―― もしものときに備えて食糧は多めに確保しておくこと。

 

暇つぶしに読んでいた『宇宙クルーズガイド』にはそんな注意が記してあった。
表紙にアステロイド横断太陽帆船ヨットレース協会のロゴの入った小冊子である。

退屈この上ない小言みたいな注意事項がぎっしり書き込まれた小冊子で、当然のことながら全く読んでいなかったのだが、遭難してしまった今となっては頷けることがいろいろと書かれてあった。

 

―― ペットの持込は厳禁です。宇宙では水と食糧は貴重品なのです。

 

「みゃー」
ゴンロクが憐れな声をあげて、僕の注意をひこうとした。

腹が減っているのだ。
だいたいゴンロクの好物のかに缶を大量に積み込んだのが拙かった。替わりに緊急用の濃縮食材を積んでおけばよかったのだ。
 

「わかったよ」
鳴き声をあげ続けるゴンロクと、先ほどから無視していたがやはり鳴り続けている自分の胃袋の要求に折れて僕は我慢して残しておいたかに缶のプルトップを開けた。
 

ゴンロクがダッシュでやってくる。
ゴンロクの専用皿に半分だけ中身を出してやる。高級品だけあって哀しくなるくらいに量が少ない。
 

「最後のひと缶なんだからな、味わって食えよ」
2日ぶりになる食事は、猫の餌を半分くすねるという惨めなものになった。

猫用とはいえかに缶は今まで食べたどんなものよりも美味かったが、あっという間に無くなってしまう。
 

気づくと、ゴンロクが足元に頭を摺り寄せてきていた。

「もっと寄こせ」ということらしい。仕方ないので、ほんの繊維数本分だけが端にこびりついている缶を床に下ろしてやった。
ゴンロクは僅かに残ったそれを胃袋に収めようと突撃したが、斜めになったふたに頭が当たってしまって隙間に頭を突き入れようとする度に缶を前にやってしまい、ついには延々と追いかけっこを始めた。
 

やっているうちに楽しくなってしまったらしい。

頭を突っ込んで前に滑らせては素早く前脚で薙ぎ払い、また頭を突っ込んでは薙ぎ払いを繰り返す。
馬鹿め、そんなに動いたらカロリーを消費しちゃうだろうが……。もう食い物は何も残っていないというのに。

 

 ※

 

―― 必ずクルーの内の1名は、10回以上の太陽帆船操縦経験者が入ること。

 

「太陽帆船のレースに出てみない?」
シャリア=マクリーンからそんな誘いを受けたのは、彼女とようやく初めてのデートにこぎ着けたときだった。
 

「太陽帆船?」
無理して予約を入れた本格フレンチで食前酒を飲み始めた時のことで、僕はマニュアル本を思い出すので一杯一杯だったので(あっ、くそっ、食前酒の銘柄はばっちりだったのに、ワインの銘柄を忘れてしまいそうだ)上の空でシャリアの話を聞いていた。
「ええ、今度パパの都合がつかなくて出られないから、私が使ってもいいって言っているの」
シャリアの父親は恒星間貿易の会社をいくつも所有している金持ちである。
 

「シャリアは操縦できるの?」
心の中でワインの銘柄を暗誦しつつ僕は尋ねた。
「もちろん。子供のときから乗っているもの」
それについて褒められるのが好きなのだろう。シャリアが美しい顔を輝かせた。
「そうなんだ……」
いけない、つい見惚れてしまった。どきどきする鼓動が脳に響いてきて、ワインの銘柄が違う名前になってしまったような気がする。
 

「それでね、今度……」
シャリアの唇から視線をはずせなくなった。
僕は相槌をうつのがやっとの有様の中で、彼女の提案――1ケ月後にアステロイド帯の一角で始まる太陽帆船のレースに参加することを承諾していた。

だって、シャリアと1週間も一緒にいられるんだから断れるはずがないではないか。
結局、ワインの銘柄はシャリアが頼んだ。それは、僕の精一杯の知識を吹き飛ばすぐらいの仰天すべき値段だったが、宇宙旅行代と思って諦めることにした。

 

確かにシャリアはやる気満々だった――
あまりに張り切りすぎて出航間際になって熱を出してしまうほどに。

 

「ごめんなさい、ゴンロクに宇宙を見せてやって」
シャリアの繊細な手が僕の手に重ねられて、熱で普段の5割り増しくらいに潤んだ瞳が僕を捉えた。
 

「でも……」
僕は3日間即席の講習を受けただけである。
もちろん、スペースアカデミーの生徒であるからには宇宙についての基礎知識を有してはいるが、シャリアがいないのに1回も乗ったことのない太陽帆船でたった一人、猫を相棒に1週間に及ぶ航海をする理由が見つからなかった。
 

「お願い、私、ゴンロクと約束したのよ、宇宙に連れて行ってあげるって」
シャリアが涙ながらに訴えた。ああ、だめだ、逆らえる訳がない。
ゴンロクが宇宙へ行きたいなどと思っているはずはなかったが、シャリアがそう願っているのだからしょうがない。
「分かったよ、ゴンロクには僕が宇宙をみせてやる」
そうして、僕は安請け合いをしてゴンロクと宇宙にやって来た。

 

―― 余計な操作は厳禁です!

 

太陽帆船の操作はひどく簡単だった。
僅かに宇宙を吹きぬける太陽風に的確な角度で帆を向ける、言葉にすればそれだけである。

今回はまがりなりにもレースであったので、幾つかのアステロイドがつくりだす太陽風の乱れを考慮に入れる必要があったが、優勝を目指しているわけでなし、搭載AIに全て判断を任せておいて何の問題もなかった。
加えて、シャリアの父親のヨットは金持ちのものだけあってとても豪華で、操縦室と居住区には人口重力が床から発生しており、することといえば定期的に確認を繰り返す自動操縦コマンドの継続に了承の答をかえすぐらいなものだった。

 

旅を始めて数日の間、ゴンロクは滅法機嫌が悪かった。
そりゃあそうだ、いきなり自分の領土から連れ去られて、それなりに豪華な丁度類が備えつけられているとはいえ、お日さまもなければ風もない狭い船室に閉じ込められているのだから致し方ない。
だいたい、猫が宇宙を見て喜ぶ理由などないのである。シャリアには口が裂けてもそんなことは言えないが。
 

それでも何日かすると、猫のこと、餌を与えてくれる人間に邪険にするのは拙いと思い直したのか、それなりに友好的な態度を見せるようになった。
そしてそれにほだされて、狭い船室だけに閉じ込めておくのが気の毒になり、仏心を出したのが運のつきだった。

 

「あんまり余計なものに触るなよ」
船室よりは若干広く、好物の物陰も幾分か余分に存在する操縦室にゴンロクを放してやる。
少し警戒はしたものの、すぐに新しい住処を探検し始めた。

 

事件が起こったのは間もなく退屈な航海が終わろうかというその日だった。
太陽フレアの暴発で発生したちょっとした嵐――普通の宇宙船ならほとんど気づかないようなレベルの宇宙嵐だった。
緊急事態を告知する警報が操縦室に鳴り響いて異常を知らせ、船室で浅い眠りの中にいた僕をたたき起こした。
僕は、スペースアカデミーでの訓練宜しく飛び起きて操縦室へすっ飛んでいった。しかし、何故か警報は僕がそこに辿り着く前に切れた。
そして――どういうことだと頭をひねりながら飛び込んだ操縦室のコンソールの上では、僕に代わって警報を停めたゴンロクがアクビなんぞをしながらこちらを見ると、暢気に「にゃあ」と鳴いた。

 

最初、ゴンロクが何をしたのかに気づいていなかった。
太陽帆の向きが設定していたはずのものと違っているのに気づいた頃には全てが遅かった。
ゴンロクが警報に慌てて飛び上がったコンソールのディスプレイはタッチパネルで、うかつな僕は自分以外ゴンロクしかいないこの船で、掌紋管理システムを使用していなかった。
太陽嵐が船を襲ったとき、圧力を逃がすべく作動すべきだったシステムは、ゴンロクの前脚の命令に従って見事に圧力を一杯に受け取るように変更されていた。

 

ようやくそれに気づいたとき、どう航路を補正しても、太陽風以外に推進装置を持たないこの船では、最寄の宇宙港まで1月ほどの気の遠くなるような時間が必要だった。

 

―― もしもトラブルが起こった場合には素早い報告を。

 

この失態をどう報告すべきか――思い悩んでいるうちに1日を過ごしてしまった。

仮にもスペースアカデミーの英才であるはずの自分が、こんな簡単な船の操作すら満足にできず救援を呼ぶなど出来かねたのだ。

シャリアの笑顔が浮かんでは、通信機に伸ばしかけた手を止めた。
 

不幸は連鎖する。
僅かに船に衝撃が奔った。またもや警報が鳴り響き、あろうことか微細隕石が船を掠めていった。

進路がずれたためいつの間にか警戒を要すべきエリアに入り込んでいたらしい。
幸い船体に大きな損傷はなかった――ただひとつ通信用のレーザー発信機が直撃を受けて修理のしようのないほど完膚なきまでに壊れてしまったことを除けば。

 

 ※

 

―― 最悪の事態でも決して生き延びることを諦めてはいけません。

 

最後のかに缶を開けてから、更に3日が過ぎようとしていた。

僕はともかく、ゴンロクに対するシャリアの愛情が大捜索を行わせているはずなのだが、救助船が現われる気配はなかった。

自力航海での寄航には、まだ一週間以上の時間が必要だった。
僕もゴンロクも空腹は限界に近づきつつあった。

ゴンロクは、あれからもずっと僕に擦りよってきていたのだが、やるものなど何もなかった。今日からは、航海の最初に戻ったようにまた僕との距離を置いていた。

 

ふと、目があった。
懸命に考えまいとしていた悪魔の考えがたちまち僕を虜にして、ゆらりと僕は立ち上がった。

 

「ほら、ゴンロク、餌だぞ」
ゴンロクが遊び飽きた後で回収しておいた最後のかに缶をポケットから取り出した。
ゴンロクはこちらを見据えたまま動かない。
「ほら、食えよ」
少し前で止まって、かに缶を床に置いた。ゴンロクがゆっくりと身体を起こした。

 

勝負は一瞬のことだった。
頸ねっこを摘み上げようとした僕の右手をかいくぐって、ゴンロクは見事なダッシュを仕掛けると前足による鋭い一撃を頬に見舞ってきた。
一撃離脱、そのまま攻撃を続けて体力に優る僕に捕まる愚を冒すことなく素早く機械の隙間に逃げ込んだ。

 

更に半日が過ぎ、僕の空腹は限界に達していた。
もはやゴンロクは僕の声に反応することもなくひたすら姿を隠している。あのあと、二回ばかり見つけ出したのだが苦もなく逃げられた。

 

左頬に刻まれた傷が酷く痛んだ。
意を決して、僕はコンソールを操作した。

 

「にゃーっ、フーッ、フーッ」
ゴンロクだった。

突然の無重力に曝されてパニックに陥っている。
壁を蹴るとそっと後ろから空を滑って、今度はミスることなくその頸ねっこを捕まえた。

 

「悪いな、こんなところで死ぬのは嫌なんだ」
ゴンロクを掴まえたまま、コンソールに戻って重力を戻した。
さて、どうやって食べたらいいんだろうと考えていた。もはや、ゴンロクの命によって自分の命を繋ぐことに躊躇いはなかった。

 

「すぐに楽になるからな」
光線銃の出力を最小に絞ってゴンロクの頭にあわせた。
ゴンロクが「みゃあ」と力なく鳴いて僕を哀しげに見上げる。
驚いたことに、その哀願には鬼畜に落ちたはずの僕を戸惑わせるだけの魅力があった。

 

―― 決して退屈なだけの旅ではないはずです。宇宙をお楽しみ下さい。

 

結局、ゴンロクの哀願は彼の命を救った。
いやっ、心を鬼にしなくてはと、僕がトリガーに力を込めかけたその時に、レーダーに船影が映ったのだ。
安堵のあまりふと手が緩んで、ゴンロクは身を捩って空に逃れると、見事な着地の後一目散に隠れ家へ向かった。


シャリアとはあれっきり会っていない。
僕は事故について軽率な判断があったことを厳しく叱責されていて、失点を取り戻すために懸命で、女にうつつを抜かしているどころではなかった。
まあ今にして思えば、彼女のどこにあれほど夢中になっていたのかもよく思い出せないので別段問題はなかった。

 

ただ、ゴンロクにはもう一度会ってみたい。
ゴンロクとは命のやり取りを共にした戦友であり、二人で腹いっぱいかに缶を食い散らかしてやりたいではないか。