「家政婦のミタ」すごいですね
学校で真似してたりする、ぴゅうです。
さて、今回は瀬谷・本郷は日枝神社前からスタート。
小ぢんまりとした神社で、祭神は天照大神だそうで。
ケヤキがあります。この少し手前には鎌倉街道やこの付近の樹木について書かれている案内板がありました。
さらに街道を北に407m進むと
右手に瀬谷銀行跡があります。
案内板には
「明治40年代後半のころは、養蚕業を隆盛をきわめ各所に製糸工場が設立され、養蚕業の最盛期でした。
このような経済の好況を反映して、瀬谷銀行は明治40年(1907年)に創業され、30年にわたり地域金融事業の中心となり、実業界・政界に大きな影響を与えるとともに地域の発展に寄与しました。
頭取小島家は代々政五郎を名乗り、江戸中期から中瀬谷村村役を務め、更に明治・大正・昭和の初期まで村行政に功績を残しました。」
とありました。
瀬谷にも銀行があったんですねえ。このころにはほかの都市にもたくさんあったんでしょうか?
21m先から76m先にかけて右・左とまがり(旧道かどうかは確信は持てませんがね。)、更に192m進むと右手に
瀬谷八福神のうち恵比寿神で、1533年開山。この地域では昔から雨乞いとして信仰を集めていたとか。
善昌寺を後にし北に74m進むと突き当たりになって旧道は消えてしまいます。そのため右折。
そして67m進むと県道401号瀬谷柏尾線にぶつかります。そこにあるのが
北向地蔵尊。北向きなのは珍しいとか。でもなんか「北向地蔵尊」とか良く聞くような気がしますけどねえ。
県道が旧道筋となりつつ進むこと187m、右側にあるのが
日蓮宗蓮昌山妙光寺。瀬谷八福神のうち大黒天。
なんと開山は652年に明光比丘尼が作った庵が最初だとか
そして808年ごろに天台宗福昌山妙光寺としたのですが、1282年に日蓮が身延山から池上本門寺へ行く際にここに一泊したそうで。そのため日蓮宗の蓮昌山になったとか。
また、境内にある鐘は、1325年に作られたものが残っており、とっても由緒のあるお寺です。
写真をこれしか取っていないのが名残惜しいくらい。
街道兼県道を北に232m進むと十字路に出ます。そこを右に曲がった所が牢場坂、という坂です。
案内板の写真は撮ったのですが、坂自体の写真はforgotです。
案内板には
「室町時代の宝徳年間(1449年~1451年)頃小田原北条早雲の家臣で、相州東郡(旧鎌倉郡、高座郡)北部の守りに就き、深見城に威勢を張っていた藤原朝臣山田伊賀入道経光の設けた牢場が、鎌倉道沿いに置かれていたためにいつしかこの地名となりました。
この北方には馬場屋敷、南には中屋敷の地名が今も残されています。
なお、この道の傍にはその頃五輪塔や板碑静かに長い歴史を語りかけています。」
とあります。
板碑は見つけられませんでした。
ちなみに、この牢場坂から来る道も鎌倉街道の別ルートで、全通寺前から分かれて相沢川沿いに進んで来る道です。
109m先でまた別ルートの道が分かれていきます。このルートは町田市鶴間を一直線上に進み、成瀬や南大谷を通って本町田で僕が歩いたルートに合流するものです。
東名をくぐりつつ618m、東京資源株式会社の脇で右に入る道があるのでそちらを進みます。
因みに、東名の手前、右側には八幡神社があるのですが、僕は行けず。
工場群を457m進むと国道246号にでます。ここら辺からは旧道がなくなってしまいます。右折し245m、旧道への入口にあるのがこの
五貫目道祖神。画像が粗い
気のせいですよ。
大山街道と鎌倉街道の交わる交通の要所だった、ということで。
このころはまだ大山街道を歩くなんて思ってもいなかったなあ。
そして246号を371m進むと歩道橋があるので渡り、その向かい側の道に入っていきます。ここからは旧道筋に。東京女学館大学を左に見つつ263m進むと旧道はなくなってしまいます。そのため右折。
101m進むと太い道に出るので、左折します。
132m先の鶴間小学校北交差点ぐらいで旧道が合流し、鶴間公園を右に見つつ進むと448mで東急田園都市線のガードに出ます。
僕はここでくぐってから右折、南町田駅に向かいました。
2010年8月20日 8:05頃~10:30頃 16.3km
あ~、明日の職場訪問の発表の練習しなきゃ…


