たとえば

毎日見えている

樹とか山とか川とか海とか

なんでも

 

 

それがある日

霧が濃いとか

モヤがかかったとして

見えなかったとしても。

 

 

そこに「在る」ことを知っているので

 

見えないからといって

「無くなった!」とは

思ったりしない。

 

 

見えなくても

ずっとそこにあるものだと

知っているから。

 

 

 

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愛はどうか?

 

「愛されているはず!」も

「愛されてなんかない!」も

 

愛が在ることを確信出来ていない状態。

 

 

 

 

「あそこに山があるはず!」

「あそこに山なんかない!」

 

これはまだ

山の有無について

真実を知っていない状態。

 

 

子供のころから

ずっと山を眺めてきた人ならば

「山はあそこにある。」と言い切れる。

 

悩んだり議論したりしない。

ずっと『知っている』。

今さら当たり前、なレベルで。

 

 

 

 

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自分は愛されているということ。

愛されてきたということ。

 

神様や宇宙とか

自分を愛してくれる存在たちだけでなく

実は誰もがさまざまな形で

いつでも愛を注いでくれていたこと。

視点を変えなければ

とてもわかりにくい形の愛もある。

そういうことも、よくある。

だからわからないことだって、あった。

 

それらをすべて含めて

「愛だと気付かず受け取っていなかった」

そんな自分がいたということ。

すでに愛はたくさんあったこと。

 

 

 

愛だらけなことを

「知っている」レベルにまで落とし込む。

 

 

 

Aさんの愛

Bさんの愛

動物や植物も…

人間の愛

神様の愛

宇宙の愛…

 

まずは「知ってみよう」という意欲から。

 

 

 

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なかなか抵抗が出たりもするけれど

まずは

「愛してくれている。愛されている。」

という大前提で

世界を眺めてみることが練習になる。

 

 

 

 

取り組むほどに

いろんな疑惑や

「だってあのとき!」っていう

過去が出てきやすくなる。

 

そこが重要。

「癒しながら」でないと続けられない。

 

その都度、自分を癒していくことは

自分の内側にゆとりを生む。

 

 

 

 

 

 

「(さまざまな形ではあったが)

 愛されていた。」

 

その愛を受け取っていく。

 

「今までは愛を受け取っていなかった。」

 

そんな自分のパターンを

癒して赦していく。

 

 

 

 

善悪でもなく

正誤でもなく。

 

ただただ自分の癒しを継続していく。

 

 

 

そうしてゆるんだスペースで

受け取っていく。

愛されていた気付きが生まれ

勝手に感謝も湧き上がる。

 

 

 

 

 


 

愛されていることを

「知っている」レベルにまで落とし込んだら

安心しかない世界。

 

それはとても怖いことでもある。

 

幸せを自分に許可することは

誰にとっても実は

戸惑いが湧きやすいものだから。

 

 

だからこそ丁寧にゆっくりと。

 

 

ひとつひとつ。

 

ひとつひとつ。