【報告】1月11日、三里塚③~木の根ペンションで一坪共有地現地調査・加瀬勉さんのお話
1月11日、三里塚③
木の根ペンションで一坪共有地現地調査・加瀬勉さんのお話
その後、木の根ペンションに移動。木の根ペンションが建っている土地は全国800人以上が共有する一坪共有地である。こちらでも隣に建つ監視塔からガードマンが監視している。
一坪共有地に建つ木の根ペンション
ペンションを監視する監視等
ペンション2階で、加瀬さんから「今後の三里塚闘争と一坪共有地運動について」の問題提起を受けた。
加瀬さんは「横堀団結小屋・鉄塔の土地は私の名義になっている。熱田家移転時に、瀬利からもらった土地だと言い出した熱田さんに対して当時の関係者5~6人を熱田家に集めて反対同盟の土地と認めさせた後、柳川さんと相談して私の名義にした。
空港反対闘争が始まったときの農民の思想的潮流は3つあった。戦前の小作争議を闘ってきた人と社会党関係は徹底反対を主張した。第2は7~8割を占めた自民党支持の人たちで彼らは穏健に反対したい。第3は反対同盟を作り反対運動するのは決心が足りないからだ、私の土地は自分で守るという決意主義・主観主義。
富里の反対運動で社会党から共有運動が提案した。農民は顔も知らない者に死守する土地をなぜ売るのかとなり、代わりに国会議員や教組、全電通などを対象に借地運動、立ち木運動を展開した。同志として信頼できる者の間では共有化したが、大衆運動としては展開できなかった。
共有運動は三里塚に引き継がれる。騒音地区の芝山の反対運動は強いが、敷地内では部落の半分がいなくなるということが起こる。それで騒音地区の人が敷地内の人の土地を所有する。菱田は木の根などという形で共有化運動が展開された。
後半になると2つ問題が出る。1つは相続問題。車庫証明も取れないとなって、反対同盟は個々の農民に一旦返さざるを得なくなった。2つ目に『三里塚は我が闘争』とする支援の中で共有運動が展開される。
私が提供しているここの土地は、反対同盟の小川明治副委員長の息子の小川直克君の借金問題で、私が土地を買うことになった。その時、この土地に関しては加瀬個人の意志で動くというのが反対同盟との了解事項になっている。その上で土地の利用権を反対同盟に与え、プール・灌漑などに利用されてきた。
仮に反対同盟がゼロになったら空港反対闘争は辞めるのかという命題がある。軍事的利用もあるし、反人民的な空港だから反対運動を続けるか。皆さんやるのですかとはっきりしておきたい。
この土地があるから、石井新二は芝山鉄道の用地部の課長級のポストなどの条件を提示してきた。あるいは芝山鉄道関係企業の一つからも売却の提案があった。売れば自分の生活が保障される、いい生活ができるということならば売ればいい。私は、革命運動・階級闘争を闘わなければならないと思っているから売らない。
この土地は小川明治さん、小川源さんの遺言の土地だ。2人は闘争に生涯をかけ、私との約束を守って死んでいった。私は遺言として土地を引き継いだ。私には道義的にも思想的にも、生き方としても土地を守る義務がある。私は、この土地は小川明治、小川源の土地であると同時に日本人民の共有の財産。
共有運動を開始するときに、私は東京での共闘会議で大衆的な共有運動には賛成できない、日本革命に生涯をかける人に共有してほしい、30人、50人で結構だと主張した。結局、反対同盟を中心に大衆的な共有運動を行うことになった。その後、売る者も出ている。
この土地は反対同盟の財産であり、階級闘争の拠点であり、人民の土地である。反対同盟は私の立場を容認してきた。だから、覚悟して共有化してほしいと共有化を進めてきた。
その後、中核派による共有者への内ゲバがあり、私たちは闘いぬいた。
ところが、運動を進めていく運動体の側が崩れた。そうして、共有者がどこに住んでいるか分からないという今日的な事態になった。
だから、政治的にこの土地は所有してほしい。決意を固めてもらいたい。原則として、この点は譲れません。一坪共有運動全国連絡会のような団体を作って、土地という物質的な基盤の上に運動を。できるところから支部を作って、顔を合わせてやってほしいと言ってきたが、ほったらかしだった。
だから、今日はめでたくもあり、めでたくもなし。本当なら烈火のごとく起こっているところだ。やれるところからやろう。まず名簿を作って、葉書を出す。ブロックごとでも集れるところから集ってほしい。現地見学会をやって、草むしりくらいはやる。それくらいは最低の行動としてお願いしたい。
これだけ長いと相続問題なども出てくる。研究してがんばってほしい。法的な麺をきちんとしてほしい。
久しぶりに文章を書いて『加瀬さん変わらないね』といわれたが、変わりようがない。
日本の自給率が低下して農地の大切さをもう一度問い直さないといけない。私は空港に賛成しなければ飯が食えないという人には『空港に賛成した人は滑走路をかじればいい。俺は米を食うから』と言っている。
三里塚でも農地から追い出すという今の派遣切りと同じようなことをやっている。輸入される食糧もこの空港から入っている。食料輸入問題も、温暖化問題も三里塚と関係している。それらを整理して、ぜひいい方法を見つけてほしい。
私も75歳になるので、100巻のテープに三里塚闘争の証言を吹き込んだ」
山崎さんからは、昨年5月の共同通信の報道後の取り組みについて報告。手紙への対応に間しては、無視するか売却する意志がないと返答をと呼びかけた。
空港会社の手紙の後、10人前後の共有者から問い合わせがあった。共有者を辞めるつもりだった1人の共有者からは、空港会社から手紙で考えが変わった。今後もがんばりたいという手紙がきた。また返却したいという連絡もあった。
空港会社の手紙は柳川さん、加瀬さんにも届き、横堀の別の共有地の5分の1持分を持つ柳川さんに720万円、木の根共有地の筆頭者である加瀬さんには140万円という買収金額を示しきた。
今後の運動としては、関西での2月1日の上坂喜美遺稿集出版会&旗開き、1・11の報告を載せたニュースレター第2号の発行が予定されている。
木の根から見た横堀