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アラフォーのたぬこですにっこり

中学生の娘と小学生の息子がいるメンタル豆腐オカン不安

 

この記事はスピリチュアルな内容になっています。

苦手な方はレッツスルーおすましペガサス​​​​​​

 

 

 

 

昨日お風呂に入っている時にふと考えを巡らせていたら、ずっとずっとわからなかった自分の中に引きずっている感情の正体に気づいてびっくりした。

 

ちょっとした「もしもの未来」を想像する妄想あそびにふけっていたら、その中で唐突に目が覚めるような気づきがやってきた。

 

 

私はメンタル豆腐なので、若干モラハラ気質がある夫には後が面倒くさいので逆らわない。「それでもいつか自分が我慢できなくなったりすることもあるのではないか?」と思わぬこともなく、「そうなった場合」を想像してみた。

 

~~~以下、妄想~~~

 

衝動的に距離を取ろうとして家を飛び出すだろうな、でも行き先がないな(実家はオカルトちっくで無理)

義両親は優しいから、もし私がメンタル崩壊してもサポートしてくれるんだろうな。

義母は私が好きなこと(何かを作ること)を一緒にしてくれて気分転換できるようしてくれるんだろうなと、どんどん妄想していった。

 

そしたら義母と手芸をしているイメージのところで、突然、私の中の「私」が怒鳴った。「私は絵が描きたいんだ!!!!」

頭の中のイメージを中から打ち破ってくるように、噴き出した怒号だった。

 

~~~~~~~~~~

 

 

「私は絵が描きたかった」

 

 

でも出来ないと思った。ダメだと思った。

画家なんてなれないし、そんなんじゃ食っていけないと思った。

祖母には否定されて、嘲笑って貶された。

絵に愛を向ければ向けるほど、私は傷ついた。

 

届かない夢に、追うことの出来ぬ理想に、ゆっくり首を絞められていく。

 

私は絵を恨むようになった。

絵を愛する自分を責めた。

 

お前のせいだ。この愛のせいだ。

私は絵に対する感心を捨てた。

本当は捨てられないから、忘れることにした。

 

 

大人になって、結婚して、子どもを抱いて、ほんの少しこころに余裕が生まれた頃、「また絵を描くのもいいな」と思った時があった。

 

時代が進み、スマホでだって絵が描けるような今に、画面をタップした指はそのまま動けなかった。

 

私は絵に対する感心を忘れていた。

私は絵を愛する心を恐れていた。

絵を描いていたあの頃の情熱は、どうやっても帰っては来てくれなかった。

悲しかった。

 

SNSでは今日も誰かが素敵な絵をアップしている。

それが眩しかった。

それらを見る度、賞賛と同時に私の胸は軋んだ。

 

 

それは「絵を描きたい」という自分の怒号だったのだ。

そのことに気づけぬまま、一体どれほどの時間を過ごしてきたんだろう?

 

 

「私は絵が描きたかった」

 

 

人が心に秘めるのは悲しみや寂しさなのだと思っていた。

全然違った。

私が秘めていたのは噴き出すような怒りだった。

 

内省を繰り返す中で、私はいつも「寂しい」へと帰結していた。

ずっとずっと何かが寂しくて、けれども理由がわからなくて、どんなに幸せを感じる時もこの寂しさは私に付きまとっていた。

 

噴き出す怒りを知った時、私はようやく気付いた。

私が長年引きずっていたこの「寂しさ」の正体は、「絵が描きたい」という自分の怒りを私自身が否定し、忘れ、なかったことにした扱いに対する私自身の悲哀だったのだ。

 

たとえ周りがどんなに否定しても「私は絵を愛するし、絵を描いていたい!」と、そう叫んで欲しかった私の心だったのだ。

 

 

意図せぬ形で、私は自分の中にある最大のインナーチャイルドを見つけてしまった。

 

これからどうしようか?

絵を描いてみようか?

まだ「何を描く」というのもなにも浮かばないのだけれど。

私は再び絵を愛したい。