「ちょっと遊んでいきません?」
昨年から手がけていた大手企業向けのシステム構築がようやくひと段落ついて、部下を連れて夜の街に繰り出した。久しぶりに馴染みの店を何件かはしごしているうちに、ふと気づくとひとりになっていた。
路地裏の薄汚れたビルの壁にもたれながら、まったく遊び方を知らない奴らだと、きっと私の勢いに恐れをなして逃げてしまったに違いない若い連中のふがいなさを愚痴っていると、不意に横合いからそんな声をかけられた。

 

声に顔を上げると、髪を結い、高そうな着物をしゅっと着こなした女がすぐ傍で艶然と微笑んでいた。少し齢はくっているが、歳の分だけ艶やかさに磨きがかかった、思わず酔いが吹き飛ぶようないい女だった。

 

「遊ぶ?」
警報が最大ボリュームで鳴り始める。こんないい女が、何の下心もなしに誘いをかけてくるなんてありえない。

 

「やだ、そんなに脅えなくったって大丈夫ですよ。いえね、私の店がこの近くにあるんですけど、少し飲んでいきません?」
そう言うと、女はすっと私の脇に腕を入れると、ふっと耳元に熱い息を吹きかけながら言った。それから腕は絡めたまま、少し身体を離し濡れた瞳で私を見上げる。
「可愛い娘がたくさん待ってますよ、ねっ、いらして」
警報は依然として大音量で鳴り続けていたが、さきほど囁かれた耳元は熱を帯びたように熱く、瞳が写る距離でそう言葉を紡ぐ紅い唇に抗う術はなかった。

 

 ※

 

「ここなんですよ」
どこをどう歩いたのか、ぴたりと寄せられた女の身体に意識がいってしまったせいか、よく知っているはずの歓楽街なのに、女に連れられるままに歩いて店に辿り着いたころには、自分がどこにいるのか皆目見当がつかない有様だった。

 

絡められていた女の腕が外れ、細かな細工の施された木製のドアが開かれる。
「ようこそ、一夜限りの楽園へ」
一旦離れた女の腕が再びすっと私の腕を捉えると、そんな言葉と共に、女は私を開かれたドアの中へと誘い込んだ。

 

 

 

 

どうも、先ほどから頭がうまく情報を整理できていなかった。
夢なのだろうか? 気がつくと、身体がどこまでも沈みこんでしまいそうなふかふかのソファーに座らされて、いつの間にか、何人もの女の子達に囲まれていた。それも、先ほどの和服美人に負けず劣らずに魅力的な、肌の色も髪の色も様々な国籍不明の美女ばかりがとびきりの笑顔を浮かべながら私の周りを囲んでいる。
「いったい……」
さすがに不安になって見回すと、頭上の巨大なシャンデリアに照らし出された私の座っているテーブルの周囲を除くと、まるでグレイの靄でもかかったように視界の利かない不思議な部屋に私はいるのだった。
「心配要らないのよ」
右横に腰掛けている先ほどの和服美人が、中腰に立ち上がりかけた私を座らせると、その白い掌を膝の上に載せた。
「今日はあなたの貸切だから、思い切り飲んでくださいな」
先ほどと同じように熱い息とともにそう耳元に言葉をかけられると、何も考えられなくなった。

 

 ※

 

「何をお飲みになります?」
膝にのせられた掌が太腿をゆっくりとなぞっていく。どうにかなりそうだった。
「……ビールを」
生つばをひとつ飲み込んで答えた。ひどく喉が渇いていた。こんなときは、ぐっと冷えたビールを飲み干すに限る。

 

「はーい」
そういって、私の左側にやってきたのは、そばかすがある為かどこかあどけさの残る美女で、素晴らしく豊かな胸が目の前で揺れた。
「ご指名ありがとうございます」
そばかす美人は、まるでキャバクラであるかのようにそう言うと、にこっと笑い、笑ったままの顔を近づけ私の頭に手を廻すと、いきなりキスをしてきた。
「なっ……」
言いかけた唇をふさがれる。私がただ驚いて何もできないでいるうちに、熱く柔らかな舌が伸びてきて私の口をこじ開けた。
ぐいっと、顎を持ち上げられるような感覚があって、それから驚いたことに冷たいビールが口の中に流れ込んだ。

 

「驚いた……」
ごくごくと流れ込んでくるビールは凄まじく旨かった。不思議なことに口を塞がれてビールを流し込まれているはずなのに、飲んでいるうちは息がまるで苦しくならない。
私がビールを存分に飲み干し満足すると、ゆっくりと流れ込んでくるビールは無くなり、そばかす美女は最後にそっとソフトなキスを寄越して、唇を離した。

 

「あら、お気に召したみたいね。よかった」
あまりの出来事に混乱して呆けていると、和服美女がまたも耳元で囁いた。
「いったい、どうやって……」
どうやればあんなことが出来るのだろう?
「知りたい?」
膝に置かれていた手が伸びて私の顎をそっと捉える。濡れた双の瞳が妖しく私を射抜いた。
「ああ……」
あいかわらず靄のかかった思考の中で私は答えた。

 

「こうするの」
言いながら近づいてきた唇が、先ほどと同じように、私のそれに合わさって、同じように熱く柔らかな舌が私の口をこじ開けた。
そして今度は、先ほどのビールのように勢いよく流れ込んでくるのではなくて、ゆっくり愛撫するように、まろやかで芳醇な味わい深い日本酒が口の中に広がった。
ひとしきり、その得がたい味わいを堪能する。
「お分かりになって?」
私が充分に満足すると、唇が離れる感触があって、和服美女の手がそっと顎を離れ、また私の膝の上に戻った。
「さっぱりだ。……だが、旨い。こんな旨い酒を飲むのは初めてだ」
正直どうでもよくなっていた。ありえない出来事であることは理解していたが、たとえ夢の中であるにせよこんなに旨い酒を飲んだのは初めてだった。
「そう、それでいいのよ、今晩は存分に楽しんでね。皆あなたにお注ぎするのを楽しみにしているんだから」
和服美女がそう言い、周りの美女達が華やかに笑い声を上げて賛同した。

 

 ※

 

「次は、君がいいな」
それからはもう、ブレーキの壊れた機関車も同然だった。
ワインレッドのドレスに身を包んだ気品溢れるレディからは飲んだことも無いような上品な赤ワインを、チャイナドレスの子供っぽい女性からはその外見に似合わぬ成熟した老酒を、鮮やかなピンクのパーティドレスのスリムな娘からは爽やかなシャンパンを、スコティッシュの伝統衣装の女性からは成熟した薫り高いスコッチを、次から次へと注がれる度私はそれを満足いくまで飲み干した。

 

「あら、偶には私も思い出してくださいよ」
彼女だけはずっと右隣に座っている和服美女がそう言うと、世界中の美女達にうつつをぬかしている私をそっと振り向かせると、ひと際馴染むその唇をあわせては都度違う日本酒を私に注ぎ込んだ。

 

 ※

 

「ああ、いい気分だ」
随分色々な酒を飲んだ。不思議なことに幾ら飲んでも、気持ちの良い酔い以外には、満腹感も眠気も襲ってはこなかった。
「満足していただけたかしら?」
ようやく随分と満足した私が女の子の指名をとめて一息つくと、和服美女がそう尋ねた。
「ああ、こんなに愉しいのは初めてだ。よかったよ、こんな思いが出来て」
そう答えてから、さっきまで賑やかに騒いでいた他の美女達の姿が消えていることに私は気づいた。
「そう、少しはご恩返しが出来たかしら」
和服美女の手が膝の上からそっと離れると、消えた美女達を探そうとした私の顎を捉えて、自分の方を向かせた。
「恩?」
いったい何のことだろうか?
「いいえ、何でもないわ、さあ」
一瞬、和服美女は悲しげに微笑んで、それからまた唇を合わせてきた。ゆっくりと口腔の中に豊かな味が広がっていく。
落ち着いたとてもよい気分になって、私はどこまでも広がっていく酒の味わいの中についに意識を溶かし込んだ。

 

 ※

 

「何でも、もう飲んじゃいけないって医者に言われてたらしいな」
「ああ、だから課長が気を利かしてさっさとタクシーに乗せたのにな。結局ひとりで飲んで、発作起こして路地裏で倒れてたらしい。折角、プロジェクトも軌道に乗ってこれからって時に……」
「そうだな。でも、部長の顔見た?」
「ああ、もの凄く満足そうな顔してた」
「ありゃ大往生だろ。人生に悔いなしって顔だったよ」
そのとき、丁度弔問客が途切れてひそひそと言葉を交わしていた受付係りの二人の前に、着物の喪服をしゅっと着こなした艶やかな女性が立った。

 

「この度は……」
「恐れ入ります。こちらの方にご記帳を」
女性が礼をし、受付係が姿勢を正して礼を返す。
「そんなに満足そうでした?」
女性が筆ペンをとって、記帳しながらそう聞いた。
「えっ?」
「あら、ごめんなさい。さっきの話がつい聞こえてしまったものだから」
もう書き終えたのか、女性は顔を上げるとそう言った。
「ええ、あんなに穏やかな死に顔をみたのは初めてです」
見ていると吸い込まれそうな濡れた目で尋ねられて、思わずどきりとしながら受付の一方の男性が答えた。
「そう、それはよかった」
そう言って、女性は深々と頭を下げた。

 

――ひゅぅ
女性が立ち去った後で受付係りの片方が小さく口笛を鳴らした。
「いい女だなぁ、誰だか知ってる?」
「いや、始めて見た。部長顔広そうだし、銀座かどっかのママかな」
「……あれ?」
「どうした?」

 

受付係の一人がもう一人に指し示したさき、先ほど女性が書いていたはずの場所は空白のままだった。
ふたりは思わず顔を見合わせ、それから慌てて女性の後姿を探したが、そこにはもう誰もいなかった。