。。

なので、お味噌汁に放り込んでみました。

ご飯は温まるし、お味噌汁は適温になって、食べやすい。

お茶漬けもいいけれど、これだとお野菜も摂れるので、いいアイデアだと思いました。

 

でも、実はね。

まあ、やっつけはやっつけで、やっぱり、それなりにきちっとお料理したものの方が美味しいというのが結論でした。

皆さんにいいアイデアがあったら教えてくださいね。

 

 

6月の発表会のためのレッスンです。

やっと曲を決め、振り付けてもらっています。

先生にその振り付けの前半の流れを見せてもらい、録画もしましたけれど、どうにもこうにも理解ができない。

私にルンバの踊りが入っていないので、メリハリというか、ポイントというか、それすらわからない。

理解できないものは覚えられないのです。

 

音楽があるとそれでも少し、音楽に助けられて分かりやすくなります、私の場合。

このメロディではこう動く・・・という感じで 体に入りやすくなるのです。

ただし、知っているフィガーだけね。

それでも、動きがわからないものは覚えられない。

そう思っていたら、先生はちゃんとわかっていてくださったみたいです。

 

こんなに頭の中がぼんやりの私に、今日のレッスンはとてもわかりやすくて、本当に感動しました。

先生は、生徒の弱点をよくみていて、うまくそこにサポートをくださる方だなあ・・・・と。

 

今日は小さなフィガーごとに「決め」となるところとのポーズを習いました。

つまり、動かない部分ですね。

動かないところだから、とても分かりやすい。

しかも、その決めとなるところのおかげで、途中多少うまくやれなくても、見ている方々には気持ち良いダンスに見えるみたいですから、嬉しいでしょう?

断然やる気になりましたニコニコ

 

ダンスの強弱が少しわかっただけで、ポーズの決め方を習っただけで、とっかかりができているように感じました。

今までは目の前の壁がツルツルでどうしたら良いかわからない感じでした。

今は、ボルダリングの壁のように 所々につかみやすいところが見えてきた感じです。

嬉しいラブラブ

嬉しい飛び出すハート

 

ようやく 踊れるようになるかもしれないという希望が生まれてきました。

頑張ります💪

 

 

それにしてもいい学びをしていますね、私。

ダンスもですが、「どのように導くか」ということで一番大切なのは、その人をどれくらい観察し、理解しているかだということを学んでいます。

そして、そこにどれ位・どんな風にサポートする階段を作るか・・・・これが大切。

 

仕事の上でも、諸々色んなことで、とっても大切なことを学んでいると感じています。

そのおかげでやる気になっていますしね。

 

先生は褒めることが上手です。

その「褒める」ことも、きちっと生徒を見て、その人の長所(ストロングポイント)をキチっと見つけてくださるので、

褒め言葉がありきたりではなくて、心の奥にまで届くのですよね。

だから、楽しいし、やる気になる。

 

霧の中にいて迷っていた私ですが、先生のおかげでやっとやる気になってきたので、病気や怪我にならないようコツコツ仕上げていきたいと思っています。

また、レッスンについて書くことができるのをとても嬉しく思っています。

 

 

私たちの会社ではビジネスコーチに入ってもらい、社員や役員がセミナーを受けたり、役員それぞれがパーソナルでコーチングを受けたりしています。

もう20年くらいになるでしょうか?

 

さて、今月はコーチからある文章をもらいました。

「個人と集団」「つながり」についてです。

それで色々考えたので、私の意見をまとめておこうと思います。

 

🍀  🍀  🍀  🍀  🍀

人は弱い生き物ですよね。鳥でさえ、鋭い爪や硬い嘴を持っているのに、私たちにはそれすらありません。

早く走ることも飛ぶこともできません。力だってそんなにないし。

その分 社会を生み出し、「みんなの力」で問題解決し、助け合い、災害なども乗り越えたり、収穫物などを分け合ったり、流通させて、安全で豊かな暮らしをしようと試みてきています。

つまり、人間にとって社会は厳しい自然の中で少しでも安全に楽しく生きるための大切な大切なシェルターです。

なので、その集団は集団であることを守ろうとし、集団から逸脱することは嫌われます。

だから、約束やルールや法律、契約などで 互いに共有したいことを確認しなければなりません。

ある意味縛りあっているとも言えるのでしょうね。

 

そういう意味では、集団をなす動物や鳥などの動物達とは違う集団を形成していると思うのです。

動物達には 圧倒的な「本能」があり、それらに従うことで生き延び、助け合える集団を形成することができます。

けれど、残念ながら人間は本能が弱い。

だから、どの道がいいのかわからなくなり「迷う」ことが多々あるのだと思っています。

迷った挙句、自分たち自身を滅ぼすような選択をすることだってありますものね。

 

私たち人間は、本能が弱い=ある意味生き物としては弱い。

ですがそれを補うものとして、「考える力」「想像する力」などが与えられています。そのために動物達よりずっと変化(発展)の早い集団を生み出せました。

文明の発達がそれですね。

けれど、一方で、「社会そのものが間違った選択をする」こともたくさんありました。

一番は戦争です。

痛い目にあってもあっても、そこから学んで戦わずして平和を生み出すことを考えるのを放棄してしまう人たちがたくさんいます。

もし本能があったら、集団を一気に失う可能性のある戦争という手段は なんとしてでも避けるだろうと考えるのです。

つまり、せっかく与えられた「考える」「想像する」という能力を、私たちはしっかり使えていないということになるんじゃないかと思うのです。

タイトルに 「人はなぜ迷うのか?」とした問いの答えは、本能が弱いから・・と答えます。

 

だから、私たちは「明確な答え」を欲しがります。安心したいのかもしれません。

けれど、そんなものが簡単にわかるはずがなく 私たちは迷う。

 

「ベルリン・天使の詩」という映画がありました。

その中である女性がいうのです。

全ては偶然だと。

私たちが何かを選んだ時に それが必然となると言うのです。

 

私も似たような感覚を持っています。

けれど、私の言い方だとこうなります。

全ては偶発的に起きて目の前に現れる。

私たちは迷って、迷って何かを選ぶ。

そして選んだ時からそれを必然として生きる。

 

人との繋がり。

それも、私たちは知らず知らずに選んでいると思います。

「気が合う」人と、たくさん会ったり会話したりしますからね。

そのように選んでそれを必然として大切にしあう。

そして、それは太くて強いつながりになっていく。

 

今社会は とても厳しい時代に入っていっています。

こう言う時代になると人はますます心が狭くなり、他者を拒絶するようになるらしいですね、どうやら。

あちこちの国で、大統領や首相が 戦争を呼び込むような発言を繰り返しています。

私には、せっかく与えられた「考えると言う力」を、狭く偏って使ってしまっているとしか思えません。

 

動物達には考えられないくらいの「思考する力」を、私たちは与えられていると思います。

それを、くだらない方向に使ってはならないと思うのです。

動物達のように、流れに沿っていったり、集団としての意思のようなもので動けるわけではない私たち人間は、そうした本能の代わりに考えて考えて、頑張って頑張って、その力を与えてくれたものに感謝して、その能力を使っていかなくてはならないと思うのです。

はい、頑張る方向を間違えてはなりません。

 

 

たった一人、なんの力もない人間であっても、どこかに仲間がいるに違いないと思って、こうしてブログを書くことにしています。

考える力、想像する力がある人間だからこそできることをしなければいけないと思います。

 

 

NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」と言う番組で 片岡仁左衛門さんが紹介されていました。

私は仁左衛門さんが大好き。

ここで紹介されていた「顔よし・声よし・姿よし」と言う言い方は 少し違和感はありますけれどね。

確かに美しい顔立ちですし、声もいい。そして姿がいいと言うのもわかりますけれど、それは芸の力です。

もちろん生まれ持ってのものもあるのでしょうけれど、そんな物で太刀打ちできるほど、芸の世界は浅くはないと思います。

その姿はただ美しいだけではなく 華があると言うだけではなく、舞台の隅々が暖かい空気に変わっていくようなオーラがあると思っています。

 

人間国宝です。

そして80を過ぎている。

それでもなお、ずっと舞台に立って、演じて、道を極めようと追求し続けている人です。

 

仁左衛門さんはこの番組でも何度も紹介されていましたけれど、役柄に入り込むあまり、本当に涙をポロポロ流されます。

歌舞伎には、受け入れがたいと思うような展開のお話があります。

例えば、熊谷陣屋。

主君から敦盛を打てと言われたのですが、以前助けてもらった恩がある藤の方の息子であるため敦盛を打つことができません。

敦盛を助けたいと願うのですが、どうしても打たなければならない。

困り果てて、ついに、代わりに同じような年頃の自分の息子を殺してその首を敦盛だと偽って差し出すと言うお話があります。

めちゃくちゃなお話ですが・・。

その時も、仁左衛門さんは体の奥から絞り出すような声で 息子の死を悼み 苦しみながら首を差し出すシーンで、ポロポロと涙を流されました。

公演は20日以上あります。

その度に そこまで役に入り込んで演じると言うのは、並大抵の体力、気力ではないと思います。

それでも手を抜くようなことは一切ありません。

私には命を削っているかのように思えてしまいます。

「好きなんですねえ」

演じることが好きとおっしゃる。

きっと、演じることで削られるものが なんらかの手応えという形で戻ってくる時、今まで以上のエネルギーになっているのかなと思います。

 

 

「完成なんて 追いかけても追いかけても届かない」

「死ぬまでが修行。

 お芝居というのは気をつけないと『手に入ってしまう』」

「手に入ってしまう」その怖さをよく知っている人です。

「慣れっこになるのが一番怖い」とおっしゃっています。

その厳しい姿勢こそが 仁左衛門さんだと思います。

 

年間100以上、舞台に立ち、その間に若い人たちのお稽古指導をし、次の演目も練習します。

生活の全てが歌舞伎なのでしょう。

 

「魂に触れる歌舞伎」の探究。

 

人間って面白いですよね。

歌舞伎も人間が生み出したものなのに、完成は遠くの遠くの方にしかないとわかるということ。

誰も見たことがないのに、そこにあると感じられるということ。

魂に触れる歌舞伎・・・魂って何?

説明のつかないものなのに、それが何か、私たちは何となくわかっている。

 

まだ誰も到達したことがないのにわかること。

説明できないのに感じられること。

それはとても大切な感覚だと思っています。

どんなに分析しても言い表すことができないものがあること。

それを知っているというのはとても大切なことだと思うのです。

 

自ずと頭を垂れることができる。

自分たちが決っして一番ではない、それどころか大した存在ではないと知っているということ。

それが大切かなと思います。

 

番組では最後に「プロフェッショナルとは?」と問われたようです。

私には、「プロフェッショナル」という言葉自体、仁左衛門さんのような存在の前ではとても薄っぺらで底の浅いものにしか思えません。

そういう番組だから仕方がないかもしれませんが、意味のない問いで、締め括ったのは残念でした。

 

改めて、仁左衛門さんのような素晴らしい役者が今ここで活躍してくださっていることを本当にありがたく思うのです。

ああ、こんな言葉でしか書けないけれど。。。。。

 

 

ウクライナバレエ団は 昔キエフバレエ団と言われていました。

その頃よく見に行っていました。

結構安いのに、充実した内容で楽しむことができました。

今調べてみると 脱ロシアということでキエフはキーウと発音することになり、それらに伴って バレエ団も「ウクライナ」を掲げることになったようですね。

おそらく、ウクライナを掲げることで、自身のアイデンティティを世界にしっかりと根付かせたいという思いなのではないかと思います。

 

昨日はオペラ「トゥーランドット」を見に行きました。

ウクライナ国立歌劇場の公演です。

世界的に有名な歌劇場の公演より、ずいぶん安く鑑賞することができます。

場合によっては1/3くらいかもしれません。ありがたいことです。

遠くから大道具もスタッフやメンバーも来るわけですから、その分シンプルな舞台演出であろうとなんとなく思っていました。

 

でも、のっけからびっくり。

舞台も衣装もとんでもなく豪華で素晴らしい。

あのトゥーランドット独特の世界観がステージ上に生み出されていて、装置と衣装だけでもうすでに私たちは物語の世界に誘われました。

そして、合唱団もソリストたちもオーケストラも力のこもった素晴らしい演奏でした。

三幕あったのですが、一幕ごとに観客がどんどん興奮していっているのを感じました。

もちろん私もラブ

鑑賞しながら、私はウクライナの文化の深さを感じ、歴史を感じ、どんどん感動が深くなっていきました。

 

 

最後の最後に、舞台の一番後ろから幕が上がっていきました。

ピンクの大きな花束のような美しい花々がステージに咲き乱れました。

そこに、ウクライナの人々が伝えたいメッセージがあると感じたのです。

私たちの文化を知ってください。その豊かさを知ってください。

私たちの歴史を知ってください。

そして、私たちは明るい未来を信じています。

・・・そう言われているかのようでした。

それは、どんな巧みな演説よりも 私の心の奥にまで届き、くっきりとその存在を残しました。

 

戦争をしていて、街がなくなるくらいの打撃を受けていてなお、こうして、文化を守り世界中を公演している。

そのことにまず驚きます。

日本なら(昔そうだったように)「楽しいことは我慢しなければならない」「遊んでいる場合じゃない」というような扱いになってしまいそうです。

「文化」は軽視されがち。

戦争でなくてもコロナの時でさえ、そのような動きになりました。

「これは戦争と同じ状況だから 我慢しなければならない」と。

 

けれど、形のないもの=文化にこそ、その国のアイデンティティがあり、歴史という積み重ねがあり、それが崩れた時、その国が崩れることを、ウクライナの人たちは歴史を通して知っているのですね。

そのことも感じました。

 

あの最後のピンク色の花々の巨大な幕が上がっていくのを見た時、ウクライナの人たちの強さと誇りの高さを感じました。

そうです、どんな演説より明確に伝わりました。

 

私は日本という国が好きだったし、積み重ねられてきた文化にも誇りを感じていました。

でも、戦争に負け、アメリカ文化に染まっていく中で それらを失っていっていると感じていました。

昨今は特にそれを感じます。むしろ、昔より感じてしまっています。

それを取り戻したい。

 

それは「日本人ファースト」の中にはありません。

それは、どこかの国の人の考え方にすぎません、それに毒されたくありません。

私たちは昔、海外の文化を日本の文化の中にうまく取り入れて、戦わずしてうまくやっていく方法を見出すことができた人たちです。

上手にクッションを置くことができました。

そのようにして日本の文化を守ってきました。

 

ここからでいいから、まずは日本の文化をもう一度見直してみたいです。

安全で安心な国のありようを捨てたくないのです。

お正月には一年の計を立て、節分には邪気を払い無病息災を願います。

季節感を大切にし、自然を大切にしてきた文化を、もっと意識的に守っていきたいと考えています。

自国文化を守ること、そこにこそ平和があるという道を探っていきたいと思っています。

 

なんの力もない、しかも、自分の体調さえままならない年配者ですけれど、その想いはきちんと伝えていきたいと思っています。

ウクライナの人たちから受けたバトンだと思っています。

 

 

 

Facebookでライブ曲のやり取りをしていたら、こんな記事が出てきました。

 

Facebookの記事はいい加減なものが多いからいつもなら無視をするけれど、タイトルが気になる目

本当にポールが留置所で歌ったの??

記事を読んでみました。
 
ポールが大麻所持で捕まった時に、同時に殺人罪で留置所に入っていた瀧島祐介という人が彼を見かけ、話しかけたというのです。
そしてポールが留置所を出ていく前に、歌って欲しいとおねだりしたと。
ポールはアカペラで歌ってくれた、4曲も。
ここまでですでに私は とても不思議な感じを持ちました。
日本の留置所は厳しいから、歌を歌うことなど許されないだろうと思ったのです。
けれど、4曲も歌ったと。
その時点で、きっとポールの歌が留置所の係の人たちの心にも、犯罪者たちにも届いたんだろうなと思いました。
 
結局、この瀧島祐介という人はポールの歌を聴いて、人生観が変わり、生き方を変え、更生したのだそうですから驚きです。
アマゾンに行って説明を読んだら、甘い話ではなく、ヤクザかカタギになることの難しさや世間の厳しい目などについても書かれているようです。
彼を支えたのは、刑務所を出て、もう一度ポールの歌を聞きたいという夢。
その夢が 厳しい日々を支えたのですから、すごいことですよね。
 
もし、音楽がこの人のように生き方を変える力を持っていたらビックリマーク
どんなに素敵なことでしょう。
私自身、若い頃に生きることが苦しくて苦しくてならなかった。
その日々をなんとか現実に繋ぎ止めてくれていたのは音楽でしたからね。
 
その「音楽の不思議」や「音楽のちから」を信じて、私は歌っているんだなと思います。
もし誰かの心が少しでも軽くなるようなら、そんなに嬉しいことはありません。
もし、少しでもエネルギーを感じ取ってもらえたら、最高でしょう?
 
言葉で相談されたことに、言葉で答えるのは直接的だけれど、それがプレッシャーになったり、場合によってはちょっと違うな〜〜ということだって起こります。
けれど、言葉ではないこと、音楽だけじゃなくアートとかダンスとかであっても、人の心を言葉以上に揺さぶり、エネルギーを手渡し、その人を支えることができると思っているのです。
言葉という枠にとらわれずに もっと広く深いものを手渡すことができる可能性を信じたい。
もっと心の奥深くにまで届くことを信じたいのです。
 
この事実だけを書くつもりだったけれど、私のライブのことも書いておきましょう。
2月14日19時から。
谷町5丁目角のビルの9階 グラバー邸にてライブをします。

 

お相手はピアノの関谷友加里さん。

 

 
せっかくのバレンタインデーですからね、色々な愛の歌を歌います。
 
 

偶然見かけた予告編。

映画「世界一不運なお針子の人生最悪の1日」(日本語訳のタイトルはちょっと変)

なんだか奇妙で愉快っぽい。

YouTubedで予告編を見つけたから貼り付けておきましょう。

 

面白そうなので、娘と見に行ってきました。

 

びっくりした〜〜気づき飛び出すハートラブラブ

本当に面白かった。

 

とに角、発想がとんでもなくユニークだし、隅々まで完璧に作られていて、しかも最初っからずっと展開が全く予想できない。

「こんな映画が可能なんだ〜〜!!

と思うと同時に「映画」というものの面白さが最高に生きているとも思いました。

 

どうしてこの映画が話題にならないのかわからない。

映画だからこその面白さ、ワクワク。

そして、ずっとずっと引っ張って行っての最後・・・だと思ったら、まだ続きがあって・・という展開。

すごい才能の塊です。

細部まで完璧ビックリマーク

 

 

見ている間ずっと私は

「え??どうなるの?」

「え〜〜〜‼️」

「え? え? ええ???」

驚きっぱなしです。

 

スイスの山中の村が美しい。牛がいてのんびりして。

こんなところに行ってみたいなあと思わせる町並み。

そこで犯罪が起きるのだからたまりません。

この若い可愛いお針子がそれにどう立ち向かうのか?

予測不可能な展開のおかげでずっとずっと驚きながら見ることができました。

ホームページです。

 
「国宝」という映画がとんでもなく話題になっていますけれど、映画としてよくできていて、映画の魅力いっぱいなのはこちらの方だというのが私の意見です。
現実にはこんなことが起こらない・・という批判は当たりません。
だって、「物語り」を楽しむのが映画ですからね。
「ありえないこと」を「ワクワクしながら楽しませてくれる」のが「物語り」ですからね。
 
映画の内容を知らずに見た方が驚きがいっぱいで楽しい。
そう思うので、内容については触れません。
上記の予告編は内容を説明しすぎだと思っているくらいですから。
内容に触れずに良さを伝えるのは難しいけれどね。
 
この映画を作ったのは(作った当時)23歳の若者だそうです。
なんと自由で楽しい物語りでしょう。
彼は19歳の時にこの物語を短編にして映画を作っていたそうです。
それを見たある監督がその才能に惚れ込んで、その若い才能にたくさんの人が共感して、この映画ができあがっているようですね。
エンドロールのプロデューサーのところの名前の多かったこと‼️
 
演じている俳優がまたみんな素晴らしい。
知らない人ばかりですが、みんなとてもいい。
 
この週末ぜひ、出かけて見に行ってくださいね。