こんにちは昨日横浜に行って、保土ヶ谷宿に感動したぴゅうです。
さて、今回は、多摩市の南端、妙櫻寺からスタート。
妙櫻寺からは、多摩ニュータウンの造成により旧道が残っていません。
都道156号、通称尾根幹線道路です。中央分離帯がとっても広いのが特徴。部分的には中央分離帯を道として整備しているところもあるようですが。
ここに中央道の支道が延伸してくる計画があるとかないとか。
右手は豊が丘団地()、左手は貝取団地と団地の谷間を「貝取大通り」と名付けられた道を一路北へ進んでいきます。
1km以上何にもなく、暇だったので途中のスーパーでアイス等購入。
1680m進むと、右手に大福寺の入口があります。が、僕は行かず。
その大福寺のすぐ先(13m)、左手を入ってすぐ右側にあるのが
貝取神社。
御祭神は弟橘媛命(オトタチバナヒメノミコト)、応神天皇、須佐之男命(スサノオノミコト)。
多摩ニュータウンの造成で場所を失った吾妻神社、八幡宮、牛頭天皇社の合祀社。
「旧鎌倉街道探索の旅」にはここまで旧道筋で、ここから消滅する、と書かれているものの、何となくここまでも旧道じゃないような気がします、はい。
469m先で京王相模原線×小田急多摩線のガードをくぐり、さらに111m先、釜沼橋で
多摩川の支流である大栗川の支流、乞田川を渡ります。
更に110m先で都道158号小山乞田線、通称多摩ニュータウン通りに出るので、右折します。
ここからは旧道だそうです。
本当に旧道なのか?と疑いを隠せないほど大きな通りを330m進むと左に道が分かれます。
この道は線形的に都道18号新鎌倉街道の旧道のような気がします。
「新」鎌倉街道の「旧」道が「旧」鎌倉街道だと思われる とか何なんでしょうねw
訳のわからない道絵を193m進むと乞田交差点に出ます。
五差路になっているので、右斜前の↑の道に進みます。
この道は、「新」鎌倉街道の「旧」道確定でありながら、都道指定をまだ受けており、さらに「旧」鎌倉街道を拡幅した道である、ということで。
ちなみに、南東方向にはバイパスが通っています。
ってことは・・・。
バイパスに対する旧道でありながら現道であり、旧街道でもある、と。
こんがらがってきますね(汗)
どうでもいい話ですが。
262m先で左に分かれる道があります。ここが旧街道です。
新鎌倉街道の旧道の旧道兼現道の旧道兼旧街道
っ、いや、なんでもないです。
115m先、市役所前にあるのが
古市場の標柱。編集しましたが、文字読めますかね?
読みにくそうなので…
「多摩市役所の敷地付近を言います。戦国時代の十六世紀、小田原北条氏時代に、この付近で関戸郷の中心として市が開かれていた場所といわれています。」
「小田原北条市が関戸郷に送った当時の掟書によれば、一か月のうち、六回位置が開かれる日があり(六斎市)、三日、九日、十三日、十九日、二十三日、二十九日と定められていたり、伝馬の数や免税などについて定められています。」
と書かれています。
ここらへんは16世紀には関戸宿となっていたそう。
116m先、多摩市役所交差点で都道18号新鎌倉街道現道に出ますが、すぐ左折し、35m先で右折したところが旧道のような気がします。行ってませんが。
とりあえず新鎌倉街道現道を進みます。
305m先で旧道のような気がする道が合流し、219m先、左側にあるのが
熊野神社。
祭神は速玉之男命(ハヤタマオノミコト)、泉事解男命(ミヅコトワケオノミコト)、意冨加牟都美命(オオカムツミノミコト)。
1489年の創建で、山の上にあり、多摩ニュータウンが望めました。
ここら辺は「関戸」という地名なのですが、その由来がこの霞ノ関なんです。
これは1213年に秩父平氏や横山等の残党の不測の事態に備えて作られたものです。
柵は乞田川から現在熊野神社がある山腹まで200m弱続いていたもので、街道の出入り口には木戸を作り、通行人を監視していたそう。
「南木戸」ということには「北木戸」もあり、北244mの観音寺近くにあったそうです。
さて、観音寺などの紹介は次回に任せるとして、今回はここまでとします。
それでは!