【1. 気候と植生の変遷】
地球は約250万年前から氷河時代に入っている。氷河時代になってから、極地や高山が氷河に覆われて寒冷な気候が続く氷期と、氷河が縮小して温暖な気候が続く間氷期が繰り返されてきた。最終氷期は今から約2万年前に終わり、現在は間氷期にあたる。
最終氷期の日本列島は亜寒帯針葉樹林が全国的に拡がっていた。今から約1万5000年前~1万3000年前に氷期が終わって温暖化が始まり、日本列島には広葉樹の森が広がった。最も温暖であった縄文時代前期には、西南日本は照葉樹林に、東北日本は冷温帯落葉広葉樹林になった。これらの森林は、二次林化を除いては縄文時代の終わりまで殆ど変わらずに継続したと考えられる。
しかし、縄文社会の拡大で人口が増えて集落が拡大すると、自然林は燃料材・器具材・建築材・土木用材などのため伐採され、クリ・コナラなどの二次林へと変えられた。この二次林は縄文時代において継続的に人為が加わることによって維持され、現在の雑木林(里山)の原形となったことが考えられる。
写真1:東京都東村山市・下宅部遺跡。縄文時代にはコナラ・クヌギ・クリ・ミズナラ・ナラガシワ・トチノキなどが繁茂していたが、ミズナラ・ナラガシワ・トチノキは現在では見られない。水場では堅果類のアク抜きが行なわれていたと考えられる。
【2. 縄文時代とどんぐり】
縄文時代とは、今から約1万5000年前から約2400年前までの時代である。縄文人は主に狩猟・採集・漁撈によって食糧を手に入れ、土器を用い、竪穴住居に暮らしていた。
世界の土器の起源は約9000年前の西アジアで、小麦の栽培を中心とする農業が始まったときに誕生した。日本最古の土器は、青森県外ヶ浜町大平山元Ⅰ遺跡で見つかった今から約1万5000年前のものである。縄文土器は食糧を煮炊きするために発明され、日本列島にどんぐりの森が広がり、森の幸が増えるにしたがって、縄文土器づくりが盛んになった。旧石器人はナウマンゾウやオオツノジカなどの獲物を求めて移動生活をしていたが、縄文人は森を開いて定住生活をするようになる。
どんぐり・クリ・オニグルミ・トチノキなどの堅果類は、秋に大量に収穫して貯蔵することができるため、縄文人の貴重な食糧だった。利用される堅果類の種類は時期や地域によって変化するが、中でもクリやどんぐり類が主食だったようである。東日本ではクリやナラ類(ミズナラ・コナラ・ナラガシワ・クヌギ)、西日本ではイチイガシが主に利用されていた。東日本では縄文時代後期になるとトチノキが増えてくる。どんぐりの多くはタンニンなどの物質を含むためアクが強く、生では食べられない。しかし、どんぐりを粉にして何度も水にさらすとアクはよく抜ける。アク抜きは、イチイガシを除くカシ類は水にさらすだけで良いが、ナラ類は加熱を要する。粉にしたどんぐりは団子などにして、土器で煮炊きして食べていたと考えられる。また、どんぐりを採集する際には、植物繊維を編んで作ったカゴや袋が用いられていた。カゴに入ったままのどんぐりが低湿地遺跡から見つかっており、カゴに入れて地下水が湧くような場所で貯蔵やアク抜きをしたと考えられる。オニグルミやトチノキの堅果は石皿や敲石(たたきいし)、磨石(すりいし)などの石器で殻を破砕し、粉末にして調理していた。
写真2:オニグルミの果実
写真3:トチノキの果実
【3. 縄文時代のクリの利用】
クリの実は縄文人の重要な食糧であったが、縄文人は大きな実をつけるクリを選抜して、間隔をあけながらクリ林を育てたと考えられている。クリの果実の大きさは早期や前期では小さな個体が多く、晩期に向けて次第に大きくなる。約5000年前(中期の中頃)になると、現在の栽培種の大きさに近くなる。また、クリの材は建築材や薪にも利用された。
クリは野生状態で林をつくることがないが、縄文ムラの遺跡付近の土の中からクリの花粉が大量に見つかることがある。青森県の三内丸山遺跡から見つかる木材や炭化材からは、クリの材が建物・道具・薪など、様々な用途で使われていたことがわかっている。また、採集された当時のクリの花粉を調べると、遺伝子が殆ど同じで揃っていたことがわかった。このことから、縄文人が野生のクリの中から優れた性質のものを選んで栽培していたことが推測できる。
【4. 水田稲作農耕と里山(弥生時代へ)】
水田稲作農耕は今から約6500年前、中国の長江中流域で始まった。その後、朝鮮半島に伝わり、日本では約2400年前に朝鮮半島から北九州に伝わった。縄文後期の西日本では畑でイネ(陸稲)が栽培されており、水田稲作農耕が九州に伝わってから東北地方まで広まるのにそれほど時間はかからなかった。稲作を中心とした農業が発展していったことで、農村周辺の台地や丘陵地は農業に利用され、林・草原・水路・耕作地からなる里山が生まれた。稲作が本格的に始まると、どんぐり食は衰退していった。稲作・畑作が広まると、弥生時代(約2300~1700年前)が始まる。
写真4:東京都・野山北・六道山公園の里山
【5. ナラガシワ・イチイガシの天然林は何故少ないのか?】
ナラガシワは関東、イチイガシは西南日本の縄文時代の遺跡からはよく出土するが、今日では天然林が全国的に少なくなっている。何故、この2種は減少したのだろうか?
ナラガシワは西日本の低山には比較的多いが、中部~東北地方での生育地は河川や沖積低地、山麓の沢沿いに限られる傾向がある。イチイガシは九州では山地帯下部まで出現するが、四国・本州の生育地は沖積低地・扇状地や山麓の谷沿いに限られている。ナラガシワ・イチイガシは、生育標高がナラ類・カシ類の中で最も低く、暖地性である。陽樹のナラガシワは氾濫原や林縁など攪乱頻度の多い明るい立地、陰樹のイチイガシは安定した立地に生育するようである。低地~山麓部は古くから人間の生活圏だった上に、沖積低地や谷底は水田耕作、扇状地は果樹栽培に適した場所である。縄文時代から弥生時代になり、人類の主食が堅果類から米になると、ナラガシワ・イチイガシの林は水田や農地に転換され、姿を消していったのかもしれない。また、治水工事によって流れが安定し、河川沿いの土地利用が可能になったことも、ナラガシワ・イチイガシの減少に拍車をかけたと思われる。
ナラガシワは水田・農地開発、河川改修の他に、人工林化、竹林化、里山の管理停止による被陰なども減少要因として挙げられるだろう。これらの要因に加えて、近年猛威をふるうナラ枯れがとどめを刺し、消滅した自生地もある。イチイガシは、弥生~古墳時代には材が鋤鍬に利用されたことや、萌芽力が弱く伐採などの撹乱が起こる場所では生き残れない可能性があることも、減少要因になっているかもしれない。両種は主に伐採を免れた鎮守の森で、かつての天然林の断片を見ることができる。
写真5:ナラガシワ・ケヤキが優占する河川沿いの氾濫原(東京都八王子市・北浅川)。ナラガシワは現代の関東平野では稀な存在だが、埼玉県北本市・デーノタメ遺跡(縄文時代中期)、東京都北区・袋低地遺跡(縄文時代後期)、練馬区・弁天池低湿地遺跡(縄文時代後期)、東村山市・下宅部遺跡(縄文時代中期~晩期)、多摩市・多摩ニュータウンNo.794遺跡(縄文時代中期)、千葉県市川市・雷下遺跡(縄文時代早期)など、縄文時代の遺跡からはよく出土しており、当時の関東平野には普通に生育していたことが明らかになっている(⑦⑧)。当地は土地利用や河川改修を免れ、氾濫原の自然植生を知る上で大変貴重な場所である。
写真6:ナラガシワが残る社叢(長野県茅野市北山・子之社)。渋川沿いの扇状地に鎮座する神社である。自生と思われる樹種は、ケヤキ・ハルニレ・ナラガシワ・クリ・アサダ?・コブシ・オオモミジ・キハダ・ミズキ・カツラ・トチノキなどが見られる。ナラガシワは3本だけであるが、ケヤキに次ぐ第二優占種になっている。冷温帯の樹種も多いため、中間温帯に位置すると考えられる。当地は鎮守の森として守られたため、ナラガシワが残ったと考えられる。やや冷涼な中部~東北では落葉樹のナラガシワ・ケヤキ・ハルニレ・エノキ(エゾエノキ)、温暖な東海以西では常緑樹のイチイガシ・ルリミノキ・カンザブロウノキ・ヤマモガシなどが沖積低地・扇状地の自然植生であったと思われる。
【6. 近代~現代のどんぐり食】
どんぐりは戦時中の非常食としても利用された。また、現代でもどんぐりを使った郷土料理が残っている地域がある。以下はその一例である。
・岩手県野田村:しだみ団子
・鳥取県米子市:どんぐりうどん、どんぐり焼酎、どんぐりソフトクリーム
・高知県安芸市:かしきり(かし豆腐)
・熊本県天草市、宮崎県:かしの実こんにゃく
<参考文献>
①鈴木三男・能城修一 縄文時代の森林植生の復元と木材資源の利用 第四紀研究 1997年
②星野義延・飯村茂樹・岡崎務 どんぐりころころ大図鑑 PHP研究所 2012年
③小薬一夫・岡崎務 縄文人のくらし大研究 衣食住と心をさぐろう! PHP研究所 2014年
④工藤雄一郎・国立歴史民俗博物館 ここまでわかった! 縄文人の植物利用 新泉社 2013年
⑤鈴木三男 びっくり!!縄文植物誌 同成社 2020年
⑥野嵜玲児 ナラガシワ群落について-沖積低地の自然林植生の一型として- 奥田重俊先生退官記念論文集 2001年
⑦佐々木由香・工藤雄一郎・百原新 東京都下宅部遺跡の大型植物遺体からみた縄文時代後半期の植物資源利用 植生史研究第15巻第1号p.35-50 2007年
⑧ミュージアムパーク茨城県自然博物館 第93回企画展 どんぐり -魅力にはまってさぁたいへん♪-





