おはようさん

2024年元旦早々
とんでもない事が起きましたね

宇宙や地球にとって、お正月なんてものは関係ないのかも知れませんが
お正月で賑わい、華やかな時を過ごして居る中での災害
ただただ驚きました

私は、2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震を経験しました
その頃、息子は小学2年生、娘は保育園年長
私は、15時までの仕事をしていました

その日も仕事で
ふと時計を見たら、14時45分
あと少しで仕事が終わるな…と、帰れるな…と考えていた
そして、まもなく地震が来た
その揺れは激しく、皆で悲鳴を上げながら屋外に出た
建物から石の破片が転がり落ち、車がバウンドしていた
まるで波を漂う船に乗っているかのように、地面が揺れた
うねっていた
ひどく長い時間揺れていたように思う

それから、職場を後にし
駐車場まで走った
子供たちが心配だった
心配で不安で、足がもつれた

車を発進させ、大通りに出ると…停電で信号が機能しなくなり、道路はパニックだった
譲り合い、進むに進めない車の前を横切り
私は、我先に車を進めた
とにかく、子供たちに会いたかった

保育園に着くと
子どもたちは園庭に避難していた
子供たちはもちろん、先生も不安そうにしていた

娘を車に乗せ
次は、息子の元へ

機能しない信号にて、交差点は相変わらずのパニックだ
最初の地震が起きてから、延々と続く余震
もしかしたら、更に大きい揺れが来るかもしれない!とも思った

それなのに、なんと
息子が通う小学校は、あの大地震後に
通常帰宅させてしまっていた
そのため
慌てて学校へと走ったお母さんが既に帰宅してしまった息子と出会えずに右往左往してしまった…という話を後に聞いた
泣きながら我が子を探した、と

うちは学童だったので
学童にて、息子と会うことができた

それから
息子と娘と3人で、帰宅した
子供たちは無事で、家も無事だった
舅と姑は、ドアを開けっ放しで近くの公園に避難していた

夜になり
余震が続く中
停電で電気がつかず
水も出なかった
当然、お風呂に入れない

ガスは機能していたので
蓄えていた水を沸かし、カップラーメンを食べた

停電も断水も、翌日には復旧した

ただ、その後
ガソリンが手に入らずにいた
結果
ガソリンが入荷した…という情報に人が集まる
私も、決められた量…10リットルとか20リットルとかだったかな
定量限定と知りつつ、そのガソリンスタンドに並んだ
一般道路にその列が並び、道路は渋滞となった
2時間並び、やっと手に入れたガソリン

スーパーやコンビニに行っても、棚がガラガラで
パンが手に入らなかったり
納豆、牛乳が手に入らない
不便な日々だった

小学校は、給食が手配できずに
地震後は午前中までの授業となった
保育園は
『休園ではないです』と、言いつつ
登園してほしくないオーラだった

確かに
余震が続き、不安が消えない中
子供たちと離れるのは、私だって嫌だった
でも、仕事があるので預けるしか無かった

娘は洋服に、太いテープを貼られた
そのテープには、娘の名前が書かれた
もしもの時用に、名前が分かるようにと言う考慮らしい

もしもの時用?と、私は考えた
自分の名前を自らが喋れない状態の時があるということ?と
それって……と、想像し胸が傷んだ

私が住む街は、震源地ではなかったし
津波の被害も一部だったので
復旧は早かったと思う
一日一日は長かったけど
過ぎてしまえば、あっという間に元の生活へと戻れた

魔法使いのように、それを蘇らせることのできない私達は
起きてしまったことを受け入れるしか無い
受け入れ、そこから再出発するしかない

元の生活…それに戻るには
まず、命があり
家があり
道があり
仕事があり……
その日々を繰り返し、繰り返し繰り返し…
また、足場を固めていくしか無い

災害は突然に起きて、何もかも奪っていく
その後
何事もなかったように静寂となる

生きていくって、大変だよね
心から、そう思います
全ては時間が解決する…というのは、本当です
でも、『今』が辛いんですよね

屋根があり、温かい布団にて手足を伸ばせる幸福に感謝しなければいけない
それは、当たり前ではないのだと自分を戒めねばならない



この度、被災された方
寒い中、心細い時間を過ごしていますよね
起きてしまったことを消化するには時間がかかります
被災された皆様に1日でもはやく平穏な日々が戻りますように
心からそう、願います