クリの花が咲いているので、栽培されているものを撮影しました。
三鷹市井口にて。虫媒花で強い香りを放ちますが、花粉は風媒でも10~20m飛散します。
小金井市梶野町にて。葉が幅広で枝が粗いので利平(ニホングリ×チュウゴクグリ)だと思います。
武蔵野市境にて。
クリの雌花(写真中央)。この個体も利平だと思います。クリは自家不和合性のため、異品種を混植しないと殆ど結実しません。
新梢の基部側に雄花穂が8~10本、先端側に帯雌花穂が1~2本つきます。雄花は1本の花穂に100~150個つき、雌花(写真中央)は帯雌花穂の基部に1~3個着生します。つまり、1本の結果枝に雄花が800~1500個つくのに対し、雌花は1~3個しかつきません。
私が育った東京都小金井市は、クリの栽培が多いです。小学校1年生の秋、学校帰りに栗畑で大きな栗の実が落ちているのを見ました。艶のある褐色の栗の実は、とても綺麗で私は目を奪われました。私が子供の頃(1990年代)は比較的規模が大きい栗畑が幾つかありましたが、この30年くらいの間に宅地化が進み、現在では栗畑の数・規模はかなり縮小してしまいました(前述の栗畑も現在は宅地になっています)。しかし、現在でも市内には栗畑が点在し、花の時期には独特の匂いを放っています。この記事を書くのを契機に、小金井のクリの歴史についても調べてみました。
【小金井のクリ】
江戸時代、江戸近郊には年貢米のほか、将軍家が消費する新鮮な野菜、果物、魚介類などの上納を指示された村があった。多摩地域では多摩川の鮎、府中の真桑瓜、そして、小金井のクリもその一つであった。
武蔵野新田の世話役・川崎平右衛門が延享4年(1747年)に、小金井村に幕府の御用栗林を造成した。収穫した栗実のうち精選した二千粒余は幕府に献上し、残った栗は食料の足しとして付近の武蔵野新田の村々に分配された。御栗林は、現在の東町4丁目の土地に10haにおよび、栗苗6915本が植えられた。
栗林の栽培と管理は、幕府から付近の十ケ所の新田(下小金井、関野、梶野、井口、野崎、大沢、境、関前、上保谷、田無)に任され、嘉永5年(1852年)に大規模な補修が行われ明治維新まで続いた。御栗林は十ケ新田栗林と呼ばれ、昭和34年(1959年)の町名変更まで残った。今でも東町辺りには、栗山通り、栗山公園、くりのみ保育園、くりのみ街などがあり、当時の名残を留めている。また、栗の栽培技術は周辺にも広がり、小金井地域は栗の特産地となり、関野栗(五郎兵衛栗)、貫井栗などと呼ばれた。
東小金井駅入口交差点にある御栗林跡の説明板。現在は栗畑はなく、住宅街になっている。
大正時代の小金井には100haを越す栗畑が広がっていた。昭和の初期には養蚕の後退により、桑畑が栗畑に転換され、増加の傾向をたどった。戦時中は雑木林扱いであったことからさほど減少しなかったものの、戦後にクリタマバチの被害を受け壊滅状態になった。その後、クリタマバチに強い利平が導入され、昭和35年(1960年)には栽培面積36ha・栽培戸数70戸となった。クリは労力を軽減できること等から現在に至っている。
〈参考資料〉
①
②
③小金井農業のあゆみ~都市化が進む中での小金井農業の転換①~
④令和4年版 こがねいのとうけい 令和4年12月発行
JA東京むさし(武蔵野市・三鷹市・小金井市・小平市・国分寺市)で販売されている小金井周辺で採れた栗の品種を見ると、利平や筑波が多い印象です。利平は幻の栗と称される高級栗ですが、小金井周辺では栽培が多いのは特徴的です。秋に実の写真をまた撮影しようと思います。