先日はオンラインでの支援所/当事者の集まりでした。

今年の春からカウンセリングも数回同席させて頂いたクライアントもその中に居ました。
別居後3人の子供のうち一人の娘がパパと暮らしたいということで、パパと二人暮らし。

パパは離婚前提で出て行った妻の事もどうにかしたい。
娘は発達障害で不登校

よくあるケース。
ほんと、よくあるケース。(2回言うた)

彼との関わりは今年の春・・・の前だったかな。


いつものように、自分が至らなかった部分を切り貼りしつつ、妻さんをディする。
そこそこ頭の良い人ほどこの作業を行う。

とにかく、他者(妻・子供)をなんとかしたい。
他者(妻・子供)が変わってほしい。

そりゃ、妻も出ていくし娘がしんどくなるわな

カウンセリングやその他セッションを重ねて身に着けたことというのは
「っていうことにする」スキル。
まぁ、これは回復のプロセスにはよく見られる話。

寄り添っているパパを演じる?(ぱんなにはそう見える)
なんていうかな~~・・・パパは娘に寄り添ってるよ!ほら!っていう?
承認欲求なんかな?なんせ妙な空気を感じる。

パパさん:「娘の言い分を否定せずに聴くに徹してるんです。でもなかなか娘にはそれが伝わらないんです。」

でしょうね。

パパさん:「どうしたらいいですかね?もうできることが思いつきません」
ぱんな:「娘ちゃんの気持ちはどんなだろうね?」
パパさん:「言ってくれないです」

でしょうね。

この妙な空気がなくならない限りはぱんなも言葉がみつからない。


不登校児を持つ親の話を聞くことは多い。
そして「子供が発達障害なんです。通院もしてるんです」
これもよく聴く。

ぱんなはいつも思う
「親は自分が発達障害って気が付いてないんかな?」
「もしかして自分も・・・とは思わんのかな?」と。

このパパさんは自身が鬱になって会社を休職していたようだけれど、それは仕事のストレスという。
↑↑仕事のせいにしてる

鬱になる要素は自分の思考回路の癖もある。
それは生育で形成されたか、持って生まれた遺伝性もある。

「自分も・・・って思わんのかな?」こんな疑問を抱くのは、ぱんな自身が娘の発達障害に関して不安を持った時、自分もそうだろうな・・・と思ったので、自分も診断を受けたし、病院のカウンセリングも受けた。
ぱんなは鬱思考・鬱傾向はあるが、自己コントロールが出来ているので、今のところ問題はない。という診断でした。
発達障害についても、共感性が乏しいうんぬん。
しんどくなったらお薬だします

はい、納得。

所詮この程度だとは思うけれど、自分の診断で自分も納得できた。

自分もしんどいから娘に影響が出るのも理解はできた。

実際今も、しんどくはないけど(笑)自分の思考回路が一般的からちとズレていることもよーくわかってるし、だからなに?なんやけど。

だからなに?という自己受容に至れるまでに「発達障害」の事実を大切にしながら自分も娘も大切にしてきた。

しかしながら、このパパもそうなんだけど、「こどもが発達障害」について、向き合うよりも、手がかかるとか、たいへん、とかどこか見下した?できない子扱いというかそういう語りをする親がとても多いとぱんなには映っている。

あー。だから自分は診断受けるって浮かばんのかな?


ぱんなはこのパパに「娘の事は娘に任せて自分の事に目を向けたらどうですか?」と言う。
それは自分も趣味を見つけるのもいいし?
今のところ「あんたも診断してきたら?」とは言わないけど(笑)

パパさん:「僕はもういいんです。いい歳だし、いまさら」
ぱんな:「したいけど、できなかったことってないんかな?」
パパさん:「うーーん。自分が何をしたいかもよくわからないんですよね」

したいことが思いつかない。したいこともない、したいことがあっても無理
得意なことも趣味もない。
相談できる友達もいない。

このセリフな?
「娘さんと同じことを言ってるって気が付いてます?」

パパさん:「!ほんとうっすね・・・」

こういうことやねん。
わかるかな・・・。

自分ができてないことを娘にさせようとしている。



これと似たような会話を先日妹ともした。

まぁ。。。妹の場合は彼女の性格やら、ここまでの経緯やらさ?知ってるだけに言葉も選ぶけど(選んでます)

妹は自身の発達障害について「確かに人との距離感は難しいけど・・・」
「でも、私はもういいねん。」

私の事はもういい、子供たちが自立してくれたら。。。

これって結構な無茶ぶりやと思うのよ。

親はかわらなくていいけど、子供にはかわってほしいって言ってるわけやん?
ちゃうんかな?
ぱんなにはそう聞える。

まぁ、ぱんなと思考が違うからズレが生じているのは理解しているけれど
子育て=親育て だとぱんなは思ってるけど、「私はもういい」とか
「子供の将来の方が心配」とか
それが共依存サイクルのベースで。
コントローラー思考あるある(ぱんな理論)

「私はもういい」=親は育たなくていい と聞える。
(そうではないとは思うけど)

せっかく子供と同じ台詞を言ってるんだから、そんな自分と向き合うことが子供と向き合うヒントになるのに。
親に自分の問題を先に取り組んでよ っていう語りにはそういう意図がある。

けれど、それすら実行する自信がない、実行する気持ちになれない
「だって」「でも」が返ってくる。

自分を諦めた人が、子供たちの将来を考えるなら・・・何ができるかなぁ・・・
自分が自分を諦めたことに覚悟を持つとか
諦めた人生の良さを語るとか
諦めてる自分を卑下しない(覚悟に繋がるな・・・)
そんな自分をほんっとうに、ほんとうに、OKとする。
「”っていうこと”にしない」

この”っていうことに”って厄介なルートやとぱんなは思う。
封鎖や封鎖。
立ち位置禁止の看板を設置したい。

あぁ、そういえば。。。どのみちからも行けないダムがあったな・・・
(そんなことを今言うなw)

目的地を変えたらええし。
だって、無理な場所ってあるもん。
絶対に無理やと諦めたら他を探せる。


パパさんに関しては自分が楽しい事みつからんのに、娘に楽しいことを見つけてほしいとかさ?
本気で言ってるのか?と不思議。

パパさんは娘の自己肯定感を高めてうんたらかんたらと言いながら、発達障害であることを困った風に語り、「人よりも劣っている」扱いをして?
どうやって娘は自信つけるねん?って話しやねん。


そしたらさ、このまえ会った時に
「僕の趣味は娘をコントロールすることです」って

ぬかしよったからな。

ふざけんなよ と思ったさ? 本音はやっぱムカつく。

が、しかし、どんなことであっても「僕は○○がしたい」と自己決定&口に出せたのは回復の過程ではある。
そのくらいこのパパは世間の常識や他者の目をきにして生きてきた。
我慢して我慢して”いい夫・いいパパ”を目指して、我慢の限界がきて爆発し嫁が「別居したい」となったわけで。

「娘をコントロールすることを趣味に・・・」これは大きなリスクはあるけれど。
・・・娘ちゃん大丈夫かなーー。


とはいえ、ね。
親は子供ができたら子供の為に生きるというのが美徳というか、そうするのが当たり前というか、そうしないといけないという風潮もあるからね。

 

ぱんなだってあるで、それくらい。

 


そういう風潮を社会病理とぱんなは位置づけてる。
「子供の事より自分の事を考えたら?」と言われてもなかなかできないだろうし。
できない人が(こじらせて)ここに集まってるわけで。
反面、「加減」を知らんせいで「自分さえよけりゃいい親」全開になる親もおるの。

まぁ~~両極端。
善か悪か
勝ち負けか
優劣か
ジャッジまみれの人生だったんだろうとお察し。