沖縄戦 教科書検定意見撤回を求める10・15総決起集会
10月15~16日
沖縄代表団が検定意見撤回を求め東京総行動
教科書検定意見撤回を求める10・15総決起集会
10月15~16日、教科書検定意見撤回を求める東京総行動が行われ、教科書検定意見を求める県民大会実行委員会の代表団の170人以上が参加した。昼には官邸に対する申し入れ、議員要請、院内集会(=写真)、官邸申し入れ、有楽町での街頭宣伝、国会議員要請などが行われた。16日には教科書検定意見撤回を求める文科省前行動が行われた。
教科書検定意見撤回を求める10・15総決起集会
10月15日夜には、「教科書検定意見撤回を求める総決起集会」が東京・星陵会館で開かれ、会場からあふれる650人が参加した。東京沖縄県人会と沖縄戦首都圏の会が主催した。
集会では川平朝清さん(東京沖縄県人会会長)の主催者挨拶に続いて、国会議員が発言。
山内徳信参院議員は「政府は、検定意見撤回は政治介入というが、最初に行政介入・思想介入したのは文科省の調査官」と政府を糾弾。
川田龍平参院議員は、「95年9月2日、薬害エイズの講演で沖縄に行った2日後に女児暴行事件が起こり、8万5千人が県民大会に集まった。沖縄の問題は薬害エイズと同じで被害者だけの問題ではない。
辺野古へも基地を作らせない。平和な島沖縄をつくっていきたい」
ひめゆりの生き残りである上江田千代さん(ひめゆり同窓会東京支部副会長)が沖縄戦について証言。「私は沖縄師範学校の学生だった。学生も軍の命令で那覇空港のまわりに堀を掘る作業をさせられていた。
米軍が上陸して地上戦が始まると、予科一年生だった私は豊見城村の陸軍病院で看護婦として働いた。配属された壕は将校二人で、看護婦は私一人。壕の中に並んだ二段ベッドに重症の兵隊がびっしり寝ていた。血、尿、膿のすごい臭いだった。
患者に対してできることはピンポン玉大の塩むすびを一日ひとつ食べさせるだけで、次々と患者が死ぬ。死ぬと壕の外の穴に死体をすてる。空いたベッドは前線から送られてくる重症の兵士で直ぐいっぱいになる。その繰り返し。
間もなく移動命令が出たが、それは歩けるものだけ。歩けないものは生きて虜囚の辱めを受けずの戦陣訓で、結局殺す。
私も手榴弾をもらい受けたが、将校から南に逃げて生き残れと親元に帰された。砲爆撃がふりそそぐ鉄の暴風の中を南に逃げ、毎日バラバラになった死体を見た。やわらかい地面の上を歩いていると思ったら、死体の上を歩いていた。
手榴弾で自決しようと思って保管していた救急箱を開けたら、父がこっそり捨てていた。その父も6月20日に日本兵に撃たれて即死した。
避難した墓の中に米兵から爆弾を投げられ、他の人が即死する中、奥にいた私と母は奇跡的に助かってキャンプに送られた。二畳の広さでの生活だったが、惨めだと思わなかった。弾の下を逃げ回らないで、青空の元を堂々と歩けたからだ。私たちが体験したような世の中をつくってはいけない」
続いて、沖縄代表団から報告が行われた。
高島伸欣さん(琉球大)は95年10月21日の沖縄県民集会の写真が見開き二頁に載っている教科書を示しながら「沖縄県民は主権在民を行動に移した。これは小学校六年の社会科の教科書。教科書には『なぜこのような集会を開いているか考えよう』とある。九五年の県民大会が既に教科書に載っているように、今回の県民大会も今後、小中高校の教科書に載せるように執筆者、教科書会社に求めたい。
今回の検定は文科省にとって、こんなことをするとしっぺ返しを受け、大やけどをするという教訓になるだろう」
地方議会での意見書採択のとりくみに、三鷹、国立、鎌倉、小金井から報告が行われた。
最後に発言した俵義文さんは「今日の午後私たちは院内集会を開いた。、藤岡信勝たちが急遽つくった『検定政治介入を許さない会』が私たちと同じ時間に院内集会を開いた。集まったのは藤岡の新しい歴史教科書をつくる会とつくる会から分かれた八木秀次たちの教科書改善の会、日本会議。
今回の沖縄戦についての検定意見原案を作った日本史担当調査官は村瀬信一は、扶桑社歴史教科書の執筆・監修者で教科書改善の会に移った伊藤隆の弟子。彼らは『日本は正しい戦争を行った』という歴史観の持ち主」
最後に高校生が書いた寄せ書きを手に沖縄代表団が登壇。「間違っていることが正せない今の政治システムを問わざるを得ない。文科省が全て正しいというのに対して、主権者が声を上げていこう」と力強く呼びかけた。