セザール・ド・ブルボン=ヴァンドーム(César de Bourbon-Vendôme, 

1594年6月3日~1665年10月22日)は、ブルボン朝フランスの貴族です。

 

 

Engraved portrait of César de Bourbon, Duke of Vendôme (1594-1665).jpg

 

 

アンリ4世と愛妾ガブリエル・デストレの長男として、クシー城で誕生しました。

1595年に認知され、1598年にヴァンドーム公位を授けられました。

1599年に母ガブリエルが急死すると、母からボーフォール公位とエタンプ公位を継承しました。

1608年7月16日、フォンテーヌブロー宮殿で、富裕で知られたメルクール及びパンティエーヴル公家相続人の

フランソワーズと結婚し、3子をもうけました。

3子は、

長男 ルイ2世(1612年~1669年) : ヴァンドーム公

次男 フランソワ(1616年~1669年) : ボーフォール公

長女 エリザベート(1614年~1664年) : ヌムール港シャルル・アメデ妃

の事です

 

セザールは、人生の多くを継母で父の正妻マリー・ド・メディシスと

異母弟ルイ13世との政争に費やしました。

聖職者リシュリューの失脚を狙うシャレー伯アンリ・ド・タレイラン=ペリゴールの陰謀に加担したとみなされ、

実弟アレクサンドル(シュヴァリエ・ド・ヴァンドーム)と共に1626年、ヴァンセンヌ城に幽閉されました。

4年後の1630年に釈放されるとオランダへ亡命しました。

 

1632年にフランスへ戻り、次男のフランソワと共にリシュリューの後を継いだ

ジュール・マザランに対する陰謀を企てました。

しかし、再び亡命を図り、イングランドへ逃亡し、1642年までイングランドに留まりました。

マザランの姪にあたるロール・マンチーニ(マンチーニ姉妹の長女)と長男ルイが結婚したことで

マザランとの和解がなされ、フロンドの乱の際には王太后アンヌ・ドートリッシュを支えました。

そして、1651年に提督となりました。

ブロンドの乱(1648年~1653年)は、フランスにおける貴族の反乱としては、最後のものです。

1665年の死後、ルイがヴァンドーム公位を、フランソワがボーフォール公位をそれぞれ継ぎました。

セザールの屋敷があった場所は後に買収され、ヴァンドーム広場として整備されました。

 

 

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