毎週日曜、主日の朝、私は午前九時過ぎに教会へと入る。
九時半から朝礼拝のはじまる十時半まで、聖歌隊としての練習があるからだ。
私が所属する弓町本郷教会の聖歌隊は明治30年頃に活動を開始した。 歴代の指導者として唱歌「鯉のぼり」や「春よこい」の作曲者として知られる弘田 龍太郎先生らがおられる。
現在の指導者は二俣松四郎先生。 オルガニストとして70年のキャリアを持ち、作詞家、作曲家、編曲家として数々の奏楽集を世に出され、65年にもわたりご指導されている大先生だ。
過去のご病気のため、左半身を麻痺されている。
いつも黒いスーツ姿で車椅子に座っておられる先生は、量の多い白髪と顔を取り囲む同色の髭、星霜を経た貫禄により、老いた獅子を思わせる方だ。 だがその瞳はいつも優しく澄んでいる。
私が教会に入る時間、松四郎先生はたいへんなご奮闘をされている。 階段を登って入る本来の入り口ではなく、道路からそのまま乗り入れられる併設幼稚園の入り口で、一人乗りリフトの椅子へと渾身の力を振るって車椅子から乗り移られているのだ。
ご子息である泉先生の奥様が介助につき、しかし「先生が頑張って」と声を掛けたり、足の位置を正したりの細かい操作の他は、大先生のご自力に任せている。
無事に乗り移った先生の車椅子からウレタンのクッションをとって持っていくのはお孫さんの役割だ。 普段、お母さんに甘えっぱなしのこの年長組のお嬢さん、この時ばかりはとても気丈にふるまう。
そんなこんながあって大先生はご自分でスイッチを操作されゆっくりと礼拝堂の入り口までご自分の身体を運ばれる。 踊り場ひとつをおいて礼拝堂の入り口まで、壁伝いにステンレスのパイプが取り付けられ、電動のリフトがそれに添って登っていく仕組みになっているのだ。
礼拝堂で待ち受けるのは大先生の奥様である宣子先生だ。 声楽家としてのキャリアも長く、ソプラノ歌手として長く活躍されていた方である。
大先生は今度は宣子先生に励まされて、階段の上に用意された別の車椅子にまた渾身の力で乗り移る。 お孫さんがクッションを差し出し、宣子先生がそれを腰の部分に差し入れる。
その間に教会へ来た者は皆、その様子を見守り、先生が礼拝堂へと入るまで階段を登らずに待っている。
だがほんの一年前、毎月第四主日にある夕の音楽礼拝で、右手だけのピアノ演奏を聴かせてくださった時から、先生は精神的に随分と衰えたようにも感じられる。
練習中も同じ質問を幾度も繰り返したり、用意されていない曲の練習をするよう何度も要求したりして、その度に奥様にたしなめられている。 ただ男性パート、女性パートともに人数の充実した現在の状況を、先生がとても幸福に感じられていることは強く伝わってきているのだった。
「〇〇さん、あの当時は大変だったね」」、「昔は聖歌隊員が5人しかいなくて・・・」、「男性のパートが少なかった時には・・・」。 幾度となく繰り返される想い出話しに聖歌隊員は誰一人として嫌な顔をすることもなく、二俣松四郎先生の述懐の登場人物へと喜んでなりきっているのだった。
神様のもとに集うというのはこういうことなのだ。
この日の奉仕曲は『しずけき川の岸辺を』
1871年に、海難事故で4人の娘を失ったアメリカ人実業家、“ホレイショウ・スパフォード”氏が書き記した讃美歌だ。
『しずけき川の岸辺を』
静けき河の岸辺を 過ぎ行くときにも
憂(う)き悩みの荒海を 渡り行く折にも
心 安し 神によりて安し
群(むら)がる仇(あだ)は猛(たけ)りて 囲めど攻むれど
誘(いざな)う者ひしめきて 望みを砕くとも
心 安し 神によりて安し
うれしや 十字架の上に 我が罪は死にき
救いの道歩む身は ますらおのごとくに
心 安し 神によりて安し
大空は巻き去られて 地は崩るるとき
罪の子らは騒ぐとも 神に依(よ)る御民(みたみ)は
心 安し 神によりて安し
礼拝堂左手、ステンドグラスを背景に設えられた踏台の上、歌いながら会場の様子を確かめる。 美しい曲調と古いが故に馴染みのあるメロディーに、皆が聴き入ってくださっているのがわかる。
やがて松四郎先生の指揮のもと静かに曲が終わり、伝道師先生の説教がはじまった。
その後間もなく、礼拝堂の前方からしゃくり上げる声が聞えてきた。 その嗚咽はしばらくの間、止むことがなかった。
美しいメロディーと崇高な歌詞、聖歌隊の歌声とN伝道師先生のお優しい語り口が、心の琴線に触れたのだろう。
これが私達のご奉仕である。
九時半から朝礼拝のはじまる十時半まで、聖歌隊としての練習があるからだ。
私が所属する弓町本郷教会の聖歌隊は明治30年頃に活動を開始した。 歴代の指導者として唱歌「鯉のぼり」や「春よこい」の作曲者として知られる弘田 龍太郎先生らがおられる。
現在の指導者は二俣松四郎先生。 オルガニストとして70年のキャリアを持ち、作詞家、作曲家、編曲家として数々の奏楽集を世に出され、65年にもわたりご指導されている大先生だ。
過去のご病気のため、左半身を麻痺されている。
いつも黒いスーツ姿で車椅子に座っておられる先生は、量の多い白髪と顔を取り囲む同色の髭、星霜を経た貫禄により、老いた獅子を思わせる方だ。 だがその瞳はいつも優しく澄んでいる。
私が教会に入る時間、松四郎先生はたいへんなご奮闘をされている。 階段を登って入る本来の入り口ではなく、道路からそのまま乗り入れられる併設幼稚園の入り口で、一人乗りリフトの椅子へと渾身の力を振るって車椅子から乗り移られているのだ。
ご子息である泉先生の奥様が介助につき、しかし「先生が頑張って」と声を掛けたり、足の位置を正したりの細かい操作の他は、大先生のご自力に任せている。
無事に乗り移った先生の車椅子からウレタンのクッションをとって持っていくのはお孫さんの役割だ。 普段、お母さんに甘えっぱなしのこの年長組のお嬢さん、この時ばかりはとても気丈にふるまう。
そんなこんながあって大先生はご自分でスイッチを操作されゆっくりと礼拝堂の入り口までご自分の身体を運ばれる。 踊り場ひとつをおいて礼拝堂の入り口まで、壁伝いにステンレスのパイプが取り付けられ、電動のリフトがそれに添って登っていく仕組みになっているのだ。
礼拝堂で待ち受けるのは大先生の奥様である宣子先生だ。 声楽家としてのキャリアも長く、ソプラノ歌手として長く活躍されていた方である。
大先生は今度は宣子先生に励まされて、階段の上に用意された別の車椅子にまた渾身の力で乗り移る。 お孫さんがクッションを差し出し、宣子先生がそれを腰の部分に差し入れる。
その間に教会へ来た者は皆、その様子を見守り、先生が礼拝堂へと入るまで階段を登らずに待っている。
だがほんの一年前、毎月第四主日にある夕の音楽礼拝で、右手だけのピアノ演奏を聴かせてくださった時から、先生は精神的に随分と衰えたようにも感じられる。
練習中も同じ質問を幾度も繰り返したり、用意されていない曲の練習をするよう何度も要求したりして、その度に奥様にたしなめられている。 ただ男性パート、女性パートともに人数の充実した現在の状況を、先生がとても幸福に感じられていることは強く伝わってきているのだった。
「〇〇さん、あの当時は大変だったね」」、「昔は聖歌隊員が5人しかいなくて・・・」、「男性のパートが少なかった時には・・・」。 幾度となく繰り返される想い出話しに聖歌隊員は誰一人として嫌な顔をすることもなく、二俣松四郎先生の述懐の登場人物へと喜んでなりきっているのだった。
神様のもとに集うというのはこういうことなのだ。
この日の奉仕曲は『しずけき川の岸辺を』
1871年に、海難事故で4人の娘を失ったアメリカ人実業家、“ホレイショウ・スパフォード”氏が書き記した讃美歌だ。
『しずけき川の岸辺を』
静けき河の岸辺を 過ぎ行くときにも
憂(う)き悩みの荒海を 渡り行く折にも
心 安し 神によりて安し
群(むら)がる仇(あだ)は猛(たけ)りて 囲めど攻むれど
誘(いざな)う者ひしめきて 望みを砕くとも
心 安し 神によりて安し
うれしや 十字架の上に 我が罪は死にき
救いの道歩む身は ますらおのごとくに
心 安し 神によりて安し
大空は巻き去られて 地は崩るるとき
罪の子らは騒ぐとも 神に依(よ)る御民(みたみ)は
心 安し 神によりて安し
礼拝堂左手、ステンドグラスを背景に設えられた踏台の上、歌いながら会場の様子を確かめる。 美しい曲調と古いが故に馴染みのあるメロディーに、皆が聴き入ってくださっているのがわかる。
やがて松四郎先生の指揮のもと静かに曲が終わり、伝道師先生の説教がはじまった。
その後間もなく、礼拝堂の前方からしゃくり上げる声が聞えてきた。 その嗚咽はしばらくの間、止むことがなかった。
美しいメロディーと崇高な歌詞、聖歌隊の歌声とN伝道師先生のお優しい語り口が、心の琴線に触れたのだろう。
これが私達のご奉仕である。