お出かけ日和の3連休、こちらを鑑賞してきました。
「リトル・ダンサー」、公開時はまだバレエにすら出会っていない年齢でしたので、初めて観たのはレンタルビデオ(死語?😅)。
それ以来、テレビ放送がある度に観て、その都度泣いていたのですが、まさかのスクリーンで鑑賞できる日がやってきました。
神戸のミニシアターですが、公開2週目ながらほぼ満席!
老若男女問わず、幅広い客層で、外国の方もいらっしゃいました。
泣くことは前提で、ハンカチではなくタオル(笑)を持参したのですが、泣いて泣いて大変でした。
タオルはボトボト、目は真っ赤、身体は脱水症状でえらいこっちゃ。
その状態で、大丸に入店してしまった怪しい人😅
いつの間にか、ビリーに加えて、兄トニーやお父さんに感情移入する年齢になってしまったようで。
お父さんがビリーの夢を叶えるべく、大切なある物を手放す場面、スト破りの場面、バスターミナルでのお別れの場面で大号泣。
自分も働くようになると、お父さんやトニーの立場もとてもよく分かるのですよ。
ずっと過ごしてきた地元や仕事に対して、100%満足はしていなくても、どこか先行きは暗いと分かりつつも、いつしか芽生えたプライド。
そして「男がバレエだと!」とぶちキレる裏には、自分たちも、「家長制の男性像」の呪いから逃れられない苦しみが透けて見えます。
「家族が路頭に迷わぬよう、外で稼いでこそ男」
「男が弱音を吐いてはいけない」
これらは、作品の舞台である1980年代のイギリスに限った話ではなく、現代の日本でも続く価値観といえます。
また、ビリーが直面する「男がバレエとか…」という冷やかしともいえる偏見は、今も決して解消されたとはいえません。
何年か前、米テレビ司会者が、ジョージ王子がバレエを習っていることをジョークにしたことで抗議活動に発展したのは記憶に新しいところ。
日本でも、熊川哲也氏が、バレエダンサーのイメージをガラッと変えたとはいえ、まだ「バレエ=白鳥の湖をチュチュを着て踊る」というイメージが払拭されたわけではありません。
私自身、小学校4年生ごろまでバレエを習っていましたが、同級生からは好奇の目で見られていました。
「白鳥の湖を踊れ」と冷やかされ、1回軽く踊ったことがあります😅
そして、ビリーが「夢は追わず、家でおばあちゃんを看ておけ」と言われる様は、現代のヤング・ケアラーに通じるものがあります。
今作が、時代や国境を越えて、人々の心へ迫る背景には、「決して他人事ではない」という真実味を(残念ながら)失っていないからだともいえると思います。
こうした社会背景、敷かれたレールから跳びだすようなビリーのパッション!
劇中のサウンドトラックに合わせてのダンスシーンの数々は、映画館で見るからこその迫力に溢れていました。
「男がバレエを踊るものじゃない!」という社会からの声への、最高の返しともいえる、ラストシーンは今観ても色あせません!
実は、本編終了後、クレジットが始まったタイミングで、もう一度映る25歳のビリー。
彼が見せるアラセゴンド・ターンの基礎は、ウィルキンソン先生が教えたものと今さら気がついて、また号泣…
この「Go!Billy!」という掛け声と被ってしまって…
そう思うと、ウィルキンソン先生、地方の「スポクラ・バレエ」ともいえる小さな教室を持っているだけですが、理想の教師像を体現していますよね。
バレエ目線でみると、メソッドはあったものじゃないですが、生徒の才能を見抜く力、向き合わせる力、そして愛情は本物でした。
秀逸なのは、ビリーがロイヤル・バレエ学校のオーディションの結果報告へ来る場面。
あの別れ方こそ、教師のあるべき姿だとつくづく思いました。
「バレエコンクールで賞をとったら自分のお手柄」みたいなお教室を、ユースグランプリの時期になるとインスタで見かけるので、その方々に見てほしいです。
生徒は、あなたのトロフィーじゃない!とずっともやもやしていまして(誰目線?😅)
トニーがウィルキンソン先生にブチ切れる場面、「何の資格があって、バレエ教えてるんだ」という台詞、日本のバレエ界に刺さると思います(笑)
劇中では、ウィルキンソン先生が、ビリーに「白鳥の湖」のストーリーを語って聞かせます。
魔術師の呪いで、数時間だけ人間へ戻れる乙女が迎える結末は、自ら死を選ぶというもの。
ウィルキンソン先生は、自分の心の声を押し殺す世界で育ったビリーへ、自分の気持ちに正直に向き合い、羽ばたかせるための翼を与えたのかもしれません。
そして、自由を得た「白鳥」は、ストーリーのクライマックスで、スクリーンいっぱいに羽ばたいたのです。

「リトル・ダンサー デジタルリマスター版」公開中です!
今の日本人にこそ見てほしい、不朽の名作!
パンフレット、デザインも素敵で、中身も充実していますのでぜひ!(各地で売切続出しているみたいです。)