三里塚40年の“たすきわたし” 12月3日 三里塚闘争40年で集会 | 格差と戦争にNO!

三里塚40年の“たすきわたし” 12月3日 三里塚闘争40年で集会

三里塚40年の“たすきわたし”
空港建設に反対しこの大地に生きてきた!
12月3日 三里塚闘争40年で集会


 12月3日、「空港建設に反対し、この大地に生きてきた!三里塚40年の“たすきわたし”12.3集会」が東京・文京区民センターで行われた。


 政府の一方的な閣議決定から三里塚闘争が開始されてから40年。三里塚では、今も北伸工事という理不尽な空港拡張が進められている。日本社会で格差がますます拡大する中、国家の無法に抗した三里塚闘争は現代的な意味を持っている。

集会には、三里塚の農民、60年代からの支援者、初めて参加した若い人、韓国の活動家など200人が参加した。会場では、三里塚のパネル展示なども行われた。


 第一部として「抵抗の大地」(71年の記録)「どっこい闘魂ここにあり」(89年)「この大地に生きている 東峰地区の人々」(03年)という三里塚の映像三本と静岡空港反対の映像が上映された。


 第二部は、大野和興さん(農業ジャーナリスト)の司会で、7人のパネリストでシンポジウムが行われた。大野さんは、「40年を機に三里塚に関わってきた人の記憶を創り出し、次の世代に引き渡していく。この集会がその半歩になればいい」

 三里塚農民の柳川秀夫さん(反対同盟世話人)は「地球規模に経済がグローバル化している。地域では空港拡張賛成が多数。反対の考えに筋が通っていても『いつまでも反対しているやつらはおかしい』とさせられる。
 環境意識は拡大しているが、開発についての考えは変わらない。だから、新しいものさしを考えなければならない。もうひとつの社会のあり方を存在させないとダメ。『空港は大きくならなくていい』『空港はいらない』が皆に理解されないと空港はとまらない。そういう社会を作っていかないと、私たちは生き延びていくことはできない。
私が生きているうちに空港問題が解決することはないのかもしれない。だが、三里塚の空港問題に終わる問題ではない。たえず、開発問題が起きて反対運動が起きて、人々が無念の涙を流す。この社会のあり方を変えなければならない。もう一つの新しい社会が見えるものを創っていく」


 平野靖識さん(東峰地区・らっきょう工場)は69年から支援として関わってきた三里塚での運動と生産活動について話した。
 菅野芳秀さん(山形・百姓)は、学生時代に三里塚で逮捕されたこと。現在、社会的に高い評価を受けているレインボープラン=循環型地域社会つくりは、三里塚に触発されたことを報告。
 松尾康範さん(アジア農民交流センター、JVC)は、タイでの開発協力の経験から三里塚を発見した。空港から目と鼻の距離にある反対派の土地に今も建つ木の根ペンションで交流した外国の農民から『ここはピラミッド・万里の長城にも匹敵する場所だ』といわれた。


 中川憲一さん(元管制塔被告)は獄中ノートを持参。78年3・26管制塔占拠闘争の被告で、82年4月に権力による長期勾留による拘禁性ノイローゼのため「自死」させられた「原同志死亡」直後の日記を読み上げた。
 鎌田慧さん(ジャーナリスト)は「三里塚闘争の意義は国家権力と農民が対等だと認めさせたこと。三里塚闘争の功績は国家と資本の関係のグロテスクさを見せたこと。三里塚では人が住んでいるところに空港が攻めてきた」
会場からの発言で、北海道から駆けつけた哲学者の花崎皐平さんは田中正造の思想を紹介。
「三里塚を民衆の思想として受け止め継承するのが大事。思想になったものは滅びない。何度でもリニュアールされる」

 これらの発言を受けて活発な質疑応答が行われた。
中国の留学生が「小川プロの映画をきっかけに三里塚について学んだ。農村問題が起きている中国にとって三里塚の闘いから啓発されることは多い」
 大野さんが会場の20代の人に、たすきを受けるかどうか発言を求めた。発言した20代の人たちは「労働組合の先輩が三里塚の話をしているので興味があってきた。国家が強制でやってくることに対しては抵抗しなければならないと思った。共にたすきを引き受けたい」。「今度大学院に進むが、皆さんの話を受けて、三里塚や市民運動の話を自分の行動としてやっていければと思う。たすきを渡されたと感じている」と発言。


 「三里塚闘争の遅れてきた世代」として発言した相川陽一さんは「夏は合宿所の子ども共和国、現闘が監視員の木の根プールで泳ぎ、運動のコミュニティで育ててもらった。今の三里塚は有機農法に惹かれる若い世代の農業への入り口になっている」

 三里塚・東峰部落の石井紀子さんは、「東峰部落では一丸となって、北伸工事による新誘導路建設から東峰の森を守るために、仮処分申請・裁判の道を進めている。


 現在、飛行コースの真下に島村さん、小泉さん、らっきょう工場、少し離れてワンパック出荷場がある。出荷場は三十年以上拠点としてあり続けて、どういうかたちであれ、拠点の意味を果たし続けていきたい。
いま三里塚には農業をやりたい若い人がどんどん集まってくる。すばらしいことだが、この環境でいいのだろうか。滑走路北伸で2500m化され、ジャンボ機が降りてきたら、正常な営農活動ができるのか。
部落が空港会社と緊張している中で拠点の出荷場は守っていかないといけない。一人でも拠点としても出荷場を守りたい。どんな状況でも東峰で生き、営農していきたい」
最後に静岡空港の特別報告が行われた。


 三里塚闘争40年の意義と今後の課題を示した集会だった。
三里塚では、07年三里塚の旗開きが07年1月14日(日)正午、横堀農業研修センターで開かれる。