ぱんなは自分の持っている言葉の意味がどうやら多くの人とはズレているらしい・・・ということにはそこそこ気が付いている。バッチリお任せ!とは言えない。

言葉・単語を使う場所やリンク先がズレている。

もちろんそれはひとそれぞれ違うのが当たり前で、それをすり合わすのが対話や相互理解の作業なんだけど、共感欲求の乏しさがその難易度を上げる。

連想ゲームをしたらその結果が顕著に現れるような気がするなぁ・・・・

前回ブログを自分で読み返しぱんなの「洗脳」という言葉への嫌悪感を実感した。

「あなたは洗脳されているんだよ」←コレ
↑に続く「だから教えてあげるよ」に更に嫌悪感が積み重なる。

ぱんなにとっての「洗脳」のイメージは支配・浸食・コントロールといった類。
ぱんなはそれらをするのもされるのも嫌。

あなたは洗脳されている、そこから解放してあげたいから教えてあげてるんだよ

ふむ。

やっぱり上から目線を感じる(笑)  なんでや(笑)

「あげてる」って言葉も嫌いやな・・・
親がよく使ってたわと浮かぶ。
先生もやな・・・
元夫もやな・・・

あー。だから上から目線と受け取るんかもな~
ウザいと感じる言葉やなぁ・・・
「あげる」でコントロールされた体験が刺激されてるかもしれん。

こういう”ささいな言葉”でも時に地雷になったりするってことね。


そして、ぱんなは他人の地雷をよく踏む。
・・・頻度が高めな気がしている(被害妄想もあり)

ぱんなが何気なく発した言葉が人の心を刺す・えぐる・塩を塗り込む
ということが支援所の中では有名な話し(笑)

ぱんなも好きで人の傷をえぐってるわけではないので、「どこで傷つくのよw」と本気で尋ねるけれど、本気の答えは返ってこない。
ぱんながキャッチできない(共感できない)部分の話しも多々ある。

Aさん:「痛いところを突くねん」
ぱんな:「どこが痛いのよ」

こんな会話はアルアル。

そして困ったことにAさんが「痛い」という内容はぱんなにとって「なんのことはない」って事だったりするので、話しにならないとオチになる。あるある。


とまぁ、そんな感じでぱんなはたくさんの人を無自覚で傷つけているわけなんだけど
最もその被害にあっているのはぱんなの妹だと思う。(関わりの濃さ故に)

今までちょいちょい妹の地雷を踏んできた。
それでも、彼女はぱんなをご飯や遊びに誘ってくれるのはそこそこな変態だからかもしれない。

数カ月前の居酒屋での出来事。※妹に記事にすることは許可もらいましたw

文脈として子供との関わりの話しで、ぱんなが発した「それってエゴやんな」
これが大きな地雷だったようで、妹は激怒(その域の印象)
ぱんなにはなぜにそこまで怒るのかさっぱりわからない。

妹:「わかってるのに確認されているみたいで嫌」

うん、まぁ確認ちゃぁ確認やねん。
ぱんなが彼女の語りを理解する作業で確認はした。

クールダウンした後に話しをした結果、どうやら彼女にとって「エゴ」とは「ダメな事」らしい。(未だにぱんなは呑み込めていない)
彼女にとっての「エゴ」に付随するのは自分が他者に押し付けてきた罪悪感=悪いことの体験がリンクする。(らしい)

ぱんなにとっては「エゴ」は「エゴ」で。あって当然なもの。
だって、それは自我だもの。

押し付けるかどうかも押し付けられたい人もおるので状況や相手によって良いか悪いかは変化するものだと思ってる。
ぱんなは毎日毎秒エゴで暮らしていると言っても過言ではない。

「親のエゴ」とぱんなは時々記述もしているけれど、それ以上でもそれ以下でもないとして書いている。
押し付けるかどうかは別の話。という認識

これはなかなか堀ごたえがある事例だったとぱんなは思う。
ぱんなにとっても、妹にとっても。(たぶん)



そのあとにまたぱんながやらかしたのは妹のブログ・・・
「しんどかったけど、子供たちの希望もあり、結果も頑張ってよかった」的なぱんなから見たら少々ハードな内容で。

そのコメントでぱんなが書いた「パッションよねw」的な記述。
パッション=情熱?  ま、そんな意味合いで書いてるんだけど。


翌日かその翌々日か?「リコメ、大丈夫だった?」みたいな伺いが妹からあった。

ぱんな:「いや。。。?なに?なにも気になってないw」

え?どーゆーこと!?

聞くと、「パッション」に刺激されて、もやもや?そわそわ?むきむき?わからんけど、そんな心情と葛藤しながら書いては消ししてリコメを書いたらしい。

「ごめん・・そんなこととはつゆしらず・・・」やねん。


なにかしら抵抗がそこに存在してたようなんだけど・・・

ぱんなにはわからん・・・ごめんやで。

ぱんな脳で解析すると親が子どもの為を思ってあれこれ、策を練ったり提供したり、それは自分の身を削ってでも行う様に対して、「パッションがないとできない」とぱんなの線引きがある。
ぱんなは基本自分の身を削るという作業はしない。
子供が主体ではなく、自分が主体なので子供たちがそんなぱんなをどう見ようが子供たちの自由であって、「○○だったらいいな~」程度の熱量。

雑な表現をすると、子供達の反応に期待をしていない・・・かな?
ぱんながすることに、どんな評価をしようが子供たちの自由というか。。。
嫌な事だったら別行動でOKというか?
子供たちの同意がないならしないというか・・・

他者を巻きこむ~共有する時間について
「よろこんでくれたらうれしい」←ぱんな論
「喜んでほしい」←パッション発生
「喜んでくれるハズ」←ファンタジー

自分が「しんどい」と感じることを子供たちを喜ばせる?為にしないというか・・・
いや、お願いされたら「しゃーないなw」って言うけど?(笑)
あとで「してあげたのに」って思わなくてもいい範囲に納めている。

なので、しんどかったけど乗り切ったという事、しかもぱんなにはできない事には「パッション!」となるんだけれど、なるほどなぁ・・・と思ったのが、妹曰く「パッションがあるから子供をコントロールしてしまうから、パッションを抑えなあかんと思ってしまう」


ふむふむ。


それも一理あるけれど。。。

子供へのパッション=コントロールがどうにもリンクしないぱんななのでした。


そんな話をしたのはちょっとお高い居酒屋。
筍の刺身。。。生まれて初めて食べたけど、これは感激のウマさでしたーーー!



閉店までおしゃべりは続き、〆はホルモンうどんと赤ワイン(笑)


これはアリの組み合わせだったけど、既に酔っぱらっているので定かではない・・・