本を読む、映画を見る

Amebaでブログを始めよう!

 

 


このショートショートは「偏愛」をテーマにしたとのこと(あとがきによる)。とはいえ、表題作の「ゆっくり十まで」は純愛で、素子さんらしいファンタジー。このらしさは若い頃の作風でしょうかね。15のショートショートは、いずれも、人が死ぬことはあっても、恐ろしいものはなく、新井素子ワールド。ではないものも、チラホラあるのかもしれませんが……。
短編やショートショートが書けることに気づいてしまった素子さんが、ウェブマガジンで連載していたショートショートを集めたもの。気軽に楽しめる作品集で、ショートショートらしくオチもある。そのオチと世界観は素子ワールドと考えると納得できるのですが、世の中は素子ワールドとはちょっと違うんですかね?
星新一の秘蔵っ子と言われた素子さんですが、星新一とは違う感じのものを書いています。誰だっけかが人の人生を細長い丸棒に例えて、棒一本そのものを描くのが大河小説、長く切り取ったのが長編、少し短いのが中編、とても短いのが短編。ショートショートは丸い棒を底から眺めるようなもので、人生全てが入っているようなものだと書いていた。
このショートショート集はそういうショートショートと、短い短編の混在に感じました。人生をいっぱい読むのも疲れちゃうから、これくらいが丁度良い。
 

 

 

 

 

 


ガリレオシリーズ待望の映画、のはず。

 

東京のキクノ市で3年前に失踪した、歌手デビュー直前の少女、並木佐織(川床明日香)の遺体が静岡県の家屋火災現場から見つかった。だが、焼死ではなく火災より前に殺害されていたことが分かったという事件がきっかけ。なぜか偶然にも、キクノ市の帝都大学金属材料研究所に数ヶ月前から研究に来ていた湯川(福山雅治)は佐織の家族が経営している食堂なみきやの常連になっていて、佐織の妹にも懐かれていた(名探偵は偶然に居合わせるんですよねえ、どうしてでしょうね、笑)。
犯人と目される男(蓮沼:村上淳)は、証拠不十分で起訴されないことになったのだが、蓮沼がキクノ市で殺された。蓮沼は、23年前の幼女殺人事件(優奈ちゃん殺人事件)で無罪となっている。草薙(北村一輝)はその捜査に関わっていて、蓮沼が証拠不十分で無罪になったことを悔やんでいるというところ、蓮沼が殺されたのがキクノ市のパレード(お祭り)の時であった。なみきやの常連がパレード(仮装、今回は宝島)に出演した後であった。
なみきやの常連たち、つまり、さおりを大切に思っている人達全員が容疑者となりうる状況で……。見ている時、これはオリエント急行殺人事件のパターンか?しかし、それでは映画の長さ(しゃく)と合わないぞと、思ってしまうのでした。なにせ俳優がみな有名人、人気者ばかりなので、キャストを見ただけで犯人が分かるようなチープな作りにはなっていないのです。犯人については佐織の殺人犯を含めどんでん返しが二度もあって、そうくるか、あの場面の伏線はこれだったのかと思うものが多数ある。うーん、面白い。どうやってこういうことを考えるんだろうと思ってしまう。
黄色いチョウチョが意図的に映されるのが、それもいくつかの伏線になっていたり。これは原作にもあるんでしょうかね。チョウチョを新倉留美(檀れい:佐織を指導していた直樹[椎名桔平]の妻)が払うような仕草とか。見終わった後には、あれも伏線だったのかというのも多数でした。ネタバレになるので、もう書きませんが。
テレビシリーズでは内海(柴咲コウ)と湯川のペアが、謎解きのトリックを解くのではと思うのですけれど、そもそもトリックがあまり物理学的な部分が大きくないので、より普通のミステリっぽい感じでした。湯川が草薙に、それで解決させるのでいいのかと問うところは、供述の矛盾があることを言わないところは、物理学者としてどうなのと思ってしまった。映画の中で、供述の矛盾は指摘されていないのだけれど、考証はどうなってるのかしら。
実は、テレビシリーズを見たことがなかったので(テレビを持ってない)、湯川教授(教授になったくせにと言われる場面があるように、准教授から昇進している)の細かな人間関係や、謎解きや事件の解決方法の定番を知らぬまま見ていました。本来は物理学的な謎解きなのかと思っていたのですが、テレビシリーズはそうだったとツレに言われました。事前情報は間違っていなかった。
なみきやの手書きの今日のメニューが、店先に出ている場面が2度あるのだけれど、その食材である魚を用意している場面がある。ちゃんとメニューの魚がザルに載っていて(ホヤがあったり、なかったり)、よし、おっけいと思った。

 

 

 

 

 


伴名練の編集による「未来から来たアンソロジーである」とのことで、最近5年以内の作品で作者が単著で出版していない人の短篇を集めた短編集。どれも面白かった。ひとつを除いて。
murashit著「点対」は前衛的すぎて、読めなかった。1行おきに読んで行くふたつの話になっているようなのだけれど……。かんべむさしの「決戦日本シリーズ」は、ページが上下に分かれていて、阪神タイガース優勝と阪急ブレーブス優勝の二つの並行世界が描かれているのだけれど、文章としては上と下を見ながら読めた。内容はハチャメチャなのはおくとして。でも、この点対は1ページも読めなかったごめん。(「決戦日本シリーズ」はハヤカワ SF コンテストの選外佳作なので、この新しい世界を生きるための14のSFに収録されるような作品でもある)
作品ごとに、伴名による、類似作品の紹介がある。紹介されている作品もたくさんあって、それも驚きだった。SF も幅が広いので、これという分野が、含まれていないものも、あるかもしれない。
未来を描く SF はいつから見ても未来なのだから、時代性を感じさせないものであるかとはいえば、そんなことはない。新しい技術は作品に取り入れられ、考え方も更新されるので、この13の作品はみな新しさを感じるものが多い。

八島游舷の「Final Anchors」は車載 AI によるトロッコ問題。AIの視点で描かれているのだが、人と同じような感情があるように描かれているのが気になった。
夜来風音の「大江戸しんぐらりてい」は古代の計算機が、その「境界」を超えていたことが江戸時代に発見されたことで起こるシンギュラリティの話。江戸時代に長屋(算術長屋)を作り、建物の部屋の中で人が単純作業することで演算する。柿本人麻呂の歌の万葉仮名が実はプログラムの中間表現であったというもの。和算の関孝和が重要な役割を果たすのだけれど、甲府藩だとは知らなかった。上州人と思っていたのだけれど、それは生れだけだったのか……、と別なことまで思ってしまった。
黒石迩守の「くすんだ言語」は脳に直接干渉するデバイスを介した翻訳ソフトウェアが導くブロックチェーンの悲劇。結末がイマイチ陳腐かも。
天沢時生の「ショッピング・エクスプロージョン」は圧縮陳列のドンキホーテをモチーフにしたドタバタSF。こういうのは楽しい。
佐伯真洋の「青い瞳がきこえるうちは」はバーチャル空間での eスポーツの発展形。全盲の主人公と双子の晴眼者が卓球のようなeスポーツをするのだが、双子のほうは寝たきりとなってしまっていて、でも、バーチャル空間には現れることがある「ようなのだ」。という単純なeスポーツの物語ではないところが、ひねりがある。
といった感じで、今の時代になったから出来た作品群。

一方そういった、特段の現代性を感じさせない作品もある。
斜線堂有紀の「回樹」は人間の死体を吸収する樹のようなものをめぐる話なのだけれど、主な話は二人の女性の恋の話で、結末はぼやかすという作り。
宮西建礼の「もしもぼくらが生まれていたら」は、高校生が人工衛星のコンテストに臨む話から、小惑星の地球、しかも日本への落下が予測されての話へと繋がり、そして題名へと帰着する。ウクライナで核兵器が使われるかもしれないなどという、物騒な今日この頃、予言的にも思えてしまった。
高橋文樹の「あなたの空が見たくて」は、時間と空間と宇宙生物の描かれ方がハードSFではないが、星間旅行のあるお話。むしろ、これは人間の心の話と思った。
蜂本みさの「冬眠世代 」は、冬眠をしていた時代の熊を、冬眠しなくなった今の熊が記録する。冬眠している間、夢の中で過去と繋がれる。
芹沢央の「9月某日の誓い」は、大正時代の超能力者の話。伴名解説によると、超能力のSFは書きづらくなっているとのこと。魔法との違いがほとんどないのが難しいのかもしれないと思った。火田七瀬のESPやヘンリーのPKとか(筒井康隆の「家族八景」、「七瀬ふたたび」、「エディプスの恋人」)、そういうS が書かれないのが21世紀なのかもしれない。シスターフッドの話なので現代的とも言える。
麦原遼の「それはいきなり繋がった」は、新型コロナウイルス感染症が広がって後に構想された作品とのこと。左右逆転した並行世界が偶然つながって、向こうの自分と向こうの恋人との関わりなどが描かれる。作品はそれほど強く新型コロナウイルス感染症に関連付けてはいないので、今だからという感じはしなかった。
坂永雄一の「無脊椎動物の想像力と創造性について」は、バイオテクノロジーで改変された蜘蛛によって、京都が蜘蛛の糸、蜘蛛の巣で覆われ、京都が放棄されることになる。その原因を作った葛城(故人)が、その大学同期の建築学者、天瀬の視点で描かれるのだが、この2人がマッドサイエンティストで……。SFとしてはいいけれど、科学者としては、その倫理観は許せないぞと思ったり。
琴柱遥の「夜警」は、ファンタジー要素が多いSFで、世界が流れ星によって物が、考えによってが作られるというが……。SFの世界観はディストピアなのだとの言説そのもののような、でも希望もあると言うか。この13のSFの中で、一番よかったのがこれだった。伴名さんは後ろのものほど読まれづらいと、まえがきで書いていたが、これを最後に持ってきているのはよい作品だからなんだろうと思った。

それにしても、作家のみなさんのお名前が、個性的を通り過ぎている感じの人が多くて、驚きました。なんだかなあ、読み仮名がないと読めないしと。作品に全く関係ないことにも、感心してしまった。

 

 

 

 

 

 

形態は普通の小説だった。吉村萬壱の小説といったら、あの衝撃のデビュー作「クチュクチュバーン」のように、異形の生き物みたいなものが出てきて、それが、人間の心だか、社会だかの現れなのかもしれないという、でも、それさえもよく分からない、そんな作りだったとの印象だった。「ハリガネムシ」も「バーストゾーン」も「ボラード病」も。
この普通の形の小説で、吉村萬壱は最後の最後にはっきり書いている(ネタバレになるので書かない)。そうか、吉村萬壱は、デビュー作からこのかたずっと、こういうことが書きたかったのだ、と納得した。
観念的なことばかり書いてもこの小説の面白さは伝わりませんね。
日本(にとてもよく似た国)では、今、CF という名(セントラル・ファクトリーの略)の巨大企業が、世の中に大きな影響を与えている。この企業は、犯罪の責任を物質化し、無化することで、責任が消え、それにより、被害者に対する責任は消失し、被害者も救われる、というものだ。もちろん、無料ではない。政府の巨大贈収賄事件のチルネック疑獄も、責任が消失し、誰も起訴されないだろうことが何度も出てくる。こんな大きなことだけではない。殺人を犯した者も、CF に責任を消してもらい、足りないお金は CF で働くことで返している。その作業は、CF の工場23階でピンク色の液体を混ぜるだけ。
その液体に毒性はないが、体を害して辞める者がいる。何か仕組みがあるはずだ。CF に対して、テロを起こそうとする者がいる。CF による救いを、世間に広めようとする者がいる。自動車を暴走させ、少女を轢き殺した老人が、CF により責任が無化され、起訴されなかったことがある。CF は、隣国の C国(明らかに中国がモデルだ)にシステムを売り込もうとしている。登場人物は、不幸を心の中に持っている人ばかりだが、たぶん、ある程度はみな不幸を抱えているので、これは特別変なことではないのだろう。そうした人は、場末のキャバクラだったり、犯罪者が巣喰っているような町や普通の家や CF のレストランや CF のオフィスにいる。様々な、バラバラはだった人々の描写が、全て繋がっていくよう物語は進む。
もし、CF のない世界の人が、この物語を読んだのならば、救いがないと思うだろう。読者である私たちは、そう思うはずだ。しかし、CF の物語の中にいるとしたらどうか。CF によって責任が無化される世界には、救いがあるのかもしれない。いや、きっとそうだと思ってしまう。
吉村萬壱は、現代日本には CF があるかのようだと言いたいのは分かる。しかし、今、日本に住む私たちには、CF があるとは言えないと思ってしまうのだ。もっとしっかりと、きちんとした、完璧な CF が欲しいと。きっと、これが現実なのだ。

 

 

 

 


嬴政(吉沢亮)が玉座を取り戻して後の、信(山﨑賢人)の初陣。蛇甘平原の戦い。初陣ではあったが、信が大活躍しているのはよいとして……。映画は羌瘣(清野菜名)の回のようだった。今作では、物語の筋はもちろん信なのだけれど、人物の描写としては羌瘣の映画。
羌象(山本千尋)とのエピソード(姉妹のように過ごし、そして蚩尤を決めるための殺し合いで羌象を失ったこと)が描かれる。もちろん、羌瘣の戦場での戦いも。少し残念だったことは、達人である山本千尋が演じているのに、羌象の殺陣が全くなかったこと。
夕方になって、秦と魏の両軍とも自軍陣地に戻る時、秦の側で倒れていた人が、沢山起き上がって戻る場面があった。矢や槍で突かれたのではなく、剣で切られた人の中には致命傷ではない怪我をして倒れていた人も多かったに違いない。あの場面は、実際もそうだったんだろうなと思わせる、よい描写だと思った。
アニメでは伍を組むとき伍長の澤が、私の伍では死んだ人がいないんです、と言うのだけれど、そして、この台詞が好きだったのだけれど、映画ではなかった。残念。
こうして思い出して書いていると、思い出した場面が映画なのに、声がアニメの声優さんになってしまう。違う違うと思いながら、音を戻さなければならなかった。アニメ恐るべし。

 

 

 


妻が色々大変な人だった話の体験談。著者が新聞記者なので、社会との関わり、社会制度についての意見や考察もある。
その妻は……、結婚する前から吐き戻しをしていたという。結婚してすぐに吐き戻しに気づいたそうだが、著者は忙しさにかまけて、特に対応はしなかった。妻本人も対応に対しては嫌がったこともある。そして様々な悪化もあった。アルコール依存になる。体力が失われ入院する。精神科への強制入院もあった。読んでいて苦しい。
心に病を抱えた人は、入院などではもちろんのこと、カウンセリングを受けることを、まず受け入れない。カウンセリングは、自分が悪いと責められると考えるからだ。少し分かっている人も、まず受け入れない。本当は責められるのではなく、自分の苦しさの源に向き合うことになるので、そして、それが苦しいことは最初から分かっているので、向き合いたくないから、苦しくなりたくないから、カウンセリングを拒むのだ。配偶者(この本では夫である著者)が苦しんだり、金銭的に苦しくても、自分が苦しいわけではない。客観的に見たら、本人が一番苦しんでいるのだから、カウンセリングを受けて、早くその苦しさから解放されればいいだろうに、と思うような状況であっても、本人は頑なに拒む。とりあえずは、今のままでも、苦しさが急激には悪化しないからだ。
著者と妻は、お互い、そして、各々が壮絶な「闘い」をした後、妻が予想外の症状となる。アルコール性痴呆という、アルコールの過剰摂取を原因として前頭葉の萎縮が起きたのだ。その結果、妻は理解の度合いが低下し、また、性格も穏やかになった。著者は、このままの妻を受け入れ、今後も共に生きていくという。
決意もすごいが、これまで(かろうじて、かもしれないが)仕事を続けてこられたことも、すごいと思った。しかし、一人だけで(個人で)対処すべきだったのかというと、それはとても難しい課題だと思う。
家族はどのように接するべきだろうか。子供がいるならば、子供が最優先だ(著者夫婦には子供はいない)。子供には罪はないのだから。だが、子供を最優先にできる社会環境はあるだろうか。社会生活を営むヒトという生き物は、助け合うことで現代まで生き延びてきたと解釈ができるが、その助け合いも、家族の多大な負担に依っているのも事実。人権とか、多様性とか、高齢化とか、考えるときりがないが、この、結論の出ない思いをより深く考えることとなった。

 

 

マンガです
少々、日本に対しても韓国に対しても批判的なんですが(風刺漫画の本質はこれじゃなきゃなりません)、おおむね両国に大して好意的
こういう見方をしつつ仲良くやれればいいんだけど、最近のネット上の言説はどうもなあ
 

 

 

新進作家の短編集で、書評では期待できるようだったので読んでみた
う〜ん、いまひとつ、という感想
もしかしたら、今は、よい作品を書く作家になっているのかもしれない