2012年3月11日。震災から一年が過ぎた日曜日の朝。
 礼拝前の練習の時間、聖歌隊席で楽譜の準備をする私の隣に、同じBessパートを歌うM氏が座り遠慮がちに話しかけてきた。
 「私は、今日のコンサートの企画段階で、Bessパートが誰もいないとのことから伝手を介して頼まれてきた人間です。イブ礼拝にも参加しましたが、一応の区切りとして今日で聖歌隊での歌を終わりにいたします。貴方だけには話しておこうと思いました。」
 洗礼を受けていない“求道者”として、はじめて聖歌隊の練習に参加した私と同じ日にその温和な紳士がやってきた。 白い髪を後ろに向けて綺麗に撫で付け、老眼鏡越しに音符を追うその姿からは、長く合唱に親しんできたものの落ち着きが感じられ頼もしい限りだった。 ご本人はクリスチャンでないのだが、ミッション系大学の合唱隊のOBとして、今でも時々、日曜の練習に加わっているのだという。 決して身体の大きい方ではないが、適度に肥満した身体を上手につかい、誰よりも正確な音程で声を響かせてくれていた。
 同じ日の入隊であったことから、やがて親しく会話を交わすようになった私は、月に一度だけ礼拝に出席するM氏の為に、情報伝達係を勤めるようになっていた。 時々の奉仕曲を確認し、楽譜をご自宅にファックスするほか、コンサートの集合時間や黒の蝶ネクタイなど服装についても随時、お伝えさせていただいていた。
 氏は続ける。
 「一時はどうなるかと思いましたが、今日のコンサートも何とか形になりそうです。今日までいろいろとありがとうございました。」
 歌うことの楽しさに酔いしれ、直線的に、ただ前に向かって声を飛ばすことだけをしていた私を、初めに諌めてくれたのがM氏だった。
 イブ礼拝におけるコンサート翌日。 私の受洗の日、これを見届け、聖歌隊に参加できない私に代わって歌う為、わざわざ千葉県某市から二時間の道のりを駆けつけてくださったのもM氏だった。
 そして氏はいつも、時として歌うべき音を見失いそうになる私の気配を察するたび、導くようにして歌いかけてくれていた。
 どちらかが遠くに行ってしまうわけでもなく、連絡がとれなくなくなるわけでもないのに、何故だかお互いが言葉に詰まり、どうしようもなく胸が熱くなるのだった。

 思えば私の信仰生活は、失意の中から始まった。
 かつて私を教会へと導いてくれた女性、心から敬愛してやまなかったその方から、私は拒絶され絶縁を言いわたされていた。 そうして通うべき場所の無くなった私は、週ごとに違う教会を訪問することを続け、やがてこの弓町本郷教会へとたどり着いたのだった。
 夕の礼拝で讃美歌を歌っていた私に、教会員のEさんが声をかけてくださり、聖歌隊でのご奉仕させていただくことになった。 その後、祈祷会やバザー等の教会行事にも参加するようになり、やがて私は洗礼を受けることを決意した。
 尊敬すべき方々、指揮者のF先生親子や指導者のN先生、テノールのYさん、Kさん、その他さまざな教会員の方々との交わりを通じて、いつも一緒にいてくださる神様に感謝することを学んだ。
 そしてこの日、一年間、ずっとずっと痛ましく思い続けてきた震災と原発事故の被災者の為に、兄弟姉妹達と一緒に祈ること、歌うことが出来たのだった。
 最初に導いてくださったあの女性に出会わなければ、そしてその方からあれほどはっきりとした拒絶を受けなければ、私はこの場所にいることも、M氏や他の方々に出会うことも無かっただろう。 やはり神様は私を招いてくださったのだ。
 コンサート中盤、会衆者による讃美は、私の大好きな575番「球根の中に」だった。

 『沈黙はやがて 歌に変えられ、
  深い闇の中 夜明け近づく。
  過ぎ去った時が 未来を拓く。
  その日、その時をただ神が知る。』