思いつくまま、運命学に関するあれこれ
王昭君和番(王昭君、和番す)昭君姓王。名嬙。字告月。歸州人。漢元帝宮女。得罪畫工。為點崩夫痣。致不見幸。昭君以才貌雙全。自傷不見知會。匈奴求婚。乃自上書請行。臨去步入掖庭。顧影徘徊。君臣相顧失色。然不能失信於單於。故遣其和番。而斬畫工毛延壽等二百餘人。 (昭君は姓を王、名を嬙(しょう)、字を告月という。帰州の人で漢の元帝の宮女。画工(毛延寿)の不興を買い、顔に「崩夫痣(夫を亡くすほくろ)」を書き加えられたため、帝の寵愛を受けられなかった。昭君は才貌兼備であったが、認められないことを自ら嘆いていた。匈奴が求婚してきた際、自ら上書して赴くことを願い出た。出発に際し宮中(掖庭)に現れると、その美しさに君臣は互いに顔を見合わせて驚き呆れた。しかし単于との約束を破るわけにもいかず、彼女を和親のために送った。後に画工の毛延寿ら二百余人を斬首した。)王昭君和番(王昭君、和番す:劇の筋書き)漢君欲立正宮。訪得江南王知府有女十八曰昭君。毛延壽索賂曰。薦為正宮者金銀百萬兩。其父家貧只送百金。毛怒。即起身帶其女不辭而別。堂上破女面。回奏曰。小臣頗識相面。王女雖美。但左有一痣。必主凶亡。昭君遂入冷宮。後八月中秋帝遊。忽聞嘆聲。召出昭君曰。毛延壽索賂不遂。命官引至半路欲姦奴身。因不從被其點破面皮。帝即擇日立昭君為正宮。毛延壽逃至番王處。把昭君玉照獻番王。番王興兵伐漢取昭君。毛領兵而來。漢敗。番王曰交出昭君退兵。否則寸草不留。昭君自抱琵琶上馬出宮。兵退至界口。昭君投水自殺。番王又投水自殺。王弟剝毛延壽皮。即登帝位。昭君傳夢漢王。可立我妹為正宮。封其父為左丞相。 (漢の帝が正室を立てようとし、江南の王知府に十八歳の昭君という娘がいると知った。毛延寿は賄賂を求め、「正室に推薦するなら金銀百万両出せ」と言ったが、父は貧しく百金しか送れなかった。毛は怒り、娘の顔に傷をつけ、帝には「彼女は美しいが左にほくろがあり、凶兆です」と偽った。昭君は冷宮に追われた。後の中秋の名月の夜、帝がため息を聞いて昭君を召し出し、毛延寿の悪事を知って彼女を正室に立てた。毛延寿は匈奴(番王)へ逃げ、昭君の肖像画を捧げた。番王は昭君を奪うために挙兵し、漢は敗れた。番王が「昭君を引き渡せば兵を引く」と迫り、昭君は琵琶を抱いて馬に乗り宮中を出た。国境の川に至ると昭君は身を投げて自殺し、番王も後を追って死んだ。番王の弟が毛延寿の皮を剥いで処刑し、即位した。昭君は漢王の夢に現れ、「私の妹を正室にし、父を左丞相に封じてください」と告げた。)漢光武陷昆陽(漢の光武帝、昆陽に陥る)漢。光武帝。劉秀尚王末。兵至昆陽。莽命王邑士尋將兵百餘。萬井驅虎豹犀象。以助軍威。光武兵僅數萬。自將步騎千餘。為前鋒。破其前軍。諸將繼進。莽兵大潰。會大風雨。虎豹股慄被殺。尋邑遁去。盡獲其軍實輜重。東漢之興。賴此戰也。 (漢の光武帝・劉秀は王莽の末期、兵を昆陽に進めた。王莽は王邑(おうゆう)と王尋(おうじん)に百万の兵と、軍威を助けるための虎、豹、犀、象を率いさせた。光武帝の兵はわずか数万であったが、自ら千余の歩兵と騎兵を率いて先鋒となり、敵の前軍を破った。諸将がこれに続いて進撃すると、王莽の軍は大敗した。折しも大風雨となり、虎や豹も震え上がって殺された。王尋らは逃げ去り、光武帝は軍需品や荷物をすべて手に入れた。後漢の復興はこの一戦にかかっていた。)張子房遁跡(張子房、跡を隠す)漢。張良。字子房。韓人。其先五世相韓。秦滅韓。良散家財遁跡。欲為韓報仇。乃使力士懷鐵錐。擊始皇於博浪沙上。誤中副車。始皇大索天下。十月不獲。後佐漢定天下。功成謝絕人事。託名與赤松子遊。 (漢の張良、字は子房。韓国の人。先祖は五代にわたって韓国の宰相を務めた。秦が韓を滅ぼすと、張良は家財を投げ打って姿を消し、韓のために報復を誓った。力士に鉄の錐(つち)を持たせ、博浪沙で始皇帝を襲わせたが、誤って副車を打ってしまった。始皇帝は天下を大捜索したが、十ヶ月経っても捕らえられなかった。後に漢を助けて天下を平定し、功を成すと一切の関わりを絶ち、赤松子(仙人)と旅をすると言って隠棲した。)劉文龍求官(劉文龍、官を求める)野史。劉文龍。漢時人。學問極淵博。因求官而全王昭君出塞和番。與妻分別十八年。回時家中老幼俱不相識。 (野史によれば、劉文龍は漢代の人。学問は極めて博識であった。官位を求めた縁で王昭君の出塞(和番)に同行した。妻と別れて十八年。帰宅した時には、家中の老いも若きも互いに誰だか分からなかった。)玄德公黃鶴樓赴宴(玄徳公、黄鶴楼の宴に赴く)漢。劉備。字玄德。獻帝時。群雄割據。曹操挾天子令諸侯。玄德未得四川。借與荊州。托足周瑜。計請赴宴。設伏挾討。幸孔明授趙雲密計。計得免於難。此係俗傳。攷史。赤壁合兵拒操時。瑜計請玄德。設伏欲害。因見關公在場。不敢動手。 (漢の劉備、字は玄徳。献帝の時代、群雄が割拠し曹操が天子を擁して諸侯に号令していた。玄徳はまだ四川を得ておらず、荊州を借りていた。周瑜が計略を立てて彼を宴に招き、伏兵を置いて討とうとした。幸いにも孔明が趙雲に密計を授けていたため、難を逃れることができた。これは俗説である。史実を考察すると、赤壁で共に曹操を防いだ際、周瑜が玄徳を招いて殺そうとしたが、関羽が側に控えていたのを見て、手を出すことができなかったとされる。)王莽篡漢(王莽、漢を奪う)王莽字巨君。漢。孝元皇后之姪也。以國戚一門貴顯。莽繼叔父遺烈當成哀平帝。享國不永。統嗣三絕。位居宰相。封新息侯。假行仁義。自此伊周弒平帝。立孺子嬰。竊周公之法。攝位改元。竟移漢祚。國號曰新。後被漢兵所殺。傳首師百姓。爭食其肉。 (王莽、字は巨君。漢の孝元皇后の甥である。皇室の親戚として一門で栄えた。叔父の跡を継ぎ、成帝・哀帝・平帝の時代に仕えたが、帝の寿命は短く後継ぎが絶えた。彼は宰相の位にあり、新息侯に封じられた。仁義を装い、伊尹や周公を自称しながら平帝を毒殺し、孺子嬰(じゅしえい)を立てた。周公の制度を盗用して帝位を代行(摂政)し、ついに元号を改めて漢の皇統を奪い、国号を「新」とした。後に漢の軍に殺され、その首は晒され、民衆はその肉を争って食べた。)匡衡夜讀書(匡衡、夜に書を読む)漢。匡衡。字稚圭。東海承人。好學不倦。讀書夜以繼日。累官太子少傅。朝廷有政議。輒引經以對。言多法義。數上書陳使宜。後拜相。封樂鄉侯。當微時。夜讀無擎可焚。私鑿鄰家之壁。偷光映讀。其勤苦有如此者。 (漢の匡衡、字は稚圭。東海承の人。学を好み怠らず、夜を日に継いで読書した。官位は太子少傅に至り、朝廷の議論では常に経典を引用して答えた。その言葉には法と義が多く、何度も献策した。後に宰相となり、楽郷侯に封じられた。貧しかった頃、夜に灯す油がなかったため、密かに隣家の壁に穴を開け、漏れてくる光で読書をした。その苦学ぶりはこのようであった。)劉玄德入贅孫權妹(劉玄徳、孫権の妹の婿となる)劉玄德。即西蜀先主也。為荊州牧時。甘夫人(劉備妻)新喪。東吳孫權聞知。詐以妹招贅軟禁其人。吳素討荊州。孔明料知。乃授趙雲錦囊計。保先主入吳。(東江招親)意弄假成真。娶孫夫人以歸焉。有曰 :周郎妙計高天下。賠了夫人又折兵。 (劉玄徳は西蜀の先主である。荊州牧であった時、甘夫人が亡くなった。東呉の孫権はこれを知り、妹を嫁がせると偽って彼を招き、軟禁しようとした。呉は以前から荊州を返還させようとしていたのである。孔明はこれを見抜き、趙雲に「錦嚢(きんのう)の計」を授けて先主を護衛して呉に入らせた(東江の縁談)。結果として嘘が真となり、孫夫人を娶って帰還した。「周瑜の妙計は天下に名高いが、奥方を差し出した上、兵まで失った(賠了夫人又折兵)」という言葉がある。)買臣五十富貴(買臣、五十にして富貴なり)漢。朱買臣。會稽人。家貧。賣薪自給。行歌誦書。妻羞之。求去。買臣曰。吾年五十當富貴。即時自可報汝。妻不聽。適田夫後。買臣果五十為會稽太守。妻與田夫治道迎官。買臣駐車呼之。以車載其夫婦。舍園中給食一月。妻慚自縊。與夫錢以葬之。 (漢の朱買臣(しゅばいしん)。会稽の人。家は貧しく、薪を売って自活していた。道を歩きながら本を音読していたため、妻はそれを恥じて離縁を求めた。買臣は「私は五十歳で富貴になる。その時に君に報いよう」と言ったが、妻は聞き入れず農夫に嫁いだ。果たして買臣は五十歳で会稽太守となった。妻と農夫が道を整えて新任の官を迎えた際、買臣は車を止めて彼女を呼び、夫婦を車に乗せて庭の舎に住まわせ一ヶ月間食事を与えた。妻は恥じて首を吊り、買臣は夫に金を渡して彼女を葬らせた。)朱買臣分妻/馬前覆水/覆水難收(朱買臣、妻と別れる/馬前の水/覆水盆に返らず)漢朝。名臣姓朱。名買臣。表字翁子。會稽郡人氏。家貧未遇。夫妻二口住於陋巷蓬門。砍柴賣錢度日。賣柴憑人估值。不爭價錢。其妻出門汲水。見群兒嬉笑買臣。深以為恥。其妻後去。五十歲時。漢武帝求賢。拜為會稽太守。其妻自悔有眼無珠。願降為婢妾。伏事終身。買臣命取水一桶。潑於階下曰。若水可收。則可復合。念結髮之情。判後園隙地與妻及其夫耕種自食.其妻遂投河而死。 (漢の名臣、朱買臣。字は翁子。会稽郡の人。家は貧しく、貧乏長屋で薪を売って暮らしていた。薪の値段を争うこともなかった。妻が水を汲みに出た時、子供たちが買臣をからかっているのを見て深く恥じた。妻は去ったが、買臣が五十歳の時、武帝に召し出され会稽太守となった。妻は自分の見る目のなさを悔い、奴隷となってでも仕えたいと願った。買臣は桶一杯の水を階段の下に撒かせ、「この水が元に戻るなら復縁しよう」と言った。かつての情けにより、後園の空き地を貸して彼女らに耕作させたが、妻はついに川に身を投げて死んだ。)山濤見王衍(山濤、王衍に会う)晉。山濤。字巨源。河內懷人。器量不群。小與阮藉為竹林友。武帝朝為吏部尚書。薦拔人物。王衍少時。山濤見之曰。何物老嫗生此寧馨兒。然悟天下蒼生。首必此子也。衍字夷甫。晉陽人。神姿高徹。如瑤林瓊樹。官至司徒。後為石勒所害。 (晋の山濤(さんとう)、字は巨源。河内懐の人。器量は群を抜いていた。若くして阮籍(げんせき)らと「竹林の七賢」の友となった。武帝の時代に吏部尚書となり、人材を推薦した。王衍(おうえん)が幼い頃、山濤は彼を見て「どこの老婆がこんな素晴らしい子を産んだのか。しかし天下の民を誤らせるのは、きっとこの子だろう」と言った。衍は字を夷甫という。神々しく清らかで、司徒にまで昇ったが、後に石勒(せきろく)に殺害された。)王祥臥冰(王祥、氷に臥す)晉。王祥字伏徵。臨沂人。性至孝。事繼母極恭。謹母欲食生魚。天寒冰凍。祥赤身臥於冰上。求之。其冰立解。得雙鯉。持歸。人以為孝感雲。後官至太保。進公爵。(廿四孝) (晋の王祥(おうしょう)、字は伏徴。臨沂の人。性格は至って孝行で、継母に極めて恭しく仕えた。冬の寒さで氷が張っている時、母が生魚を食べたいと言った。王祥は服を脱いで氷の上に横たわり、熱で氷を溶かそうとした。すると氷が解け、二匹の鯉が飛び出してきた。それを持ち帰ると、人々は孝行が天に通じたのだと言った。後に太保に至り、公爵となった(二十四孝の一つ)。石崇被難(石崇、難に遭う)晉。石崇字季倫。為城陰太守。伐吳有功。封安陽鄉侯。財業豊積。室宇宏麗。庖膳窮水陸之珍。與王愷以奢靡相尚。後為交趾採訪。此有美女。名綠珠。以珍珠十斛買之。藏於金穀。被趙王倫窺見。乃以計害崇。冀得綠珠。及崇被難。綠珠墜樓而死。 (晋の石崇(せきすう)、字は季倫。呉を伐った功績で安陽郷侯に封じられた。財を成し、邸宅は豪華を極め、王愷(おうがい)と贅沢を競った。交趾へ赴いた際、緑珠(りょくしゅ)という美女を真珠十斛(じっこく)で買い、金谷園に住まわせた。趙王・倫が緑珠を奪おうと計略を練り、石崇を陥れた。石崇が捕らえられる際、緑珠は楼閣から身を投げて死んだ。)孤兒報冤(孤児、冤罪を報ず)孤兒即。晉。趙武也。史稱父朔。為屠岸賈所殺。朔妻。成公姊。遺腹生武賈。索之急。賴程嬰杵臼救之。臼以假孤兒出首。自殺。嬰乃抱趙氏真孤。匿山中十五年後。韓厥言於晉景公。立趙氏後即孤兒也。遂攻屠岸賈。滅之。以報一門之冤。 (孤児とは、晋の趙武(ちょうぶ)のことである。史実によれば父の趙朔(ちょうさく)は屠岸賈(とがんこ)に殺された。朔の妻は身ごもっており、趙武を産んだ。屠岸賈の追及は厳しかったが、程嬰(ていえい)と公孫杵臼(こうそんしょきゅう)が彼を救った。杵臼は偽の赤子と共に身代わりとなって死に、程嬰は本物の趙氏の孤児を抱いて山中に十五年隠れ住んだ。後に韓厥(かんけつ)が晋の景公に告げ、孤児が趙氏を継いだ。ついに屠岸賈を攻め滅ぼし、一族の恨みを晴らした。)
蘇武還鄉(蘇武、故郷に還る)漢。蘇武。字子鄉。杜陵人。天漢初。中郎將奉命使匈奴。被留手時漢節。牧羊海上十九年。初單于留武。詐以死報漢。漠後漢使至匈奴。偵知武所在。乃請明寺放歸。詐以應為傳書至。漢知正在海上牧羊。為請單於。驚為神。乃放歸。 (漢の蘇武、字は子卿(原文は子郷)。杜陵の人。天漢年間の初め、中郎将として命令を受け匈奴へ使者に立ったが、捕らえられた。彼は漢の節(使者の証)を離さず、北海のほとりで十九年間も羊を飼わされた。当初、単于は蘇武を留め置き、漢には「死んだ」と偽りの報告をした。後に漢の使者が匈奴へ来た際、蘇武が生きていることを突き止めた。使者は「天子が雁の足に結びつけられた手紙を受け取り、蘇武が北海で羊を飼っていることを知った」と偽って単于に迫った。単于は驚いて神業だと思い、蘇武を放して帰国させた。)蘇武牧羊(蘇武、羊を牧す)漢。蘇武。字子卿。杜陵人。天漢初。以中郎將使匈奴。被留。吃雪咽氈。杖節牧羊。居海上十九年。得還。拜典屬國。宣帝立賜爵關內侯。圖形麒麟閣。 (漢の蘇武、字は子卿。杜陵の人。天漢年間の初め、中郎将として匈奴へ使いしたが、捕らえられた。雪を食べて飢えをしのぎ、毛織物を噛んで渇きを癒しながら、節を杖にして羊を飼った。北海のほとりに住むこと十九年、ついに帰還を遂げた。典属国に任命され、宣帝が即位すると関内侯の爵位を賜り、麒麟閣にその肖像が描かれた。)蕭何註律(蕭何、法律を注釈す)漢。蕭何。沛郡。豊人。微時。嘗為刀筆史。後佐漢高帝定天下。為宰相。以功封酇侯。漢既一統。以三章之約。非可長治天下。乃命蕭何註律。使民知所守法焉。 (漢の蕭何(しょうか)。沛郡豊の人。身分が低かった頃、下級役人(刀筆の吏)をしていた。後に漢の高帝を助けて天下を平定し、宰相となり、功績によって酇侯(さんこう)に封じられた。漢が統一されると、それまでの「法三章」だけでは長く天下を治めるには不十分であるとし、蕭何に命じて法律(九章律)を制定させ、民が守るべき法を知るようにした。)呂後害韓信(呂後、韓信を害す)漢之得天下。信功居多。初封齊王。後改封楚王。高祖後疑其反。乃偽遊雲夢。執歸京師。降封淮陰侯。信以失職。怨望羞與縫灌等為伍。會帝親征陳豨。家僅上變。呂後乃與蕭何定計。誘信入朝。竟斬信於未央宮。夷其三族。 (漢が天下を得るにあたって、韓信の功績が最も多かった。最初は斉王に封じられ、後に楚王に移された。後に高祖がその謀反を疑い、雲夢への遊覧を偽って彼を捕らえ、都へ連れ帰り淮陰侯に降格させた。韓信は職を失ったことを恨み、周勃や灌嬰らと同列に扱われることを恥じた。帝が陳豨(ちんき)の反乱を鎮圧しに親征した際、家臣が謀反を密告した。呂後は蕭何と計略を練り、韓信を宮中へ誘い出し、ついに未央宮で斬り殺して、その三族を滅ぼした。)袁安守困(袁安、困窮を守る)漢。袁安。字邵公。汝南人。少時貧困。志行清高。嘗高臥雪上。後室孝廉。除陰平長。任城會所在。使人畏而愛之。至為三分時。漢舉中微。外戚強盛。朝廷之上。皆倚賴安一人焉。 (漢の袁安、字は邵公。汝南の人。若い頃は貧しかったが、志と行いは清らかで高潔であった。大雪の日、他の者が食べ物を求めて歩き回る中、彼は家で静かに寝ていた(雪中に臥す)。後に孝廉に挙げられ、陰平の長や任城の令を歴任し、人々に畏れられつつ愛された。後漢が衰退し、外戚の勢力が強まった際、朝廷にあっては皆が袁安一人を頼りとした。)嚴子陵登釣臺(厳子陵、釣台に登る)漢。嚴光字子陵。餘姚人。少有高名。與大武同遊學。及光武即位。遂變姓名。隱身不仕。帝令物母訪之。後齊國書雲。有一男子。裘釣墨(墨左本有水)中。帝疑為光。遭使聘之。三反乃至。除諫議大夫不屈。耕富春山。帝遂其志。為建釣臺。東漢高士稱第一焉。 (漢の厳光(げんこう)、字は子陵。余姚の人。若い頃から名声が高く、光武帝(劉秀)と共に学んだ。光武帝が即位すると、姓名を変えて姿を隠し、仕官しなかった。帝は似顔絵を配して彼を捜させた。後に斉国からの報告で「一人の男が羊の皮衣を着て、沢の中で釣りをしている」とあり、帝は厳光だと疑って使者を送った。三度断られたが、ついに召し出された。諫議大夫に任命されたが屈せず、富春山で田を耕した。帝はその志を尊重し、彼のために釣台を建てた。後漢の高潔な人物(高士)として第一に数えられる。)董永賣身(董永、身を売る)漢。董永。千乘人。少失母。獨養父。流寓孝感。父亡無以葬。乃從人貸錢一萬。日後無錢還。當以身作奴。葬畢。其主要董永日取柴一擔。汲水四擔。鋤田六七畝。辛苦難當。一日上山砍柴倦睡。皇天見其孝行。即差仙女下凡為婚。董永醒來見女恐是妖精。女攔曰吾無父母又無依。欲結為夫婦。董永見其淒涼。帶女回歸。主人責董永拐帶婦人禍及其主。後暫留該女。遍訪四方家庭並無失婦人。才允成親。董婦百日織得錦五十丈。剪一半往市賣出得銀。贖脫董永身。後將錦進。敕封進寶狀元。仙姬曰。天賜兒子三歲送還。(仙女回天)。後其子十六歲中状元。衣錦還郷。 (漢の董永。千乗の人。幼くして母を失い、一人で父を養い孝感に移り住んだ。父が亡くなったが葬儀を出す金がなく、人から一万銭を借り、返せない場合は身を売って奴隷となる約束をした。葬儀の後、主人は董永に毎日、薪一担、水四担、田六、七畝の耕作を命じ、その苦労は耐え難いものだった。ある日、山で薪を拾い疲れて眠っていると、天帝が彼の孝行を見て仙女を遣わし結婚させた。董永が目覚めると女がいたため妖怪かと思ったが、女は「身寄りがないので夫婦になりたい」と言った。董永は彼女を連れ帰った。主人は最初、女を拐かしたのではないかと疑ったが、身元を調べた上で結婚を許した。女は百日の間に錦五十丈を織り、半分を売った金で董永の身を買い戻した。後に錦を献上し、進宝状元に封じられた。仙女は「天から授かった息子が三歳になったら返します」と言い残して天へ帰った。後にその子は十六歳で状元となり、故郷に錦を飾った。)蕭何追韓信(蕭何、韓信を追う)漢。蕭何。沛人。韓信。淮陰人。時漢王燒絕棧道。部下將士逃亡甚多。其時。信歸漢逃去。何知之。連夜追信回。翌日王知。怒曰將士逃亡過半。不聞丞相有所追。獨追信。何也。何曰大王如無意東伐。固罷。若與楚爭天下。非信莫當其任。乃拜信為大將。 (漢の蕭何は沛の人、韓信は淮陰の人。当時、漢王(劉邦)が桟道を焼き払って(漢中に留まる姿勢を見せて)いたため、部下の将兵の多くが逃亡した。韓信もまた漢を見限って逃げ出した。蕭何はこれを知ると、夜通し馬を飛ばして韓信を連れ戻した。翌日、漢王はそれを知って怒り、「将兵の半分以上が逃げたが、丞相(蕭何)が追ったとは聞かない。なぜ韓信一人を追ったのだ」と問うた。蕭何は言った。「大王が東へ打って出るおつもりがないなら構いませんが、楚と天下を争うおつもりなら、韓信でなければその任は務まりません。」そこで漢王は韓信を大将軍に任命した。)蒯輒見韓信(蒯輒、韓信にまみゆ)漢。蒯輒。字通。範陽人。時韓信假節為齊王。輒知天下權在韓信。往說之曰。今大王威震天下。與楚則楚勝。與漢則漢勝。大王若不楚不漢。鼎足三分。可長保富貴。信謝之曰。吾受漢王厚恩。終身不忍背漢。後信被呂後所殺。臨刑有悔不聽蒯通之言。 (漢の蒯輒(かいちょう)、字は通。范陽の人。当時、韓信は「仮節(代理の権限)」をもって斉王となっていた。蒯通は天下の権が韓信にあると知り、彼を説得して言った。「今、大王(韓信)の威光は天下を震わせております。楚に味方すれば楚が勝ち、漢に味方すれば漢が勝ちます。もし大王が楚にも漢にもつかず、天下を三つに分けて鼎(かなえ)の足のように立てば、長く富貴を保つことができましょう。」韓信は断って言った。「私は漢王(劉邦)から厚い恩を受けており、終身、漢に背くことは忍びない。」後に韓信が呂后に殺される際、刑に臨んで蒯通の言葉を聞かなかったことを悔いた。)韓信戰霸王(韓信、覇王と戦う)韓信率諸侯兵。與楚王大戰於九裏山。十面埋伏。圍籍垓下。籍走至烏江。有高長犧舟以待曰。今獨臣有船。王急渡江東。亦足王也。籍笑曰。江東子弟仝籍。渡江西誅秦無道。今無一人還。縱江東父兄。憐而王我。我獨不愧於心乎。竟自刎而死。 (韓信は諸侯の兵を率い、九里山にて楚王(項羽)と激戦を繰り広げた。「十面埋伏(十方からの伏兵)」の計をなし、項籍(項羽)を垓下に包囲した。項籍は逃れて烏江(うこう)に至った。亭長の檥舟(ぎしゅう)が舟を待たせて言った。「今、私だけが舟を持っております。王よ、急いで江東へ渡ってください。そこでも王となるには十分です。」項籍は笑って言った。「江東の子弟たちが私と共に西へ渡り、無道な秦を討ったが、今は一人も帰る者がいない。たとえ江東の父兄が私を憐れんで王にしてくれたとしても、私一人の心に恥じないことがあろうか。」ついに自ら首をはねて死んだ。)蘇卿負信(蘇卿、信を負(そむ)く)漢。蘇武字。子卿。使匈奴。被留十九年。有一番女奉待甚殷。子卿納之。與生三子。歸時約其再往。迨到中國。後不克踐約。二子奉母命。來請蘇卿。置而不顧.番女所由責其有節而無信焉。盜謂聚猩猩之女非也。 (漢の蘇武、字は子卿。匈奴への使者となり、十九年間抑留された。現地の一人の異民族の女が非常にねんごろに彼に仕え、蘇武は彼女を娶って三人の子をもうけた。帰国の際、彼は再び戻ることを約束した。しかし中国に帰った後、約束を果たすことができなかった。二人の子が母の命を受けて蘇武を迎えに来たが、彼は放置して顧みなかった。そのため異民族の女は、彼を「節操はあるが、信義がない」と責めたのである。「猩猩(しょうじょう)の女を娶った」とする俗説は誤りである。)高祖遇丁公(高祖、丁公に遇う)丁公為楚項籍將。逐窘漢高祖於彭城。西兵短接。高祖急顧曰。兩賢豈相厄哉。丁公乃還。及高祖即位來謁。帝曰丁公為臣不忠。使項王失天下者也。遂斬之。曰使後為人臣無傚丁公也。 (丁公(ていこう)は楚の項籍の将軍であった。彭城にて漢の高祖を追い詰めた。兵が間近に迫った際、高祖は急いで振り返り、「二人の賢者がどうして互いを苦しめることがあろうか(見逃してくれ)」と言った。丁公はそこで軍を引き返した。高祖が即位した後、丁公が拝謁しに来たが、皇帝(高祖)は「丁公は臣下として不忠であり、項王に天下を失わせた者である」と言い、ついに彼を斬った。そして「後世、人の臣下となる者は丁公を真似てはならぬ」と言った。)丁公告高祖(丁公、高祖を告(うった)う)喻世明言第三十一卷載。閻王殿上。丁公訴曰。某在戰場圍漢皇。皇許平分天下故放皇。稱帝後反遭殺害。漢皇以丁公背項羽故誅之。事公辯曰。紀信替皇死。卻不封贈。項伯不忠。反賜封侯。雍齒為項將。後封什方侯。漢皇無言以對。 (『喩世明言』第三十一巻の記述によれば、閻魔大王の殿上にて、丁公が訴えて言った。「私は戦場で漢の皇帝を包囲したが、皇帝が天下を平分すると約束したため、彼を逃がしてやった。しかし皇帝となった後、逆に殺害されたのだ。」漢の皇帝は「丁公は項羽を裏切ったから誅殺したのだ」と主張したが、丁公は反論した。「紀信は皇帝の身代わりとなって死んだのに報われず、項伯(項羽の叔父)は不忠なのに侯に封じられた。雍齒(ようし)も項羽の将であったが、後に什方侯に封じられたではないか。」これに対し、漢の皇帝は返す言葉がなかった。)張騫誤入鬥牛宮(張騫、誤って闘牛宮に入る)漢。張騫。城固人。武帝時。奉命使大月氏。開西南夷。嘗乘槎。直上天河。入鬥牛宮。見一女子。手弄金梭。傍有一石。問之不答。惟雲可問嚴君平便知。君平蜀人。精天文術數。往詢之。雲此天仙織女也。石名支磯石。 (漢の張騫(ちょうけん)。城固の人。武帝の時代、命令を受けて大月氏へ使いし、西南の異民族の地を切り開いた。かつていかだに乗り、真っ直ぐ天の川を上って「闘牛宮(星宿)」に入った。そこで一人の女子が手に金のシャトル(杼)を持っているのを見た。そばに一つの石があったが、問いかけても答えず、ただ「厳君平(げんくんぺい)に問えば分かるだろう」と言われた。厳君平は蜀の人で、天文や術数に精通していた。彼に尋ねたところ、「それは天の仙人である織女(おりひめ)である」と言った。石の名は「支磯石(しきせき)」という。)王昭君憶漢帝(王昭君、漢帝を想う)昭君。歸州人。漢元帝宮女。會匈奴求婚。昭君詣闕上書請行。既嫁單於。其心未嘗忘漢。嘗上漢帝書曰。臣妾幸得備禁臠。以為身依月日。死有餘芳。豈料失意丹青。遠竄絕域。命也。奈何妾有父有弟。願君王憐而愛之。 (昭君。帰州の人。漢の元帝の宮女。匈奴が結婚を求めてきた際、昭君は宮殿へ赴き自ら行くことを志願した。単于に嫁いだ後も、その心は一度も漢を忘れることはなかった。かつて漢帝に送った書にこうあった。「私は幸いにもお側に仕え、月日のように陛下を仰いで参りましたが、絵師の筆によって不本意なこととなり、遠く絶域に追いやられました。これも運命です。しかし私には父と弟がおります。願わくば君王様、彼らを憐れみ愛してください。」)
班超歸玉門關(班超、玉門関に帰る)漢。班超。安陵人。彪之子。少有大志。家貧。傭書養母。嘗投筆歎曰。大丈當立功異域。以取封侯。安能久事筆硯乎。明章兩朝征定五十餘國。封定遠侯。久鎮西域後。年老乞歸。帝便任尚代之。故超得歸入玉門關。至京未幾而卒。 (漢の班超。安陵の人。班彪の子。若い頃から大志を抱いていた。家が貧しく、書写の仕事で母を養っていたが、かつて筆を投げ捨てて嘆いて言った。「大丈夫(男子)たるもの、異郷で功績を立てて大名(侯)となるべきだ。どうして長く筆や硯の仕事に携わっていられようか。」彼は明帝・章帝の二代にわたり五十余国を征服・平定し、定遠侯に封じられた。長く西域を鎮守したが、年老いて帰国を願い出た。帝は任尚を後任としたため、班超は玉門関を越えて帰国することができた。都に帰って間もなく没した。)諸葛孔明學道(諸葛孔明、道を学ぶ)漢。諸葛亮。字孔明。瑯琊人。漢末避居南陽。志學清修。養生之道。研究奇門遁法。天文術數。卦算韜略。無所不精。初不求聞達於諸侯。後徐庶薦於劉先生。先主凡三往問計。延為軍師。先主即位。拜丞相。受以託孤。後主封為武卿侯。卒諡忠武。 (漢の諸葛亮、字は孔明。瑯琊(ろうや)の人。漢末の動乱を避けて南陽に隠れ住んだ。清らかな修行に励み、養生の道、奇門遁甲の法、天文、術数、占術、軍略などを研究し、精通しないものはなかった。当初は諸侯に名を知られることを求めなかったが、後に徐庶が劉先生(劉備)に推薦した。先主(劉備)は三度訪ねて策を問い、軍師として迎えた。先主が即位すると丞相に任じられ、後のことを託された(遺命を受けた)。後主(劉禅)は彼を武郷侯に封じた。没後の諡は忠武。)楚漢爭鋒(楚漢、鋒を争う)項籍既滅秦。宰割天下。自立為西楚霸王。封沛公為漢王。陰弒義帝於江南。漢王乃拜韓信將。舉兵伐楚。定三秦。取鹹陽。為義帝發喪。責楚弒逆之罪。與楚戰於成皋榮陽間。大戰三十。小戰七十。爭鋒五年。迨英布降漢。範增貶死。楚乃勢孤。被漢所滅。 (項籍(項羽)は秦を滅ぼすと、天下を分け、自ら西楚の覇王となった。沛公(劉邦)を漢王に封じたが、密かに江南で義帝を暗殺した。漢王は韓信を将軍に任命し、兵を挙げて楚を伐った。三秦を平定し、咸陽を取り、義帝のために喪を発して楚の主君殺しの罪を責めた。楚と成皋・滎陽の間で戦い、大戦三十回、小戦七十回、五年にわたって争った。英布が漢に降り、范増が左遷され没すると、楚は勢力を失い、漢によって滅ぼされた。)趙五娘尋夫(趙五娘、夫を尋ねる)趙五娘。漢。蔡伯階之妻也。伯階仕為議郎。在京別立家室。久羈不歸。父母死。妻為治喪。訖乃進京尋夫。事見琵琶曲。與史稱蔡邕。字伯階。陳留園。入健寧。三年辟司徒橋玄府。拜郎中校書柬。觀遷議郎。其事親以至孝。聞啟出兩人歟。 (趙五娘(ちょうごじょう)は漢の蔡伯階(さいはくかい)の妻である。伯階は仕官して議郎となったが、都(京)で別に家庭を持ち、長く留まって帰らなかった。故郷で父母が亡くなると、妻の趙五娘が葬儀を執り行い、それが終わると都へ夫を尋ねに行った。この話は「琵琶記」に見える。史実の蔡邕(さいよう:字は伯階)は、陳留の人で建寧三年に司徒の橋玄に招かれ、郎中や議郎を歴任した。彼は親に仕えて至孝であったことで知られるが、(琵琶記の話と史実とでは)二人の人物が混同されているのではないかと言われている。)漢高祖入關(漢高祖、関に入る)漢高祖。姓劉名邦。字季。沛人也。其時秦法苛暴。天下皆叛。楚人項羽起義。立懷王孫心。高祖率沛中子弟以從。諸侯兵皆西鄉。回功秦約。以先入關者王之。獨高祖先入秦關。除苛法與父老約法三章。秦民大悅。秦王子嬰。素車白馬。出軸道以降。 (漢の高祖は姓を劉、名を邦、字を季という。沛の人である。当時、秦の法は過酷で暴虐であり、天下の民は皆反旗を翻した。楚の項羽が義兵を挙げ、懐王の孫である心を立てた。高祖は沛の若者たちを率いてこれに従った。諸侯の軍は皆西を向き、秦を攻めるにあたって「先に関中に入った者を王とする」と約束した。高祖が一人で先に秦の関中に入り、苛烈な法を除いて父老と法三章を約束したので、秦の民は大いに喜んだ。秦王の子嬰(しえい)は白い車と白い馬(降伏の印)で軸道に出て降伏した。)韓信功勞不久(韓信の功労、久しからず)漢韓信。准陰人。佐漢高帝定天下。虜魏。破趙。降燕。下齊。滅楚。建十大功勳。初封楚王。高祖深忌其能。後偽遊雲夢。執歸降。封淮陰侯。乃不自損抑。務伐己功。致有殺身赤族之禍。亡年僅三十二歲。雖有功勞。不久於世。 (漢の韓信。淮陰の人。漢の高帝(劉邦)を助けて天下を平定した。魏を捕らえ、趙を破り、燕を降し、斉を下し、楚を滅ぼすという十大功勲を立てた。最初は楚王に封じられたが、高祖はその才能を深く忌み嫌った。後に高祖は雲夢への遊覧を偽って韓信を捕らえ、淮陰侯に降格させた。韓信は自ら謙遜して身を引くことをせず、己の功績を誇ったため、ついに身を殺され一族皆殺しにされる災いに遭った。享年わずか三十二歳。功労はあったが、長く世に留まることはなかった。)張子房遊赤松(張子房、赤松と遊ぶ)子房名良。韓國公曰。博浪沙事後(指行弒秦始皇)匿下邳。遊覆上遇衣褐老夫。墮屨命取。良跪進之。老父曰。孺子可教。越五日授以太公兵法。謂後十三年。濟北穀城山下黃石即我也。後良佐(漢)高祖定天下。封留侯。因感鳥盡弓藏。謝病歸入白雲山。師事黃石。號赤松子。 (子房、名は良(張良)。韓国の貴族である。博浪沙での事件(始皇帝暗殺未遂)の後、下邳(かひ)に隠れ住んだ。橋の上を散歩していると、粗末な服を着た老人に会い、老人は靴を落として張良に取らせた。張良は膝をついて靴を差し出した。老人は「この若者は教えがいがある」と言い、五日後に「太公兵法」を授けた。老人は「十三年後、済北の谷城山の下にある黄石が私である」と言い残した。後に張良は高祖を助けて天下を平定し、留侯に封じられたが、「用が済めば捨てられる(鳥尽きて弓隠る)」ことを察し、病と称して白雲山へ退いた。黄石を師と仰ぎ、赤松子と号した。)賈誼遇漢文帝(賈誼、漢の文帝に遇う)漢。賈誼。洛陽人。文帝時河南守。吳薦之石為博士。年二十餘。超遷歲中至大中大夫。請改正朔。興禮樂。上治安策。降灌等。毀之。出為長沙王太傅。誼既適去。渡湘水作賦。弔屈原。論者謂賈生。王佐才遇漢文明主。終不大用。卒悲傷而死。豈非天 (意)乎。 (漢の賈誼(かぎ)。洛陽の人。文帝の時、河南守の呉公に推薦され博士となった。二十代の若さで一年のうちに大中大夫にまで抜擢された。暦を改め、礼楽を興し、「治安策」を献上したが、周勃や灌嬰(かんえい)らにそしられ、長沙王の太傅として都を追われた。賈誼は任地へ赴く際、湘水を渡りながら屈原を弔う賦を作った。後世の人は「賈誼は王を補佐する才能がありながら、文帝という明君に会いながらも、結局重用されることなく悲しみの中で死んだ。これは天意(運命)ではないか」と論じている。)相如題橋(相如、橋に題す)漢。司馬相如。成都人。未遇時。嘗遇橋。見貴者車馬喧騰。慨然曰。大丈夫當如是。因題橋以見志。作子虛上林賦。武帝讀而善之。召見以為郎。會唐蒙驚憂。巴蜀遣相如責之。上乃拜相如為中郎將。後有人上書告。相如使時受金。失官居歲餘。復召為郎。 (漢の司馬相如(しばしょうじょ)。成都の人。まだ世に出ていない頃、橋の上で貴人の車馬が賑やかに行き交うのを見て、慨然として「大丈夫(男子)たるもの、かくあるべきだ」と言い、志を示すために橋の柱に言葉を記した。後に「子虚の賦」「上林の賦」を作り、武帝がこれを読んで称賛し、召し出されて郎となった。唐蒙が巴蜀を混乱させた際、武帝は相如を派遣してこれを正させ、中郎将に任じた。後に、相如が使者の際にお金を受け取ったという告発があり、官職を失って一年余り過ごしたが、再び召し出されて郎となった。)司馬相如題橋(司馬相如、橋に題す:別説)昔司馬相如。十年窗下。苦心讀書。貧窮不得志。其平日有志氣之人。故當入蜀過橋。題十三字於橋柱曰。他日若不乘高車駟馬。不過此橋。隨後果得大貴。回家經過此橋。有志者。事竟成矣。 (昔、司馬相如は十年の間、窓下で苦心して読書に励んだが、貧しく志を得られなかった。彼はもともと志の強い人であったため、蜀に入る際に橋を渡り、柱に十三文字を記した。「他日、もし立派な車に乗ることがなければ、二度とこの橋を渡ることはない」と。その後、果たして出世して貴人となり、帰郷の際にこの橋を通り、志ある者は事をついに成し遂げるということを証明した。)
吳王愛西施(呉王、西施を愛す)吳既滅越。越王勾踐。卑詞請成。臥薪嘗膽。果報會稽之仇。與大夫范蠡。文種謀。乃選民間絕色西施女。進之吳王。夫差甚嬖愛之。至於亡國。 (呉が越を滅ぼした後、越王勾践はへりくだった言葉で講和を求め、薪(たきぎ)に寝て苦い胆(きも)を舐めて、ついに会稽(かいけい)の恥を雪いだ。大夫の范蠡・文種と謀り、民間の絶世の美女、西施を選んで呉王に献じた。呉王夫差(ふさ)は彼女を甚だしく寵愛し、ついに国を滅ぼすに至った。)孫臏遇龐涓(孫臏、龐涓に遭う)戰國。孫臏齊人。龐涓魏人。同師事鬼穀子。孫臏之學優於龐涓。涓為魏將。與臏鬥智。輸而忌之。乃以計刖其足。後孫臏假作顛狂。得脫歸。齊威王以(臏)為師。將兵伐魏。用減灶添兵之法。賺龐涓。追至馬陵道。伏弩射死。 (戦国時代、孫臏は斉の人、龐涓は魏の人。共に鬼谷子に師事した。孫臏の学問は龐涓より優れていた。龐涓は魏の将軍となり、孫臏と知恵を競ったが、負けて彼を忌み嫌い、計略をもって彼の足を切った。後に孫臏は狂ったふりをして逃げ帰った。斉の威王は孫臏を師と仰ぎ、兵を率いて魏を伐った。孫臏は竃(かまど)の数を減らして兵が増えたように見せかける計略(※実際は兵が逃げたように見せかけ油断させる法)を用い、龐涓を欺いた。馬陵道(ばりょうどう)まで追いつめ、伏兵の弩で射殺した。)孫龐鬥智結仇(孫龐、知恵を競い仇となる)(※上記「孫臏遇龐涓」とほぼ同内容のため略訳) (戦国時代、斉の孫臏と魏の龐涓は共に鬼谷子に学んだ。孫臏が勝っていたため、龐涓は嫉妬して孫臏の足を切る刑に処した。後に孫臏は斉に仕え、馬陵の戦いにて計略で龐涓を破り、射殺した。)孟嘗君招賢(孟嘗君、賢者を招く)戰國。孟嘗君。姓田名文嘗。謂其父田嬰。曰家累萬金。門下不見一覽者。後其父卒。孟嘗君立在落(路)。招致諸侯賓客。及亡人。有罪者。皆歸焉。孟嘗君舍業。厚遇之。以故傾天下之士。其時。門下食客數千。無分貴賤。一與交等。 (戦国時代、孟嘗君(もうしょうくん)、姓は田、名は文。かつて父の田嬰(でんえい)に対し、「家には万金が積まれているが、門下には優れた者が一人も見えません」と言った。父が没すると、孟嘗君は跡を継ぎ、諸侯の賓客や亡命者、罪ある者までも招き寄せ、皆が彼のもとに集まった。孟嘗君は私産を投げ打って彼らを厚遇したため、天下の士がこぞって集まった。当時、門下の食客は数千人にのぼり、貴賎の区別なく対等に交わった。)莊子慕道(荘子、道を慕う)莊子名周。蒙人。為周漆園使。其學無所不闚。楚威王聞其賢。遣使厚幣迎之。周曰。千金重利。卿相尊位也。子獨不見犧牛乎。我寧遊戲以浹吾志。焉慕清靜。無為之道。師事老子。著南華經等書。十餘萬言。 (荘子、名は周。蒙(もう)の人。周の漆園(しつえん)の役人となった。その学問はあらゆる分野に及んだ。楚の威王はその賢明さを聞き、使者を送り厚い礼金をもって迎えようとした。荘周は言った。「千金は重い利益であり、卿相(大臣)は尊い位だ。しかし、あなたは犠牲(祭物)の牛を見たことがないのか。私はむしろ自由に遊んで自分の志を全うしたい。清静無為の道を慕うのである。」彼は老子に師事し、『南華経』などの書十余万言を著した。)須賈害範雎(須賈、范雎を害す)戰國。范睢。字叔。魏人。事須賈。使齊攘王賜金及牛酒。睢辭。賈知之。歸告魏杞。魏齊。齊怒答(笞)擊雎。折脅摺齒。雎佯死得脫。入秦說昭王。拜相。須賈使秦。睢敝衣微眼。至邸見賈。賈驚曰。范叔固無恙乎。何一寒至此。乃取綈袍贈馬。睢以賈有故人風。釋之。 (戦国時代、范雎(はんしょ)、字は叔。魏の人。須賈(しゅか)に仕えた。斉へ使者に行った際、斉の王(襄王)が金や牛・酒を下賜したが、范雎は辞退した。須賈はこれを知り、帰国後、魏の宰相・魏斉(ぎせい)に告げ口した。魏斉は怒り、范雎を激しく打ち据え、肋骨を折り歯を砕いた。范雎は死んだふりをして脱出し、秦に入って昭王に説き、宰相となった。後に須賈が秦へ使者に来ると、范雎は破れた服を着て密かに会いに行った。須賈は驚いて「范叔(范雎)は無事だったのか。なぜこれほどまでに落ちぶれたのか」と言い、絹の衣(綈袍)を贈った。范雎は須賈に旧友の情があると感じ、彼を許した。)孟薑女思夫/薑女尋夫(孟姜女、夫を思う/姜女、夫を尋ねる)孟薑女。秦始皇時人。夫范杞郎。派作長城。久役不歸。故思之。野史。秦。孟薑女。夫范杞郎(萬喜良)。新婚奉命作長城之役。薑女往尋之。及至。知夫已死。欲尋骸骨歸葬。神為指處咬指出血。點認夫骨。號慟大哭。長城為之崩。婦人守節。自孟女始。 (孟姜女(もうきょうじょ)は秦の始皇帝時代の人。夫の范杞郎(はんきろう)が長城建設に送られ、長く帰らなかったため彼を思った。野史によれば、新婚早々夫が長城建設に徴用された。彼女は夫を尋ねて行ったが、到着した時には夫はすでに死んでいた。遺骨を持ち帰って葬ろうとし、神の導きで指を噛み切り、その血を骨に垂らして夫の骨を確認した。彼女が激しく哭くと、長城が崩れた。婦人が節守を守ることは孟姜女から始まったとされる。)管飽為賈(管鮑、商売をなす)春秋。管仲與鮑叔微時。曾同為賈。及分金管仲多自與。鮑叔知之不以為貪。知其貧也。後鮑叔為齊桓公大夫。薦仲為相。其善全交道。有如此者。 (春秋時代、管仲と鮑叔は貧しかった頃、共に商売をしていた。金を分ける際、管仲が多く取ったが、鮑叔はそれを欲深いとは思わず、彼が貧しいからだと理解していた。後に鮑叔は斉の桓公の大夫となり、管仲を宰相に推薦した。友情を全うすることの素晴らしさは、このようであった。)趙子龍抱太子(趙子龍、太子を抱く)三國。趙雲。字子龍。常山人。初依袁紹。後從劉(備)先主。時曹操欲下江南。先攻先主於莘野。先主走樊城。復敗於當陽。家眷失散。雲於土墻下遇縻夫人。夫人將子阿斗托雲。雲將馬授夫人。夫人不肯授。投井而死。雲哭埋畢。懷抱阿斗。殺出重圍。(阿斗乃劉備之子即劉禪)。 (三国時代、趙雲、字は子龍。常山の人。最初は袁紹に頼ったが、後に先主・劉備に従った。曹操が江南を攻めようとし、まず劉備を莘野(しんや)で攻めた。劉備は樊城へ逃れ、さらに当陽(長坂)で敗れ、家族は散り散りになった。趙雲は土塀の下で麋(び)夫人に遭遇した。夫人は子の阿斗を趙雲に託した。趙雲は馬を夫人に譲ろうとしたが、夫人は聞き入れず、井戸に身を投げて死んだ。趙雲は泣きながら埋葬を終え、阿斗を懐に抱いて敵の重囲を突破した(阿斗は劉備の子、後の劉禅である)。)高祖治漢民(高祖、漢の民を治む)諸侯既滅。秦惟項籍最強。自立為西楚霸王。封高祖於漢。高祖與國民言曰。父老苦。秦苛法久矣。毀謗者族(誅)。偶語者棄市。民其何堪焉。今日者。吾當王關中。與父老約法三章。殺人者死。傷人及盜者抵罪。餘悉除去。民賴以安。 (諸侯が秦を滅ぼした後、秦の地では項籍(項羽)が最強であり、自ら西楚の覇王と称した。彼は高祖(劉邦)を漢中に封じた。高祖は民衆にこう告げた。「父老(長老たち)よ、苦しみ。秦の過酷な法は長かった。そしる者は一族皆殺しにされ、二人で立ち話をすれば死刑に処された。民はどうしてこれに耐えられようか。今日、私は関中の王となった。父老と『法三章』を約束しよう。人を殺した者は死刑、人を傷つけた者および盗みを働いた者は相応の罰に処す。それ以外の過酷な法はすべて取り除く。」民はこれによって安寧を得ることができた。)武侯與子敬同舟(武侯と子敬、舟を同じくす)曹操已破劉備。備奔夏口。依劉琦。操乘勢下江南。孫權大懼。和戰未決。聞曹兵聲勢百萬。乃使魯肅往夏口探問虛實。並且孔明同入吳肅。欲戰於舟中。囑孔明曰。見吾主切勿言曹兵之多。勸其決戰。合力拒曹。願先生相助焉。 (曹操が劉備を破り、劉備は夏口へ逃れて劉琦を頼った。曹操はその勢いに乗って江南へ進軍し、孫権は大いに恐れた。講和か開戦か決まらぬ中、曹操の軍勢が百万であると聞き、魯粛(ろしゅく:字は子敬)を夏口に派遣して実情を探らせた。そして孔明と共に呉に入った。魯粛は舟の中で孔明に対し、「我が主に会った際、曹操の兵が多いことを決して口にしないでください。決戦を勧め、力を合わせて曹操を拒むよう、先生(孔明)にお助け願いたい」と頼んだ。)
故事集 翻訳在占卜的簽詩註解中,有不少古人、故事例,收集如下,以供參攷。 (占いの籤詩(せんし)の注釈には、多くの古人や故事の例があります。参考に供するため、以下の通り収集しました。)大舜耕歷山(大舜、歴山を耕す)帝舜有虞氏。瞽瞍之子。父頑母嚴。弟象傲。舜事親盡孝。小杖則受。大杖則走。恐陷親不義也。其耕於歷山。有象為之耕。有鳥為之耘。後受帝堯禪位。 (帝舜は有虞氏(ゆうぐし)である。瞽瞍(こそう)の子。父は頑迷、母は厳しく、弟の象(しょう)は傲慢であった。舜は親に仕えて孝を尽くした。小さな杖で打たれればそれを受け、大きな杖で打たれれば逃げた。それは、親を不義(子を殺す罪)に陥れるのを恐れたからである。彼が歴山で耕作すると、象が代わりに耕し、鳥が代わりに草をむしった。後に帝堯(ぎょう)より禅譲を受けて即位した。)冉伯牛染病(冉伯牛、病に染まる)周(朝)冉耕。字伯牛。魯人。孔門弟子。以德行稱。有奇疾。將死。孔子甚惜之。曰斯人也。而有斯疾也。後世追封鄆公。 (周の冉耕(ぜんこう)、字は伯牛。魯の人。孔子の弟子であり、徳行をもって称えられた。奇病にかかり、まさに死なんとした。孔子はこれを甚だ惜しみ、「このような人が、どうしてこのような病にかかるのか」と言った。後世、鄆公(うんこう)に追封された。)姜太公釣魚(姜太公、魚を釣る)周。姜尚。字子牙。汲人(東海許州人)。道號飛熊。先世封於呂。亦曰呂望。避紂亂居東海之濱。釣於磻溪(渭水)。其鉤為直。意不在魚。志在君相。文王聞其賢。聘為師(丞相)。(其時年八十)後周伐紂。滅商興周。武王稱曰尚父。封其子丁公於齊。 (周の姜尚(きょうしょう)、字は子牙。汲(きゅう)の人(東海の許州の人)。道号は飛熊。先祖が呂に封じられたため、呂望ともいう。紂王の乱を避けて東海のほとりに住み、磻溪(はんけい)(渭水)で釣りをした。その針は真っ直ぐで、意図は魚になく、志は君主を補佐する宰相となることにあった。文王はその賢明さを聞き、師(丞相)として招いた(当時80歳)。後に周が紂を伐ち、商(殷)を滅ぼして周を興した。武王は彼を「尚父(しょうふ)」と称し、その子の丁公を斉に封じた。)周公解夢(周公、夢を解く)周公名旦。文王之四子也。輔武王伐紂。武王崩。周公輔成王。封於曲阜曰魯。聖人成就非凡。六經中至少五經均有其作品。周公解夢不見經傳。坊間流傳周公解夢吉凶書。內容以睡夢中事物。來蔔夢者吉凶。禮記。周禮。春官→掌其歲時。觀天地之會。辨陰陽之氣。以日月星辰。占六夢之吉凶。一曰正夢。二曰噩夢。三曰思夢。四曰寤夢。五曰喜夢。六曰懼夢。 (周公、名は旦(たん)。文王の第四子である。武王を助けて紂を伐った。武王が崩ずると、周公は成王を補佐した。曲阜(きょくふ)に封じられ、魯と号した。聖人としての功績は非凡であり、六経のうち少なくとも五経にその作品がある。「周公解夢」は正史や経典には見えないが、巷間には「周公解夢吉凶書」が流布している。その内容は睡眠中の事象をもって、夢を見た者の吉凶を占うものである。『礼記』『周礼』春官によれば、歳時を司り、天地の会合を観、陰陽の気を弁じ、日月星辰をもって六夢(ろくむ)の吉凶を占う。一に正夢、二に噩(がく)夢、三に思夢、四に寤(ご)夢、五に喜夢、六に懼(く)夢という。)管鮑分金(管鮑、金を分かつ)春秋。管仲與鮑叔未仕時。同為賈。分金仲多自與鮑叔。知其貧不以為貧。後鮑叔為齊桓公大夫。竟薦仲為齊相。佐桓公。尊周攘夷霸諸侯一匡天下。管仲嘗曰。生我者父母。知我者鮑叔也。 (春秋時代、管仲(かんちゅう)と鮑叔(ほうしゅく)がまだ仕官していない頃、共に商売をしていた。金を分ける際、管仲は多く自分に取ったが、鮑叔は彼が貧しいことを知っていたので、彼を卑しいとは思わなかった。後に鮑叔は斉の桓公の大夫となり、ついに管仲を斉の宰相に推薦した。管仲は桓公を助け、尊王攘夷を掲げて諸侯に覇を唱え、天下を一新した。管仲はかつて言った。「私を生んだのは父母だが、私を理解してくれたのは鮑叔である」と。)孫龐鬥智(孫龐、知恵を競う)齊。孫臏。魏。龐涓。其初同事鬼穀子。涓之才學弗如臏。嘗與鬥智輸之。涓忌其能。致結成仇。彼此謀害。君子觀於異日。涓刖臏足。臏喪涓命。互相殘忍。毋乃其不仁不智之甚與。 (斉の孫臏(そんぴん)と魏の龐涓(ほうけん)。彼らは当初、共に鬼谷子(きこくし)に師事した。龐涓の才学は孫臏に及ばず、かつて知恵を競って敗れた。龐涓はその才能を忌み、仇敵となった。互いに陥れ合い、後日、龐涓は孫臏の足を切り、孫臏は龐涓の命を奪った。互いに残忍であり、不仁・不智の極みではないだろうか。)範蠡歸湖(范蠡、湖に帰る)春秋。範蠡。字少伯。吳人。與文種同為我大夫。吳滅越。蠡與種。為越王勾踐畫策。卑詞請成。復求民間美女。得西施進於吳。迨滅吳。功成。蠡知勾踐可與同患難。不可共安樂。乃辭官。扁舟泛湖。止于陶。復以謀生致富。稱陶朱公。凡三徙。方成名。後不知所終。 (春秋時代、范蠡(はんれい)、字は少伯。呉の人。文種(ぶんしょう)と共に越の大夫となった。呉が越を滅ぼそうとした際、范蠡と文種は越王勾践(こうせん)のために策を練り、へりくだった言葉で講和を請い、また民間の美女を求めて西施(せいし)を得て呉に献じた。呉を滅ぼし、功を成すに及んで、范蠡は「勾践は共に苦難を分かち合えるが、共に安楽を享受できる人物ではない」と知り、官を辞した。小舟で湖に浮かび、陶にとどまった。再び生業を立てて富を築き、陶朱公(とうしゅこう)と称された。三度住まいを移して名を成し、後にどこへ行ったか分からなくなった。)相如完璧歸趙(相如、壁を全うして趙に帰る)戰國。藺相如。趙人也。時趙有良璧。秦請易以十五城。相如奉璧入秦。而秦負約。相如將璧先使舍人懷歸。以理折服秦王。完璧歸趙。相如在趙。秦終不能勝趙。 (戦国時代、藺相如(りんしょうじょ)は趙の人である。当時、趙に名高い宝玉(和氏の璧)があった。秦は十五の城と交換したいと申し出た。相如は璧を奉じて秦に入ったが、秦は約束を破った。相如は璧を密かに従者に持たせて帰国させ、道理をもって秦王を屈服させ、璧を無傷で趙に持ち帰った。相如が趙にいる間、秦はついに趙に勝つことができなかった。)蘇秦刺股/蘇秦不第(蘇秦、股を刺す/蘇秦、及第せず)戰國。蘇秦。洛陽人。師鬼穀子。游說秦王。書十二上其說。不行。裘敝金盡。憔悴而歸。至家妻不下(織)機。(不理睬其夫)嫂不為炊。(不煮飯給其叔)秦慚怒。得太公陰符。發憤苦讀。困怠時用錐刺股。痛而再讀。後以合從(合縱)之說。聯六國抗秦。說趙竟佩六國相印。 (戦国時代、蘇秦。洛陽の人。鬼谷子に師事した。秦王に遊説し、十二回も上書したが聞き入れられなかった。毛皮の衣は破れ、金も尽き、憔悴して帰宅した。家に着いても、妻は機(はた)を織るのを止めず(夫を無視し)、兄嫁は飯を炊かなかった(義弟のために食事を作らなかった)。蘇秦は恥じ、かつ怒り、太公望の「陰符」を得て発奮して猛勉強した。眠気に襲われると錐(きり)で股を刺し、痛みで目を覚まして再び読んだ。後に合従(がっしょう)の説をもって、六国を連合させて秦に対抗させ、趙を説得してついに六国の相印を帯びるに至った。)蘇秦背劍(蘇秦、剣を背負う)戰國。蘇秦既說秦不行。乃歸家發憤苦讀。研究太公陰符。學成即指秦往說趙王。以合從拒秦。趙王大悅。為治裝並說齊楚魏。趙王乃秦。竟佩六國相印。使秦兵十五年不敢出函穀關。 (戦国時代、蘇秦は秦への遊説がうまくいかなかった後、家に帰って発憤し猛勉強した。太公望の陰符を研究した。学問を成すと秦を指して(あるいは秦を避けて)趙王を説得しに行き、合従して秦を拒むよう説いた。趙王は大いに喜び、旅支度を整えさせ、斉・楚・魏をも説得させた。趙王は彼を重用し、ついに六国の相印を帯びさせた。これにより秦の兵は十五年の間、あえて函谷関を出ることがなかった。)百里奚投秦(百里奚、秦に投ず)百里奚。宛人。初事虞公。晉假途滅虢。知其將亡。不諫而先去之。秦復為勝。逃隱於楚。秦穆公聞其賢。以五千皮向楚贖回。授以國政。秦自強盛。並國二十。遂霸西戎。國人稱奚為五羖大夫。 (百里奚(ひゃくりけい)。宛(えん)の人。最初は虞公(ぐこう)に仕えた。晋が道(虞)を借りて虢(かく)を滅ぼそうとした際、国が滅びることを予見し、諫言せずに去った。後に秦の捕虜(あるいは秦に関連して)となったが楚に逃げ隠れた。秦の穆公(ぼくこう)はその賢明さを聞き、五枚の羊の皮で楚から買い戻した。国政を委ねると、秦は自ら強盛となり、二十の国を併呑して西戎(せいじゅう)に覇を唱えた。国人は彼を「五羖(ごこ)大夫(五枚の羊皮の大夫)」と呼んだ。)
運命の作用 正しい思考力・ありふれた常識性佐藤六龍著 季刊五術 通巻155号 昭和55年9月発行私が五術を講習しだしてからちょうど十一年目になります。その間、いろいろの事がありましたが、現在もただ一つ残念な事があります。それは、どうして運命学に興味を持つ人は、非常識なのだろうということです。これは、その人たちの人格や学の有無とはまったく関係なく、五術を習いにくる人は、「正しい思考力・ありふれた常識性」に欠けているのです。私にはこれが不思議でなりません。思考力と常識性がなくて、どうしてこの厳しい世の中を渡っていくのだろう、ということです。この正しい物の見方、考え方ができない人は、いかにすばらしい五術を修得しても、応用することはできません。中国の五術は、この思考力を持ち、常識性のある人が活用して初めて花が咲くものなのです。この思考力と常識性は、占術を応用する場合に、適中不適中を大きく左右することになりますし、占術の限界を見きわめることに非常に大切な事となるからです。よく、大地震や原爆で死亡する人すべては、その命が短命なのかということを言う人がいますが、これなどはこの二点が欠けているから、こうした愚かな考え方をするのです。命というものは個人ですから、個人の吉凶が、大自然の吉凶にかなうはずがないくらいは、運命学をやらない人ならわかりますが、運命学をやる人はこれがわからないのです。ここで人間の運命の作用について少し究明してみましよう。これについては、明確に『四柱推命術密儀』の書にありますから、ぜひ御一読ください。人間の運命に作用を与えるものは、遺伝・生辰・玄影・経験の四作用です。作用の強さから言いますと、①経験②生辰③玄影④遺伝の順になります。経験とは過去にやった事、起こった事、現在おかれている環境などの常識的な事柄です。生辰は生年月日時で、”命”の事です。玄影は未科学的な要因で、トと相にあたります。遺伝は字のとおりです。ここで占術を研究する人がぜひとも覚えていただきたい事は、この経験が生辰より優先するという点です。戦争や原爆は多くの人が死ぬという経験の前には、生辰の命は一個の価値もないのです。長寿の人が酒によって線路に寝ていればひかれて死ぬのは経験であって、命の長寿の作用によって電車が止まる、などということは絶対にありません。ところが占術を研究する人は、常識と思考があやふやですから、命がよかったら原爆にあわないのではでは、電車が止まるのでは、という経験を無視した常識の欠如の言を言うのです。いちばん人間で問題になるのは結婚の経験です。配偶者ぐらいこの経験に左右され、自己の自由意思と趣味嗜好によって選定できるものは他にありません。例えば、貧富は、いかに自分の意思でも金持ちにはなれませんし、寿命も同じです。ところが配偶者だけは、自己の意思によりどうにでもなるのです。つまり経験(広い意味の経験)によって命を左右してしまうのです。例えば、Aタイプの女性と結婚する命をもっていても、Bタイプばかりの職場にいたら、命に反し経験が左右してBタイプの女性を選んでしまうのです。これをもう少し極端に言いますと、いかによい結婚をする命の人でも、時には命に反してわるい結婚をしてしまう。また、いかにわるい結婚をする命の人でも命に反してよい結婚をしてしまう。これらはすべて経験から命をこえたものなのです。こうしますと、何か命の占術を否定してしまうように考えられがちですが、そうではありません。前述しました、正しい思考力、常識性によって、命より経験が優先するということを知れば納得のいく考え方です。先日、某デパートへ講演をたのまれて行ったときのことです。その時に、そのデパートの係長が命をみてくれというので、一緒に行った会員のH氏が子平と紫薇でみて判断しました。係長は、「実にこわいくらいすべてが当たった。おどろくばかりです。ただ一つ当たっていない部分があります」―と言うのです。側で聞いていた私が、即座に、「その当たっていない部分は、奥さんの事でしょう」と言いますと、これまた不思議そうに「どうしてそれがわかるのですか? たしかにそうです。家内の事です。それ以外はすべて適中しています」とのこと。つまり、私は経験が命に優先して、この係長は夫妻運が狂っているのだな、ということを感じとったのです。これは私が長年デパートへ運命学の講習に行っていて、そのデパートという職場の環境という経験を知っていたからです。デパートは、女二十人(それ以上かもしれない)に対して男一人の職場です。しかも職場結婚の多い所です。男性側から言えば、命の入りこむ余地はまったくないのです。経験百%の所です。つまり男の命における結婚の吉凶に関係なく、職場における女性との縁で結婚が決まるのです。そこには男性からの趣味嗜好は入りますが、命はまったく関係なく配偶者というのが決まってしまうのです。経験が命に優先するというのは、非常に大切なことです。かつてこんな例もありました。ある人が四十代の時、五十代に衰運がくるというのです。その人は命を研究していたのですが、衰運ということにたえられなくなり、日本の偽の仙道にこってしまい、自分の土地や家を手離し、縮少して自分独りになり、富士の山麓に小屋をたて、犬と小動物だけの仙道生活に入りました。三年後におりて来て言うに、「遁甲でみて大凶方に行ったのになんの凶兆も出ない、遁甲や命はインチキだ」というのです。これも正しい思考力がまったく欠けているから、こうした低能的な発想になるのです。あらゆる事の吉凶は、社会生活をしていてこそ初めて、そこの摩擦から生じるのであり、大自然の中で犬と暮らしている独り者に、病気以外の凶兆が、いかに大凶方で行っても起こらないのは常識なのです。しかし、この常識が占術をやる人にはないのです。ですから、高野山や二十年の行に入る人は、病気以外の凶兆はいかに大凶方を使用しても起こり得ないのです。そして、どんな大凶方で行っても、仮に地位名声を失う大凶方で高野山へ行っても、病気にさえならなければ、すばらしい大きな地位をもらえるのです。二十年という人のやらない行をやった事に対して、その宗門が地位をくれますから、地位失墜の大凶方で行ってももらえるのです。しかも、山に一人入るのですから、凶方の作用というのは俗界に起きるのであって、一人の世界には病気以外は起きませんから、まったく方位作用はありません。このように、命も占術も経験も、一つの大きな集団生活の中にあって初めて吉凶が起き、しかも、それは経験なり常識なりが、命や占術より優先するという事を忘れてはなりません。
歌丸光四郎先生の運命の7大原則です。第1原則 善因善果聖書の「山上の垂訓」に、「右の手で良いことをして、左手にも知らせるな」というのがある。誰にも話さない善根を積むことが、運命改善の絶対条件である。良いことをしたら、出来るだけ早くそれを忘れてしまうべし。第2原則 是が非でもという願望は達成されない是が非でも達成したいという願望を、運命に対する我が儘という。歴史上の悲劇というのは、すべてこういう我が儘が、運命の手によってぴたりと押さえられた悲劇である。スポーツにしろ、受験にしろ、ビジネスにしろ、「是が非でも」と考えると、この運命の原則に違反して失敗する。もっと淡々と冷静に、「是が非でも」という考えを捨てて臨むべきである。第3原則 得意は失意の前兆である人間は情ない生物である。すこし得意な境遇に納まると、すぐにふんぞりかえって威張りたがる。昨日まで威張りかえっていた人が、定年などで辞めたりすると、まるで掌を返したように頭が低くなる。得意満面の思い上がった態度は、天もこれを憎むものであるから、そういう態度では得意の境地が永続きする筈がない。また「失意のあとには必ず得意の時期がくる」というのも運命の大法則である。決して失望・落胆しないこと。第4原則 願望は諦めたときにひょっこり達成される運命とはこのように皮肉なものである。何かの願望に対して精魂を傾けて努力してみても、なかなかそれが達成されない。万策つき果てて、この願いはとうてい達成されない無理な願いかと諦めた途端に、その願望がひょっこり達成される。一生懸命に努力してみても、容易に事が成就しないような場合には、運命に対する我が儘なのかどうかを反省してみて、「成就を天にまかせる」心境をもつことが、事の運びを良くして達成されることをこの原則は教えている。第5原則 訪れてきた運命の波には乗るべし外から思いもかけない良い運命の誘いが来ているのに、「ああでもない、こうでもない」とひねり回すだけで、せっかく訪れてきた運命の波にいっこう乗ろうとしないのは、これも運命に対する我が儘であって、その結果は良くない。ルビコン川を渡る運命に立たされた場合には、勇敢に川を渡るべきである。「三顧の礼」をもって迎えられるような運命が訪れてきた場合には、多少の不満はあっても勇敢にそれに乗るべきであることをこの運命の原則は教えているのである。第6原則 潔(いさぎよ)きは非惨を伴うこの原則は、我慢が足りずに、いさぎよい行動に出るのを戒めている。我慢すべきときには歯を食いしばって我慢し、変わるべきときには勇敢に転身する。これが成功者のコースであり、その逆が失敗者のコースである。第7原則 誰がみても気の毒な状態は運命好転の前兆周囲から叩かれる場合、叩かれるだけ叩かれる方がいい。平社員に落とすといわれたら、素直にそれを受ければいい。こういう状態に陥った場合は、強いて周囲の白眼に対して反抗したり、無用の虚勢を 張ったりしないことが大切である。 気の毒と誰からも見られる状態が深刻であればあるほど運命の好転が早いのである
1. 鬼谷子鬼谷子自身は謎に包まれた人物ですが、歴史書『史記』において、弟子である蘇秦・張儀の紹介としてその名が登場します。出典:『史記』巻六十九 蘇秦列伝【原文】蘇秦者、東周雒陽人也。東事師於齊、而學之鬼谷先生。出遊數歳、大困而歸。兄弟嫂妹妻妾竊皆笑之、曰、「周人之俗、治産業、力工商、逐什二之利。今釋本而治口舌、困、不亦宜乎。」蘇秦聞之、大晱、自閉室中、出其書徧觀之。曰、「夫士業已屈首受書、而不能以取尊榮、雖多亦奚以為。」於是得周書陰符、伏而讀之。期年、揣摩、曰、「此可以説當世之主矣。」【超訳】蘇秦(そしん)は、東周の雒陽(らくよう)の人である。東の斉国へ行って、鬼谷先生に学問を学んだ。数年間、諸国を遊説して回ったが、全くうだつが上がらず、ひどく困窮して故郷へ帰ってきた。兄弟、兄嫁、妹、妻、愛妾までが、みんな陰で彼を笑って言った。「周の国の風俗では、産業を営み、商工業に力を尽くし、十に二の利益を追い求めるものだ。それなのに、本業を捨てて口先だけの弁舌に頼るのだから、困窮するのも当然ではないか」蘇秦はこれを聞いてひどく恥じ入り、部屋に引きこもって、自分が持っている本をすべて取り出し、くまなく読み漁った。そして言った。「士(知識人)たる者が、うつむいて書物を読みながら、尊い地位や栄誉を手に入れられないのなら、いくら本を読んでも何になるというのだ!」そこで彼は『周書陰符(しゅうしょいんぷ)』という秘術の書を手に入れ、うつ伏せになって(没頭して)それを読みふけった。丸一年、術を研究し、自分の頭で考え抜いた結果、彼はついに悟った。「これこそ、現代の王たちを説得できる術(縦横術)だ!」2. 司馬季主漢の時代、官僚たちが占い師である司馬季主を馬鹿にしに行き、逆にその深遠な学識で論破される名場面です。出典:『史記』巻百二十七 日者列伝【原文】宋忠賈誼、同日倶見司馬季主。司馬季主、楚人也。敗於長安東市。宋忠賈誼、共遊行市中。修門、與術士相、歩、歴、投、見卜筮之賢大夫。觀司馬季主、弟弟子三四人、環侍而坐、原天地之始終、引吉凶之先後。宋忠賈誼、喟然而歎。司馬季主笑曰、「觀大夫之類、無有道之質。何稱之之不容。夫百疾之在體、皆生於不仁。今大夫居官、以任爲重、以利爲利。此與剥人何異。今夫卜者、導人以善、教人以禮。君子聞之、増修其徳。小人聞之、解免其難。夫卜者、何爲不可長者哉。」宋忠賈誼、忽然而自失、芒然而無以應。【超訳】宋忠(そうちゅう)と賈誼(かぎ)という二人の高官が、同じ日に占い師の司馬季主に会いに行った。司馬季主は楚の人で、長安の東の市場で占い店を開いていた。宋忠と賈誼は市場の中を散策し、占い師や人相見、暦学者たちが集まる場所を訪ね、占い・易経の賢人(司馬季主)に会うことにしたのだ。見ると、司馬季主の周りには三、四人の弟子たちが環(わ)になって侍り座っており、季主は天地の始まりと終わり(宇宙の真理)を論じ、吉凶の先後(未来の法則)を説いていた。宋忠と賈誼は「ほう」とため息をついた。すると司馬季主は笑って言った。「お二人のようなお役人を見ていると、真実の道(道徳)を身につけていないようだ。なぜ、私のような占い師をそのように見下すのか。およそ、体に起こる病気はすべて『不仁(道徳の欠如)』から生まれる。今、お前たち役人は官職に就き、重責を担っていると言いながら、私利私欲を貪っている。これは人を剥ぎ取る(略奪する)のと何が違うのか。それに引き換え、占い師というものは、人を善に導き、礼儀を教える。君子(徳のある人)が占いを聞けばさらに徳を磨き、小人(凡人)が占いを聞けば災難を免れることができる。占い師という仕事が、どうして立派な者の仕事ではないと言えようか」宋忠と賈誼は、ハッとして自分を失ったようになり、呆然として一言も言い返すことができなかった。3. 趙達中国の正史『三国志』の呉書に、占い(数理)の達人として独立した伝記が立てられています。出典:『三国志』巻六十三 呉書 趙達伝【原文】趙達、河南人也。少學兵法、治九宮一算之術。引以爲算、無毫芒之差。嘗過知友家。知友爲設飯、草草、自歎無酒肉。達取箸、便計之曰、「公東壁下、有米一斛。又有鹿肉三斤。何言無物。」友人慙曰、「誠有之、嫌不精、故不敢出。」達又曰、「公且有酒一壺、在竈下。」友曰、「實無酒。」達曰、「汝視之。其酒已酸。」視之果然。達治算、至妙。毎自算寿命、自知死期。後果如其言。【超訳】趙達は河南の人である。若い頃から兵法を学び、九宮一算の術を修めた。彼が計算を行うと、ほんのわずかな誤差もなかった。かつて、彼が親しい友人の家を訪ねたときのこと。友人は食事を出してくれたが、非常に質素で、友人は「酒も肉もなくて申し訳ない」と嘆いた。趙達は箸を取り、パパッと計算して言った。「あなたの家の東側の壁の下に、米が一石(約18リットル)ありますよ。さらに鹿の肉が三斤(約1.8キログラム)ある。なぜ、何もないなどと言うのですか?」友人は恥じて言った。「本当にあります。ただ、上等なものではないので、出すのを遠慮したのです」趙達はさらに言った。「さらに、あなたのかまどの下に、酒が一壺ありますよ」友人は「本当に酒はありません」と言ったが、趙達はこう言った。「見てきなさい。ただ、その酒はすでに酸っぱくなっていますよ」友人が見に行くと、はたしてその通りであった。趙達の計算の術は、きわめて絶妙であった。彼はいつも自分の寿命を計算しており、自分の死期を知っていた。のちに果たして、彼が予言した通りの時期に亡くなった。4. 袁天綱のちの女帝・武則天が赤ん坊の時、男装しているのを見て「天下の主になる」と予言した超有名エピソードです。出典:『新唐書』巻二百四 方技列伝 袁天綱【原文】袁天綱、益州成都人。武后之生、其母召天綱、使相之。時后在襁褓、衣服與男子等。天綱視之、大驚曰、「龍瞳鳳頸、極貴之相也。」又既視之、下地行。天綱曰、「此郎君子、明目達聰、貴無以加。若爲女子、當爲天下之主。」後果如其言。【超訳】袁天綱は、益州成都の人である。のちの武則天(武后)が生まれたとき、彼女の母親が袁天綱を招いて、我が子の人相を見てもらった。その時、武后はまだ産着に包まれた赤ん坊であり、服は男の子のものを着せられていた。袁天綱は彼女を見るなり、大変驚いて言った。「龍の瞳に鳳凰のうなじだ。この上なく貴い相(人相)をしておられる」そして袁天綱がさらに観察しようとすると、赤ん坊を床に下ろして歩かせた。袁天綱は言った。「この坊ちゃんは、目元が明るく、耳も聡明で、これ以上ないほど貴い。……しかし、もしこの子が女子であったなら、必ずや天下の主となるだろう」のちに果たして、彼の言葉の通りになった。
前回までで、ざっと見てきましたが、『焼餅歌』の後半および結末部分において、現代(2020年代以降)やその先の近未来を指していると、現代の予言研究家の間で特に注目されている部分をより詳しく紐解いていきます。2020年代以降の危機・世界的な大転換現代のネットや研究家の間で「2020年代のパンデミックや世界的な大不況、天変地異ではないか」と噂されるのが、以下の問答です。1. 「末劫(世界の終わり)」と人類の淘汰【原文】帝曰:末後道何人伝?基曰:有詩為証:不相僧来不相道、頭戴四両羊絨帽、真仏不在寺院内、他実散領真教主。【現代語訳】皇帝:「(世の終わりである)末劫の時代、正しい道(教え)は誰が伝えるのか?」劉基:「詩をもって証拠とします。それは僧侶のような姿でもなく、道士のような姿でもありません。頭には四両の羊毛の帽子(=普通の庶民の防寒具・現代的な衣服の比喩)をかぶっています。真の仏(救世主)は寺院の中にはおらず、彼は市井に散らばり、真の教主(リーダー)として領(みちび)くのです」2020年代以降の解釈: 既存の宗教(お寺や教会、権威)が力を失い、混乱する世界の中で、特定の宗教家ではない「一般の人間(在家の者)」が、人々に新しい生き方や真理を説き始めるとされています。2. 世界的な災難の時期(数字の暗号)この時期を特定する、漢字を使った奇妙な言葉遊びがあります。【原文】猴子背着狗、不見人、但見鬼。【現代語訳】猿(申)が犬(戌)を背負うとき、人は見えず、ただ鬼(死者や幽霊、あるいは悪しきもの)ばかりを見る。2020年代以降の解釈: 十二支(干支)の組み合わせを指しているという説があります。申(さる)の年: 2028年戌(いぬ)の年: 2030年これらを「2020年代後半から2030年代初頭にかけて、世界的な人口減少や大きな災厄、あるいは戦争による混乱がピークを迎える時期ではないか」と深読みする研究家がいます。未来の救世主(聖人)に関するさらなる詳細先ほどお伝えした庶民から現れる聖人について、皇帝と劉伯温はさらに詳しく問答を重ねます。3. 「木子」と三位一体(弥勒の降臨)【原文】帝曰:弥勒降凡在何地?基曰:太安中華。吉地、出生于寒門、木子為姓。【現代語訳】皇帝:「弥勒(未来仏・救世主)はこの世のどこに降臨するのか?」劉基:「泰安(やすらか)なる中華、吉なる地です。貧しい家(寒門)に生まれ、姓は『木子(き・こ)』を合わせるものです」測字(漢字パズル)の解釈: 「木」と「子」を組み合わせると、中国で最も多い苗字の一つである「李(り)」になります。そのため、「李という姓を持つ庶民の家から、世界を救う者が現れる」という具体的すぎる予言として解釈されます。4. 万法帰一:世界的な大同(ユートピア)【原文】帝曰:何時官民安楽?基曰:但等木子成林、天下太平。【現代語訳】皇帝:「いつになったら、役人も民衆も安楽になれるのか?」劉基:「ただ、木子が林を成す(=聖人の教えに賛同する人々が世界中に増え、団結する)のを待つのみです。そうなれば、天下は太平となります」5.結句【原文】帝嘆曰:惟卿明見、真為朕之得力助手。(或者:帝曰:卿真乃神人也。万民得福。)【現代語訳】皇帝はため息をついて言った。「ただ卿(あなた)だけが、未来を明確に見通している。真に我が右腕(得力助手)である」(※テキストによっては「皇帝は言った。卿は真に神人(神のごとき人)である。万民は福を得るだろう」と結ばれます)
焼餅歌(第3部:混乱と救世主の出現)1. 二つの世界大戦と現代の動乱清朝が滅びた後、世界規模の戦火が広がる様子を描写しているとされる部分です。【原文】草頭童子皆流血、倒掛門前剃却頭。此事伝来都一様、拆頂去底不用刀。【現代語訳】民(草頭)も若者も皆血を流し、門前に逆さに吊るされ、髪を剃られる(辱めを受ける)。このような事態はどこでも同じように伝わり、頂を壊し底を去るのに、刃物すら必要としない(思想や経済、新兵器による破壊)。解釈: 20世紀の戦争や内戦、あるいは物理的な刃物を使わない近代戦(情報戦や核兵器、経済戦)の恐怖を予言していると解釈されることがあります。2. 世界的な災難と人類の危機さらに未来、人類が大きな災難に見舞われる様子です。【原文】人気散尽、地気死、天運循環、不変則死。宇宙茫茫、誰是真主。【現代語訳】人の気(活力)は散り失せ、大地の気(自然)は死に絶える。天の運命は循環しており、自らを変革しなければ死を迎える。宇宙は茫茫(広大で果てしない)としており、一体誰が真の主(リーダー)なのだろうか。解釈: 環境破壊や、世界的なパンデミック、精神的な荒廃などを指しているのではないかと、現代のオカルト・予言研究家の間で深読みされている一節です。3. 未来の救世主「紫微聖人」の降臨『焼餅歌』の最後(予言の終着点)は、絶望ではなく、世界に平和をもたらす偉大な聖人の登場で締めくくられます。【原文】未来教主臨下土、不落宰府共官僚。不在升門与子鹿、不在皇宮為太子。在作一普通百姓、千言万語無人信。【現代語訳】未来の教主(聖人)がこの地上に降臨する。その者は大臣の家にも、官僚の家にも生まれない。出世の門にもおらず、皇宮(王宮)の太子(王子)でもない。ただの一般の庶民(普通の百姓)として生まれ、最初は彼が発する千言万語を、誰も信じようとはしない。解釈: 既存の権力者や宗教指導者ではなく、「名もなき一般庶民」の中から、世界を導く思想や真理を持った人物が現れるという予言です。中国の予言文学では、この人物をしばしば「紫微聖人(しびせいじん)」と呼びます。4. 万法の帰一(世界平和へ)聖人の教えが世界に広まり、人類が一つになる大団円です。【原文】弘揚正法、万法帰一。天下大同、不再殺戮。【現代語訳】正しい法(真理)が弘(ひろ)まり、すべての教えは一つに帰結する。天下は大同(平和な理想社会)となり、もはや殺戮(戦争)は行われなくなる。
焼餅歌(第2部:清朝の興亡と近代の足音)1. 満洲族(清)の入関と支配明が滅び、清軍が万里の長城を越えて中国本土に侵攻する様子です。【原文】雨水草頭真主出、赤頭童子皆流血。倒掛頂門剃却頭、満洲官将到中州。【現代語訳】「雨」と「水」と「草冠(草頭)」から真の主(=「満」の字の隠語)が現れる。赤い頭の童子たちは皆、血を流す。頭のてっぺんから髪を剃り落とし(=満洲族の髪型である辮髪(べんぱつ)の強制)、満洲の将軍たちが中原(中国本土)へとやってくる。解説: 漢字のパーツを組み合わせる「測字(そくじ)」という占いの手法で「満洲」を予言し、漢民族に辮髪を強制した歴史(「髪を留めんとせば頭を留めず」)を生々しく描写しています。2. 康熙・雍正・乾隆の黄金期清朝が最も栄えた三代の皇帝(康熙帝、雍正帝、乾隆帝)の時代についての予言です。【原文】胡人継続百年運、春帰草頭成字新。三元復転気運開、大修文武聖主裁。【現代語訳】北方の民(胡人=清)の運命は百年以上続き、春が巡り文字が新しくなる。三つの元(三代の聖なる皇帝)が巡って気運が開き、文武両道を修めた聖なる君主(康熙・雍正・乾隆)が天下を裁く。解説: 異民族王朝ながら、清朝が非常に文化・軍事ともに優れた全盛期を迎えることを肯定的に捉えています。3. アヘン戦争と西洋列強の侵略清朝末期、イギリスをはじめとする西洋列強が海から攻めてくる、いわゆる「アヘン戦争」以降の動乱です。【原文】海運即開、西北乾、東南坤外洋鬼子進中原、火器無情真可憐。【現代語訳】海の運が開け、西北は乾き、東南は揺らぐ(中国全土が揺れる)。外洋の「鬼子(西洋人の蔑称)」が中原に侵入し、火器(大砲や鉄砲)が無情に火を吹き、真に哀れな状況となる。解説: 伝統的な刀や弓矢ではなく、西洋の圧倒的な「近代兵器(火器)」によって中国が蹂躙される様子を予言しています。4. 清朝の滅亡と新しい時代の夜明けラストは、清朝の最後の皇帝(溥儀)が退位し、中華民国が成立(辛亥革命)する激動の予言です。【原文】手執鋼刀九十九、殺尽胡人方罷手。楼宇成灰光景一、改頭換面新世界。【現代語訳】手に鋼の刀を握りしめ、満洲族(胡人)を追い落としてようやく手を引く。古い楼閣は灰となり、風景は一変する。頭を変え、面を改めて、全く新しい世界(共和制)が誕生する。
焼餅歌 第一部前回の導入部分のお話と重複しますが、原文と比較してお読みください。主要部分のみの抜粋です。気になる人は、全文は中国書店などでで入手可能です。1. 導入:皇帝の食べかけの焼き餅ある日、洪武帝が内殿で焼き餅(シャオビン)を食べていたところ、劉伯温がやってきました。皇帝は餅に碗をかぶせて隠し、「この中に何があるか当ててみよ」と問いました。劉伯温は指を折って計算し、こう答えました。原文:半似日兮半似月、曾被金龍咬一缺。此食物也。現代語訳:半分は太陽のようで、半分は三日月のよう。かつて金龍(皇帝)にかじられて、一箇所欠けております。これは食べ物(焼き餅)です。碗を開けると、果たしてその通りでした。皇帝は劉伯温の知恵に感服し、明王朝の未来(国運)について問い始めます。2. 国運の問いと燕王(永楽帝)の靖難の変皇帝が「我が天下の行く末はどうなるか」と問うと、劉伯温は「天機(天の秘密)は漏らせません」と言いつつも、詩の形で予言を始めます。原文:我朝萬子萬孫、何足問也。基曰:茫茫天数、我主万子万孫。取頂大明、下属刺。現代語訳:皇帝:「我が王朝は、万子万孫(永遠に子孫が続く)である。何を問うことがあろうか」劉伯温:「(皮肉を込めて)広大な天の定め、我が主の天下はまさに万子万孫(※実際は万暦帝の子供と孫の代で明が傾くという言葉遊び)でございます。しかし、大明の頂(都)を奪う者は、下につくトゲ(刺=燕王、のちの永楽帝)でございます」3. 土木の変と都の危機明の正統帝がオイラトに捕らえられた「土木の変」や、北京が包囲される事件の予言です。原文:雖然社稷在明、安享国栄、但怕太平世界、失了天平。遷都北京、雖好、但有一木撑天、二十年、天下乱。現代語訳:国家は明にあり、栄華を享受しますが、太平の世にあって、天の均衡が失われるのを恐れます。(永楽帝による)北京遷都は良いことですが、一本の木が天を支えるような危うい状態が二十年続き、天下が乱れます。4. 明の滅亡(崇禎帝の最期)明の最後の皇帝である崇禎帝が、煤山(景山)の木で首を吊って自害する様子を予言したとされる一節です。原文:樹上挂曲尺、天下断、此時。現代語訳:木の上に「曲尺(直角の定規=首を吊るロープの形、あるいは文字の形)」が掛かるとき、天下はここで途切れます。
焼餅歌は、明の建国功臣・劉基(劉伯温)が皇帝・朱元璋に明の未来を予言したとされる、暗喩に満ちた中国の預言詩です。劉基は、子平推命の古典「滴天髄」、断易の「黄金策」、奇門遁甲の「天地書」の作者という説もあります。ある日、明の太祖(朱元璋)が内殿におり、焼餅(シャオビン)を食べていた。一口食べたとき、内官が国師の劉基(劉伯温)がお見えになったと告げた。太祖は器を伏せて餅を隠し、それから劉基を招き入れた。礼が終わると、帝は尋ねた。「先生は数理に精通しておられる。器の中にあるものが何か分かるか?」劉基は指を折って算じ、こう答えた。「半分は日の如く、半分は月の如し。かつて金龍に一口かじられた。これは食べ物ですな」。器を開けてみると、果たしてその通りであった。帝は直ちに、天下の後世の事はどうなるかと尋ねた。劉基は言った。「茫々たる天数(運命)において、我が主(陛下)は万子万孫(よろずの子孫)を得られます。何を問う必要がありましょうか」。帝は言った。「古来より興亡には一定の決まりがあるとはいえ、天下は一人の天下ではなく、徳のある者のみがこれを享受できるものだ。言っても差し支えなかろう。試みに語ってみよ」。劉基は言った。「天機を漏らすことは、臣の罪も軽微ではありません。陛下、臣の万死をお許しいただけるのであれば、あえて奏上いたしましょう」。帝は直ちに免死金牌(死罪免除の札)を与えた。劉基は恩に謝し、奏上した。「我が大明朝は世界を統一し、南方はついに滅び北方もついに終わります。嫡裔の太子は嫡裔であり、文星が高くそびえて日に西を警戒します」。帝は言った。「朕は今、都の守りを固くしている。何を警戒することがあろうか」。劉基は言った。「臣が見るに、都は堅固で防備も厳重であり、憂いはないように見えます。ただ、燕(燕子)が飛んで来るのが恐ろしいのです」。続けて三首の歌を詠んだ。「この城、御駕尽く親征し、一院の山河、永楽平。禿頭の人、文墨の苑に来たり、英雄の半分は尽く郷に還る。北方の胡虜、生命を残(そこ)ない、御駕親征して太平を得る。失算の功臣、あえて諫めず、旧霊は遮り隠れて主の魂を驚かす。国は瑞雲を圧すること七載長く、胡人はあえて賢良を害せず。相い送る金龍、故旧に復し、霊明なる日月、辺疆を振るわす」。帝は尋ねた。「その時、天下はどうなっているか」。劉基は言った。「天下は大乱となります」。帝は言った。「朕の天下を、誰が乱すというのか」。劉基は言った。「天下は飢寒にして怪異あり、棟梁の龍徳、幼児に乗ず。禁宮は広く大きく、勝手横行に任せ、長大なる金龍、太平の時。老いさらばえても金精は特に壮旺、相い伝わる昆玉、龍堂を継ぐ。宦官(阉人)を任用して社稷を保ち、八千の女鬼、朝廷の綱紀を乱す」。帝は言った。「八千の女鬼とは、朕の天下を乱す何者か」。劉基は言った。「忠良は殺害されて山が崩れるが如し。事なく水辺に異潭を成し、蛟龍の真の血肉を救い得ても、哀れかな父子は順当なり難し」。帝は言った。「もしや父子が国を争うのか」。劉基は言った。「いえ、樹の上に曲尺を掛け、順(順治)に遭えば止まる。ここに至るも天下はいまだ終わらず」。帝は言った。「何をもって終わらずと言うのか」。劉基は言った。「万子万孫が幾重にも重なり、祖宗の山上に貝の衣(崇禎)が行く。公侯は再び金闕に朝せず、十八の孩児(李自成の「李」)は難の上に難あり。卦に曰く:木の下に一の了の頭、目の上に一刀一戊丁。天下は文を重んじて武を重んぜず、英雄豪傑、総じて春なし。戊子・己丑は麻の如く乱れ、至る所の人民、家に在らず。たまたま飢饉に遭いて草寇(賊)が発し、平安に鎮守するは桂花なり」。帝は言った。「たまたまの飢饉や、並の賊臣などで天下が終わるというのか」。劉基は言った。「西方の賊が群がり乱れが前に到るも、一人の忠良としてあえて諫言する者なし。喜んで子孫を見るも、日を見るを恥じ、衰退する運気は早くに天に昇る。月の欠けたる両二(満清の「満」)吉は中にあり、奸人の機は発して西東へ去る。黄河を渡りて金闕を開き、梅花(呉三桂?)を奔走させて九重に上る」。帝は言った。「もしや梅花山が乱を起こすのか。今より人を命じて看守させてはどうか」。劉基は言った。「いえ、南に遷り北に遷りて太平を定め、帝王を輔佐するに牛星あり。運、六百半に至り、夢に奇なる字ありて心、驚きを得る」。帝は言った。「六百年の国祚があれば、朕の心は足れり。まだその半分があるというのか」。帝はまた言った。「天機を卿は明言し難かろう。錦嚢(にしきの袋)一通を残し、庫内に蔵して世々相い伝え遺すことなかれ。急ぎ難ある時にこれを開いて見よ、よろしいか」。劉基は言った。「臣もまたその意にございます」。遂にまた歌って曰く。「九尺の紅羅、三尺の刀、君に勧む、任意に自ら遊び招けと。宦官(阉人)は尊貴にして武を修めず、ただ胡人の二八(十六、満州族の八旗)の狄あり。臣は櫃の中に封じ、後で開く時を待つ。自ずから桂花の開放を験し、英雄たれ。万里の長城を壊して忠孝を尽くし、周家の天下に重複あり。李花を摘み尽くすも無駄に功を労す。黄牛の背上に鴨の頭の緑、国家の珍と粟を安らかに享受す。雲は中秋を覆いて行く路を迷い、胡人は旧に依りて胡人の毒あり。反覆して従来、桂の枝を折る。水は月宮に浸りて主の上に立つ(清)。禾米一木(秦)を併せ去り、二十三人が八方に居す」。帝は言った。「二十三人が朕の天下を乱すのか。八方は安らかに居せるか」。劉基は言った。「臣は万死に値します。隠し立てはいたしません。ここに至りて大明の天下、亡びて久しくなります」。帝は大いに驚き、直ちにその人はどこで育ち、どのような衣冠をまとい、どのような国号を称し、天下をどう治めるのかと尋ねた。劉基は言った。「やはり胡人の二八の秋。二八の胡人、二八の憂い。二八の牛飼い(牛郎)、二八の月。二八の嬌娥、土牛に配す」。帝は言った。「古来、胡人に百年の国運なし。それなのに、ここに二百余年の運があるというのか」。劉基は言った。「雨水、草の頭に真の主出で(満州)、赤頭の童子は皆、血を流す。三元を倒置して総じて初めて説く。すべからくこれ川の水、頁の台の闕(順治の「順」)。十八年間の水火の奪い合い。庸人は水火の臣を用いず、この中で自ら漢人を用う。卦は気数を分け、三数を欠く。親の上に親を加え、また親を配す」。帝は言った。「胡人がここに至り、人を用い水が奪い火が滅ぶ。親の上に親を加えるとは、もしや駙馬(帝の婿)が乱を起こすのか」。劉基は言った。「いえ、胡人の英雄は水火既済、太平を安らかに享受し、位もあり勢いもあり。時に昇平(泰平)に値し、盛世と称す。気数はいまだ尽きず、なお後継あり。宝剣を重ねて磨き、また重ねて磨く。家を差し押さえ一族を滅ぼすも、いかんともし難し。宦官の社稷、邪鬼を蔵し、孝悌、忠奸、殺戮多し。李花の実を結ぶは正に春に逢い、牛の鳴く二八、丁を倒し挿す。六十の周甲、一甲を多くし、螺角を逆に吹くも声なし。佳人を点画すれば、糸、自ら分かれる。一は当年に止まり、嗣、真を失う。泥の鶏が鳴くも空しく口なし。樹には霊枝産まれるも、枝に魂を欠く。朝臣は月なき光を乞い来たり、各人の口に首を叩くも茫々たり。一たび生の中に相い慶賀するを見れば、周甲を逍遥し飢饉を楽しむ」。帝は言った。「胡人はここに至り、敗亡するのか」。劉基は言った。「いまだです。治久なれば乱を生じ、この困苦に値し、民は異心を抱くといえども、然れど気数はいまだ尽きず。二十歳の力士、双口を開き(「善」の字の暗示か)、人はまた一心に短長を計る。時に俺(わ)が寺の僧、八千の衆、火龍、河を渡りて熱、当て難し。首を叩く時、頭は小にして兀(ハゲ)、娥(おとめ)に月あれど光なし。太極殿の前、卦に卦を対し、香を添え星を祭りて朝堂を騒がす。金羊・水猿の飢饉の年、犬は吠え猪は鳴き、涙は二行。洞の辺りから水を去り、台に水を用いれば、方(まさ)に旧朝の綱紀を復正し得る。火が鼠と牛を焼くはなお自ずから可なり。虎が泥の穴に入れば隠れる所なし。草の頭の家の上に十口の女(「苦」の字か、あるいは西太后の暗示か)、また幼児を抱いて主計をなす(垂簾聴政)。二四八旗は日を遮り難く、遼陽、旧家郷を思念す。東に北斗を拝し、西に旗を拝す。南に鹿を逐い、北に獅を逐う。南に分け北に分け、東に分け西に分く。たまたま異人に遭いて楚に帰る。馬は万里を行きて安らぎを求め、中女、四木の鶏を残害す。六一の人、識らず。山と水が逆さまに相い逢い、黒い鬼が早くに赤城の中で喪われる。猪・羊・鶏・犬、九つの家は空になり、飢饉と災害が皆、共に至る。あたかも豊作の如く民の物は同じ。金龍を見て民の心、開く。刀兵・水火が一斉に来る。一文の銭、一斗の米も粜(う)る人なく、父死して担ぐ兄弟もなし。金龍、馬を絆(つな)ぎ、半ば甲を乱す。二十八星、士人に問う。蓬頭の幼女、蓬頭に嫁ぎ、新君に譲りて旧君に譲る」。帝は言った。「胡人はここに至り、敗亡するのか」。劉基は言った。「手に鋼刀九十九を執り、胡人を殺し尽くして方に止まん。砲は鳴り火の煙は行く路を迷わす。南に遷り北に遷りて六三の秋。哀れかな、雁門関を渡り難し。李花を摘み尽くし胡を滅ぼし尽くす。黄牛山の麓に一洞あり、拾万八十の衆を投ずべし。先に到る者は安穏を得、後から到る者は半路で送られる。罪あるを許し難く、罪なきはなし。天下を計れば民は尽く精根を使い果たす。火風鼎、二つの火、初めて興りて太平を定む。火山旅、銀河の織女、牛星に譲る。火徳星君、下界に降り来たり、金殿楼台、尽く丙丁(火)。一人の髭の大将軍、剣を按じ馬を馳せて情形を察す。暴を除き患いを去りて人多く愛す。永く九州を享受し、金、満ちて勝つ」。帝は言った。「胡人はこの時、なお在るのか」。劉基は言った。「胡人はここに至りて亡びて久しくなります。四大八方に文星あり、品物ことごとく亨(とお)りて同じ形をなす。琴瑟、和諧して古道を成し、左に中興の帝、右に中興あり。五百年の間に聖君出で、天下を周流して賢良、輔佐す。気運、南方にありて将臣を出だす。聖人はよく乱の淵源を化し、八面の夷人、進貢して臨む。宮女は熱心に針仕事をして夜月を望む。乾坤に象(しるし)ありて黄金を集める。北方の胡虜、生霊を害するも、さらに南軍を会して誅戮を行わん。一頭の馬、単騎にて外国を安んじ、諸君、揖譲して三星を留める。上元復(かえ)りて気運開け、大いに文武を修めて聖主、栽(う)う。上下の三元、倒置なく、衣冠・文物、一斉に来たる。七元誤りなくまた三元、大いに文風を開いて対聯を考(と)う。猿は盤に浴し鶏は架から逃ぐ。犬は吠え猪は鳴く太平の年。文武全才の一戊丁。流離散乱し皆、逃民となる。民を愛すること子の如く親兄弟の如し。新君を創立して旧京を修める。千言万語、虚実を知る。蒼生のために残して証盟となす」。
16. 斉の景公と晏子(あんし)の死生観【出典】 昭公二十年<漢文> 「斉侯、飲酒、楽。……斉侯、曰、古而無死、其楽若何。……晏子、対曰、……古而無死、則古之楽也。……君、何得此其楽乎。」<訳> 斉の景公が酒宴の席で「昔から死というものがなかったら、どんなに楽しいだろう」とこぼしました 。名臣の晏子は「もし古人が死なずにずっと君臨していたら、今のあなたにこのような振る舞いをする席(君主の座)など回ってきませんでしたよ」と、痛烈な皮肉でたしなめました 。17. 恵王と弟の宰相就任占い【出典】 定公四年<漢文> 「楚子、使葉公、沈尹朱、卜其弟、為令尹。……沈尹朱、曰、吉、過其所望。……葉公、曰、王子、而為令尹、又過其望、将何為也。……乃卜、其弟之子。……」<訳> 楚の恵王が弟を宰相(令尹)にするか占わせると、沈尹朱は「望みを超えるほどの大吉」と答えました 。しかし葉公は「王族が宰相になり、さらにそれを超える(王位を脅かす)立場になるとは不穏だ」と危惧しました 。結局、さらに後日、弟の子を宰相にする案で占ってから任命しました 。18. 鄭の盟約と公孫舎之(こうそんしゃし)【出典】 襄公九年<漢文> 「晋人、執盟。……鄭、公子、加其不義。……荀偃、曰、改之。……公孫舎之、曰、昭答神明、不可以改。……若改之、則是許其背盟也。」<訳> 諸侯が鄭を包囲し、和議を結ぶことになりました 。晋が作った盟約文に対し、鄭の公子が「諸侯側にも非がある」と書き足したため、晋の荀偃が書き直しを命じました 。しかし公孫舎之は「これは神の前で誓ったもの。書き直せば、鄭が後で盟約を破る口実を与えてしまう」と反対しました 。19. 呂錡(りょき)の夢と楚王の射撃【出典】 成公十六年<漢文> 「呂錡、夢射月、中之。退、入於泥。占之、曰、月、異姓之王也。射而中之、退而入泥、必死。及戦、射共王、中目。共王、使工尹、穣、以金、射、中其項、遂卒。」<訳> 晋の呂錡は「月を射抜いて命中させたが、退くときに泥に嵌まる」という夢を見ました 。占うと「月は他国の王(楚王)であり、命中させた後に泥に沈むのは自分も死ぬ予兆だ」と出ました 。戦場で呂錡は予言通り楚王の目を射抜きましたが、その直後、王の配下に首を射抜かれて命を落としました 。20. 景公の死を予知した宦官【出典】 成公十年<漢文> 「小臣、有晨夢、負公以登天。及日中、負公、出自厠、遂以為殉。」<訳> 景公が亡くなった日の明け方、ある宦官(小臣)が「景公を背負って天に登る夢」を見ました 。しかしその日の昼頃、便所の穴に落ちて亡くなった景公の死体を背負い出す役を命じられてしまいます 。さらに、そのまま景公の埋葬に際して殉死させられるという皮肉な結末を迎えました 。21. 将軍の子反と占いのやり直し【出典】 宣公十二年(邲の戦い)<漢文> 「楚子、使令尹、卜、不吉。将軍、曰、有利焉、何故不吉。且将軍、事君者也、卜以決疑、不疑何卜。改卜、曰、余、雖死、師、其克。吉。」<訳> 楚が侵略された際、宰相が占うと不吉と出ました 。しかし将軍の子反は「我々は有利な地にいる。なぜ不吉なのか」と納得せず、占いのやり直しを求めました 。「私が死んでも軍が大勝するか」と改めて占ったところ、結果は吉と出ました 。実際に戦いでは将軍は戦死しましたが、楚は勝利を収めました 。
11. 趙簡子の二度占わず【出典】 哀公九年<漢文> 「趙鞅卜戦……陽虎曰:『善。』……簡子曰:『是宜也。……去年志厲,今又志厲,必勝。……卜以決疑,不疑何卜?』」<訳> 趙簡子が斉を攻める際、部下が改めて占うよう進言した 。しかし簡子は「去年占って吉と出ている。占いは疑いを決めるためのものであり、疑いがないのに二度も占う必要はない」とそのまま出陣し、勝利を収めた 。12. 郊祭の延期と孟献子の教訓【出典】 成公七年<漢文> 「夏,不郊。……孟献子曰:『吾乃今知卜筮之無仮也。夫郊,祀后稷以祈農事也。……今茲既耕而卜郊,宜其不吉也。』」<訳> 郊祭(豊作祈願)の吉凶を3度占ったがいずれも不吉で中止となった 。孟献子は「占いが正しいことが分かった。本来、農作業の前に祈るべき祭りを、耕作を始めてから占ったのだから、不吉と出るのは当然だ」と、道理の重要性を説いた 。13. 鄭の文公と蘭のエピソード【出典】 宣公三年<漢文> 「文公妾燕姞……夢天使與之蘭……曰:『余為若女。蘭有國香,人服媚之如是。』……名之曰蘭。……穆公有疾,曰:『蘭萎,吾其死乎!吾所以生也。』刈蘭而卒。」<訳> 妾の燕姞は夢で天の使者から蘭を授かり、生まれた子を「蘭」と名付けた 。蘭(のちの穆公)は「蘭が枯れたら私も死ぬだろう。蘭のおかげで生まれたのだから」と語っていたが、晩年に蘭が刈り取られた際に亡くなった 。14. 鄭の子産と龍の戦い【出典】 昭公十九年<漢文> 「鄭大水,龍鬥於洧淵。國人請禬焉。子産弗許,曰:『我鬥,龍不我覿也。龍鬥,我獨何覿焉?……吾無求於龍,龍亦無求於我。』乃止。」<訳> 鄭で水害が起き、龍が戦っているのを見た人々がお祓いを求めた 。しかし子産は「我々が戦っても龍が見に来ないように、龍の戦いを我々が見に行く必要はない。こちらが龍に何も求めなければ、龍もこちらを煩わせることはない」と拒絶した 。15. 臧会(ぞうかい)と亀の占い【出典】 昭公二十五年<漢文> 「臧会、以其僂句、卜其仕也、曰、不誠於昭伯、其可乎、吉。……昭伯、将殺之。……会、奔季氏。……季氏、怒、遂逐昭伯。……会、曰、僂句之冠、不我欺也。」<訳> 臧会は「僂句(るく)」という名の名亀を使い、家長の昭伯に対して「不誠実な態度をとってもよいか」と占うと吉と出ました 。案の定、不遜な態度で殺されかけますが、逃げ込んだ先の季氏が昭伯を追い出してくれたため、臧会は家長になれました 。彼は「僂句の亀は嘘をつかなかった」と喜びました 。次回に続く
6. 不慮の事態への備え【出典】 文公六年<漢文> 「『備豫不虞,古之善教也。』……雖過備,他無害。」<訳> 「不慮の事態に備えよ」というのは古くからの良い教えである。準備が過剰であっても、害はない 。7. 陳の滅亡予言【出典】 昭公八年<漢文> 「陳,水屬也。……火出復復。……陳亡、楚實滅之。」<訳> 紀元前533年に陳で火災があった際、ある者が「陳は水属性だが、火の星(室宿)が巡る頃、楚によって滅ぼされるだろう」と予言した。実際、紀元前478年に陳は滅亡した 。8. 虢(かく)の神降臨と滅亡【出典】 荘公三十二年<漢文> 「神降于莘。……王曰:『何故?』内史過曰:『國之將興,明神降之,監其德也;將亡,神又降之,觀其惡也。』……虢公請命於神,神賜之土田。内史過曰:『虢必亡矣。虐而聽於神。』」<訳> 虢に神が降りた際、内史過(だいしか)は「国が興るときは神はその徳を、滅びるときはその悪を見るために降臨する」と説いた 。虢公は神に祈って土地を賜る約束を得たが、内史過は「民を虐げて神に頼るようでは滅亡する」と予言し、その通りになった 。9. 日食と叔輒(しゅくちょう)の死【出典】 昭公七年<漢文> 「六月甲戌朔,日有食之。公問於梓慎曰:『是何物也?禍福何為?』……梓慎曰:『二至二分,日有食之,不為災。日月之行也,分同道也;至相過也。其他月則為災,陽不克也,故常為水。』……叔輒哭日食。昭子曰:『子叔輒將死矣。非所哭也。』八月乙亥,叔輒卒。」<訳> 日食が起きた際、梓慎は「夏至・冬至や春分・秋分以外の日食は陽気が陰気に勝てず、水害などの災害になる」と述べた 。これを聞いて嘆き悲しんだ叔輒に対し、叔孫昭子は「泣くべきことではない、彼はもうすぐ死ぬだろう」と予言した。実際、その翌月に彼は亡くなった 。10. 南蒯(なんかい)の謀反と「黄裳元吉」【出典】 昭公十二年<漢文> 「南蒯將叛……筮之,遇坤之比。曰:『黄裳元吉。』……子服惠伯曰:『……忠信以為質,中正以為文。……夫易,不可以占險。』」<訳> 南蒯が謀反を企て占うと、「黄裳元吉(黄色い袴を履けば大吉)」という良い結果が出た 。しかし恵伯は「忠・恭・善の徳が揃ってこその吉であり、危険な企て(謀反)に占いは通用しない」と断じた 。結果、謀反は失敗に終わった 。次回に続く
1. 宋の襄公と叔興(隕石と鳥のエピソード)【出典】 僖公十六年<漢文>「十六年春,隕石于宋五,隕星也。六鷁退飛,過宋都,風緊也。……叔興曰:『君失問。是陰陽之事,非吉凶所生也。吉凶由人。』」<訳>宋に5つの隕石が落ち、6羽の鷁(ぎき)という鳥が風に煽られて後ろ向きに飛んだ。襄公が吉凶を問うと、叔興は「これは陰陽の変化による現象で、人の吉凶とは関係ありません。吉凶は人の行いによって決まるものです」と答えた 。2. 晋の景公(「病膏肓に入る」と最期)【出典】 成公十年<漢文>「公夢大厲……宣于室。……公疾病,求醫于秦。……醫至,曰:『疾不可為也。在肓之上,膏之下,攻之不可,達之不及,藥不至焉,不可為也。』……六月丙午,晉侯欲麥,使甸人獻麦,饋人之。召桑田之巫,示而殺之。將食,張,如廁,陷而卒。」<訳>景公は悪鬼の夢を見、秦の医師からは「病は膏(心臓の下)と肓(横隔膜の上)の間に入り、治療できない」と言われた。新麦を食べようとして、かつて「新麦は食べられない」と予言した巫を殺そうとしたが、急に腹が張ってトイレに落ちて亡くなった3. 呉の使者(楚王との対話)【出典】 昭公七年<漢文>「楚子欲殺呉使者。……使者曰:『……若殺臣,則呉興師伐楚。……是占い也,非為臣一人也,乃為呉国也。』」<訳>楚王が呉の使者を殺そうとした際、使者は「私が殺されれば呉はさらに攻めてくるでしょう。占いで得た吉は、私個人の命ではなく、我が国の勝利を告げるものです」と答え、難を逃れた 。4. 周の雲気の記録【出典】 僖公五年<漢文>「凡分、至、啓、閉、必書雲物,為備故也。」<訳>春分・秋分(分)、冬至・夏至(至)、立春・立夏(啓)、立秋・立冬(閉)には必ず雲の様子を記録した。災害に備えるためである 。5. 晋と楚の戦い(地雷復の卦と楚王の負傷)【出典】 成公十六年(焉陵の戦い)<漢文>「晋侯筮之,史曰:『吉。其卦遇復。……楚王、其一目。』……呂錡射共王,中目。」<訳>晋が占うと「地雷復」の卦を得た。占者は「楚王は目を負傷して敗れる」と予言。実際に戦いで晋の呂錡(りょき)が楚王の目を射抜き、晋が勝利した 。
行運で起こる病気、というのもあります。これは「疾厄宮」とは別で、四柱推命の考え方になります。『四柱推命術密儀』 (香草社刊 )の170ページ以降を見ていただくと、十干の干関係によってかかりやすい病気が列挙されています。一般にはこれを、「命式の中で」と考えがちですが、この関係は、行運の場合にも応用できます。171ページ、172ページには、癸が丙を剋せば、心臓衰弱丁が辛を剋せば、腸の病気というようなことが書かれています。命式にこうした干関係があればもちろんのことですが、行運でこういう関係が成り立った場合にも同様のことがいえます。ただ、命式は一生ですが、大運はその五年間、ということになります。ところで (話がとんで恐縮ですが )、紫薇の十二宮にあらわれた事がらは、人生の一時期である、という考え方は、ある程度「疾厄宮」にもあてはまります。こんなことがありました。関西の講習生の人に、「父の鑑定をしてください」と頼まれたので、紫薇の出生図を出してみました。くわしいことは憶えていませんが、何でも「疾厄宮」に失の「太陽」がはいっていたことだけはたしかです。そこで、「お宅のお父さんは、目が悪くありませんか」とたずねました。紫薇斗数では、「太陽」は目をあらわすからです。「いいえ。眼鏡もかけていません」というのが、相手の答えでした。「ああ、そうですか」と、その時はそれで引きさがって来ましたが、翌年行った時のことです。「先生、失明しました !」というのです。たしか、六十七歳ぐらいだったと思います。六十六歳まで目がなんでもなく、六十七歳で失明したのが、疾厄宮にでるというのが、紫薇の特徴ともいえましょう。つまり、紫薇は、人間のある一生の一部分が出るという事です。紫薇斗数は、こういう出方をすることもあるので、注意が必要です。さて もう一度、話はもどります。先の「子平の行運によって起こる病気」を考える場合、こういう応用の仕方もできます。紫薇の「疾厄宮」に「七殺」が出ているとします。「腸が悪 (弱)くありませんか」とたずねて、「いいえ」と答えられて、どぎまぎするようでは、まだ未熟です。この時、子平の命式を見て、命中に辛があり、行運で丁がめぐるような時があるとすれば、「そうですか。いまなんともないとすれば何歳から何歳までの間にその可能性があるので、注意してください」と答えられるわけです。また、そう答えて適中するはずです。さて (もう一度、さて、です )、紫薇、四柱、占卜をふまえての「疾厄」の話は以上ですが、実際に病気にかかっている場合には、占卜(もちろん命もふくめて)等で軽々しい判断をしては絶対になりません。なぜなら、「五術」の中には、「医」という分野があり、病気の場合は、「卜」よりも「命」よりも「医」が優先する、というのは、あたり前の話なのです。この点、占いをやる医者というのは、頭が狂っているとしか思えません。「命」や「卜」で出た結果に対して、投薬なり治療 (? )をするのです。命式の燥湿と体質の燥湿とは、まったく別の問題です。このことはくれぐれも肝に命じておく必要があります。こんなことでは、医者にかかる前に、「占いに興味がありますか」ときいてからでなくては、あぶなくてかかれないことになります。仮に、金寒水冷の人が温泉療法で治るどすれば、さしずめ私 (火炎土燥 )などは、寒中水泳をしなければならないことになってしまいます・・・(! )完
この「天府・天空」「天府・地劫」が「疾厄宮」にはいりますと、胆のうをわずらいやすく、またノイローゼ、精神病、夭折の危険性なども出てきます。「天府」には、廟と旺だけけしかありませんので、他星との配合がいかに重要かが、おわかりになると思います。「紫薇・天府」「武曲・天府」「廉貞•天府」と組んだ場合は、いずれも良好です。しかし、凶星 (炎鈴羊陀空劫)が同宮しますと、やはり問題が起こってきます。「七殺」の場合、旺 (旺しかありません )にはちがいないのですが、「疾厄宮」にとって、望ましい星ではありません。「七殺」が「疾厄宮」にはいると、病弱であり、また腸や痔疾をわずらいやすくなります。凶星が同宮すれば、この傾向はいっそう助長されます。「羊刃」「陀羅」などと組めば、腸の手術もあります。しかし、「七殺」の場合、凶星とだけでなく、「文曲」「文昌」と組んでも悪い、ということは頭に入れておく必要があります。「七殺・曲昌」の組合せは、もともとあまりいい組合せではないからです。「紫薇・七殺」「武曲・七殺」「廉貞・七殺」と組んだ場合も、いずれも問題があります。「七殺」が単独で、辰戌の「疾厄宮」にはいった場合は、注意する必要があります。紫薇斗数にはさまざまな流派があり、透派では「七殺」はすべて旺 (こうとった方が便利な場合が多いのです )ととりますが、たとえば、『東洋占星術』 (佐藤文栞著・久保書店刊 )の流派によりますと、辰戌の「七殺」を陥としているからです。この流派にはこの流派の根拠があるわけですから、この辰戌の「疾厄宮」は、注意してみる必要があります。さて、「疾厄宮」で一つ、誤解されやすい点がありますので、それを書いておきましょう。それは、「疾厄宮のあらわす病気にかかった場合は重大だ」という考え方です。こういう考え方をするのもむりはありませんが、これは紫薇斗数というより気学の考え方です。気学ではたしかに、三碧の人が三碧の病気 (けいれん、咳などをともなう病気。神経の病気 )にかかった場合は重病だ、死病だ、といういい方をします。しかし、紫薇斗数ではこういう考え方はしません。紫薇の「疾厄宮」にはいった星のあらわす部位というものは、「弱い部位」ということなのです。「貪狼」が「疾厄宮」にはいった人の場合、腎臓で死ぬとか、腎臓になった場合は重病だ、ということではないのです。もちろん、そういう場合もないとはいえませんが、正しい考え方は、もともと腎臓が弱いとか、腎臓病ではないが、疲れると尿にたんぱくが出る、というようなことなのです。つまり、年中わずらいやすい、というようなことなのです。ただ、行運の悪い時に「疾厄宮」のあらわす病気にかかれば、これが重病、死病につながるおそれはあります。この、行運が悪く、「疾厄宮」のあらわす病気にかかった場合、占卜で、治る、と出たとしたらどうでしょう。これは一応、治る、とおさえてよいでしょう。ただ、経過が長びく、とか、治ってもまた再発する、というようなことはあるかもしれません。これはふつうの凶運の場合で、死期にあたっている場合は、一時的にもち直す、死期が若干のびる、というような考え方をすべきです。次回に続く
「疾厄」という言葉には、二通りの意味がこめられています。すなわち、「疾」と「厄」です。「疾」とは、疾病、病気のことであり、「厄」とは、災厄、災難のことです。「疾厄」といった場合、この二通りの意味があるわけですが、ここではおもに、「疾」について述べていくことにします。さて、紫薇斗数の十二宮の中に「疾厄宮」というものがあります。この宮にはいった星の種類、星の状態で、健康状態、病気の有無、わずらいやすい部位、などを判断するわけです。この「星」には、紫薇系の星と天府系の星、そして、炎星・鈴星•文曲・文昌・羊刃・陀羅、また副星、化曜星等があります。「疾厄宮」というのは、十二宮の中でもことのほか適中率の高いものですが、とくに天府系の星がはいった場合、目を見はるようなあたり方をすることがあります。紫薇系の星は、目・耳・鼻などの顔の部位を示し、天府系の星は臓器をあらわします。いま、天府系の星を全部あげてみますと、天府星は胆を貪狼星は腎を天相星は脾を七殺星は腸を太陰星は肝を巨門星は胃を天梁星は心を破軍星は肺をそれぞれあらわしています。この臓器をわずらいやすいというわけです。つまり、「疾厄宮」に「太陰」がはいった場合、肝臓をわずらいやすいことになります。一般に紫薇斗数の場合、十二宮にはいった星の廟陥旺失は非常に大事なことですが、「疾厄宮」にかぎっては、あまりこれにとらわれる必要はありません。はいった星のあらわす部位をわずらいやすい、とすなおにおさえればよいのです。なぜなら、天府系の星の中でも「天府」と「七殺」には失陥がなく、失陥が病気というような考え方をすると、胆のうと腸をわずらう人はいないことになってしまいます。ただ、そうはいっても、失陥はやはり病気にかかりやすいことにはちがいなく、廟旺の場合は、「ふだんは健康だが、病気になるとすれば——」といういい方になるでしよう。「天府」と「七殺」について、もう少し考えてみることにしましょう。紫薇斗数における十二宮の吉凶というものは、廟陥旺失だけで決まるものでなく、あと、「星と宮の関係」「星と星の配合」があります。「星と宮の関係」からいいますと、「疾厄宮」には、「天府」は大吉「七殺」は大凶というようになります。「天府」はおだやかな星であり、「七殺」はきつい星ですから、こういうことになるわけです。しかし、「天府」には、毛ぎらいする星の配合というものがあり、とくに「天空」と「地劫」がこれにあたります。もちろん「炎星」「鈴星」「羊刃」「陀羅」などとの組合せも悪いにはちがいないのですが、それ以上に「天空」「地劫」と組んだ場合には悪いことになります。「天府」のよさが殺されてしまう、ということです。以下次回に続く