立石君は、運動神経が抜群で、おまけに頭も良かったです。

がり勉タイプではなく、いつも「立石!」と先生に注意される事が多かったです。

でも、私はそんな立石君を尊敬していました。

 

立石君は、授業中、よく手を挙げて発言していました。

兎に角、人前でしゃべる事が嫌な私のお願いは、だたひとつ。

「先生、俺を指さんどって(指さないで)。」でした。

なので、1年の時も2年の時も授業中、手を挙げた事は一度もありません。

 

一番嫌だったのは、「国語で、文章を読まされる事。」

大嫌いでした。

途中で、つっかえると収拾がつきませんでした。

先生から「読んで下さい」と言われると、読まざるを得ませんでした。

授業中、みんなの前で声を出したのは、「国語で文章を読まされて時」のみでした。

 

立石君と私の席が隣同士になった事がありました。

「○○君(私の事)、手を挙げようよ。」と言われました。

そんな事、私には無理でした。

そんなやり取りが何回か続いたあと、私は考えました。

「人が指される(名前を呼ばれる)寸前で手を挙げると、立石君が言った事に従った事になる。」

それで、私は、この作戦を続けました。

 

先生も分かっていたのかもしれません、ある時、このような後出しジャンケンみたいな事をしている

私を指しました。

何も答えられず、「え~っと」って言ったように記憶しています。

でも、この「え~っと」の一言で吹っ切れたのかもしれません。

そのあとは、消極的な子供から積極的は子供に変わっていったように思います。

授業中でも発言が出来る子供になっていきました。

実は、このように積極的になった事により、中学では悲劇が私を待っていました。

それは、また書きます。

 

ちなみに、福岡では、ジャンケンと言いません。ジャイケンと言っていました。

 

その後、立石君は、「がおか」から1浪したあと、広島大学医学部に進学し、福岡市内の呉服町の病院で

勤務医として働いていました。

私が会社に就職したあと数年は、年賀状のやり取りをしていましたが、今ではどうされているのか、分かりません。

 

「がおか」というのは、福岡県立筑紫丘(ちくしがおか)高等学校の事です。タモリの出身校です。

当時、福岡の進学校の御三家は、「修猷、福高、がおか」でした。

修猷は福岡県立修猷館(しゅうゆうかん)高等学校、福高は福岡県立福岡高等学校です。

通っている中学によって、受験出来る高校が違います。