
早いものでもう4月1日ですねぇ、エイプリルフールですねぇ。
相変わらずgoogle先生は粋ですね(‐^▽^‐)
googlemapがエイプリルフールということで8ビットのドラクエ風になっております!
スカイツリー×浅草雷門×上野動物園!
パンダがいますよw隠れてパンダw
流石googlew
横浜は…赤レンガ倉庫!
ん?この電車は緑ライン…幻の横浜線E233系w
でも桜木町…。
あ、そういえばyoutubeもなんか暗くできます…あれ、昨日まではあったのに。
まあいいや、こんなこと。
街道進めましょ~っ
国分寺跡から北に進みます。
相鉄線の踏切を渡りつつ628m進むと左に
案内板、先ほどの金堂跡の碑が立っています。
復元などはまったくされていません。
伽藍の配置がこちらです。
伽藍というのは、寺院の主要建物群のことを指します。
図にもあるように右側の道路が県道407号です。
いずれ周囲を取り壊しなどして公園として整備するそうです。
県道407号をひたすら戻り、795m進むと国分の辻です。
ところで相鉄線の踏切の近くには「逆川船着き場」があるそうですが僕は知らずに行けず。
右折し、再び街道を厚木・大山・矢倉沢方面へ進みましょう。
下り坂を217m進むと

相模国分寺の案内があるので左へ。上にある「国分寺史跡」は国分寺跡のことです。ここから行ってもいいかも。
この写真の左にちらっと映ってるのが
海老名の大欅(けやき)。
300年以上昔の古木で、もともとは船繋ぎ用の杭として打たれていたものが根付いたそうです。
逆川の船ですかねえ?
青々と茂っているので分かりにくいですが、主幹は失われ、2本の幹で頑張っているようです。
76m進むと
本堂です。
もともとは現在の「相模国分寺跡」にありました(←当然やろが)。
741年、聖武天皇の詔によって建立された国分寺の一つといわれていて(小田原市にある千代廃寺という説もある)、9世紀にはいると政治的、そして自然災害による衰退が強まり、1100年代前半には他の寺の末寺とならざるをえませんでした。
しかし1186年と1194年、源頼朝による全国の国分寺再建により相模国分寺(当時の国分寺は寒川神社付近にあったという説も)も修復されました。
鎌倉時代以降は文献に姿を見せなくなります。寺史によると再び衰微し、戦国時代には戦火に見舞われ、高台にあった薬師堂のみが残ったといわれています。
そのためその薬師堂を高台の下の現在の国分寺があるところに移し、再興しました。
江戸時代には新たな国分寺の地に経蔵と本堂が建てられましたが、幕末になると三たび衰え、山門、本堂なども倒壊しました。
1910年、古代から唯一残っていた建物であった薬師堂も焼失したものの、本尊の薬師如来や梵鐘などは残りました。
そして1974年に本堂が落成、1994年に本堂が再建され、現在に至ります。
国分寺とくると気になるのは相模国府・相模府中のことです。
全国に75あった律令国のうち、相模国だけが国府の場所が解明されていません。
候補は4か所あります。大住郡…平塚市四之宮
余綾(よろき)郡…大磯町国府
海老名市国分(初期)
小田原市曽我、千代廃寺(現在の飯泉観音)付近(初期)
こうなるとは古代東海道が遠いのであまり関係ない気がしますが…。
平塚市の可能性が一番高いそうで、掘立柱建物の跡や、政所、曹司、国厨なと書かれた土器が出土したり、国府に関する資料が一番多いです。
因みに本当は相模は相摸(きへん⇒てへん)と表記した方が史実に近くなるようで。
余計相撲に近づ(ry
あ、忘れてた、梵鐘。
鎌倉時代に作られたもので、国指定重要文化財となっています。
案内板は達筆で逆に読みにくかったり。
鋳造は物部國光という人で、北鎌倉の円覚寺の梵鐘も作った人だとか。
ググってみましたが結構いろんなところの作ってますね。
え~っと、じゃあここら辺で終わりッシモ~
明日かなぁ、出かけるの。
こりこりももも。
地図…ルートラボへ(^o^)/