降り掛かる危機の中で、あるいは九死に一生を得た中で、人は何を思うのだろうか。宮城県東松島市に、約3メートル四方の板に乗ったまま東日本大震災の津波に流された夫婦がいる。震災から2カ月。生き延びた後の歓喜と絶望、後悔を経て、2人は自らの体験を若い世代に語り始めた。(藤田杏奴)
◎あの日/ごう音・衝撃、四つの橋くぐり抜け/上流7キロの土手に立つ
<避難迷う>
安倍淳さん(52)、志摩子さん(49)夫婦が経営する潜水土木工事会社と自宅は、鳴瀬川河口から歩いて数分の東松島市野蒜新町地区にあった。3月11日午後2時46分、2人は事務所で地震に遭った。
揺れが収まるとまず、同居する淳さんの両親を裏山へ逃がした。淳さんは船や機材の被害を確かめようと保管場所へ向かった。志摩子さんは気持ちが落ち着かぬまま、近所のお年寄りの家を訪ね、安否を確かめた。
地震発生から約1時間。「逃げた方がいいんじゃないかな」。2人が自宅の玄関先で迷っていた時、地鳴りのような低い音とともに、海ではなく鳴瀬川から津波が押し寄せてきた。
とっさに淳さんは会社事務所に、志摩子さんは自宅に駆け込んだ。水はすぐに1階天井に達し、それぞれ2階へ急いだ。建物が基礎から浮き上がり、周辺の住宅と共に鳴瀬川支流の吉田川を逆流した。
<手つなぐ>
途中で事務所と自宅が接触し、屋根の部分がつかの間つながった。淳さんは事務所の窓から体を乗り出し、自宅ベランダでぼうぜんとする志摩子さんに「こっち来い、こっち来い!」と叫んだ。
2人の距離は3、4メートルあった。「怖かったけれど、お父さんの力持ちの手に触れば大丈夫だと思った」。志摩子さんは思い切って屋根を渡った。伸ばした手を淳さんががっちりつかみ、導いてくれた。
事務所2階には偶然、船舶が備える緊急脱出用の保温防水スーツが2着あった。淳さんはまず志摩子さんにスーツを着せた。「死んでも体が浮けば、見つけてもらえる」と覚悟していた。
淳さんが下半身までスーツを着た時、ごう音と衝撃に襲われた。志摩子さんは思わず伏せた。顔を上げると、屋根や壁はなくなり、4畳半ぐらいの床板だけが残っていた。川の上流に猛スピードで運ばれる途中、JR仙石線の橋に衝突したとみられる。
淳さんは近くに浮いていた。志摩子さんが床板のいかだに引っ張り上げたが、淳さんは「これが津波なのか? 事務所なのか?」とつぶやくだけだった。事務所が大破した衝撃で負傷したようだった。
行く手には国道45号の鳴瀬大橋が迫っていた。橋脚にぶつかればひとたまりもない。橋桁と水面の隙間は1メートルもなかった。
「神様、お願いします」。志摩子さんは淳さんを抱えるようにして伏せ、橋桁すれすれを通過した。その後も3カ所、橋の下をくぐり抜けた。
負傷した淳さんの震えは止まらなかった。体をさすりながら、志摩子さんは「大丈夫、助かったよ」と励まし続けた。
<「大丈夫」>
「津波に流された でもパパと無事 事務所の床にのってる 船みたい さむいけど大丈夫」
流されながら志摩子さんは次男(22)へ携帯電話からメールを送る冷静さを保っていた。
次第に流れが緩んできた。淳さんはもうろうとした中、「引き潮が来る」と直感した。2人は川に浮かぶがれきや流木の上を転がるようにして土手にたどり着いた。「大丈夫かー」。対岸で消防団員が叫んでいた。
上陸地点は事務所と自宅から吉田川を約7キロもさかのぼった松島町内だった。
「川の土手にあがった 大丈夫 心配しないで」
午後4時33分、志摩子さんは再び子どもたちにメールで無事を知らせた。
◎記憶鮮明なうちに…/津波襲来、スケッチ続ける
<負傷で入院の夫>
淳さんは入院中、津波に流され、上陸するまでの出来事や津波に襲われる前の自宅をスケッチに描いた。「記憶が鮮明なうちに何かを残さなければならない」。食事中も眠れない夜も、その時の映像が浮かぶたびに鉛筆を取った。
社員は連日、消防団員とともに行方不明者の捜索を続けていた。保健師の資格を持つ志摩子さんは避難所で被災者の健康管理に当たっていた。どの病院も満杯で、大けがをしても入院できない人がいると聞いた。
「みんなが大変な時に、肋骨を治すぐらいでここにいていいんだろうか」。焦燥感を抱えながら、ひたすら描き続けた。
淳さんが描いたスケッチの一部を紹介する。
◎2ヵ月後/何をどう頑張れば/防災の教訓守れなかった/苦悩超え語り継ぐ決意
<戻れない>
淳さんは肋骨(ろっこつ)にひびが入り、頭や耳にも裂傷を負っていた。大崎市鹿島台の病院に約2週間入院した。
鹿島台に一軒家を借り、自宅兼仮事務所にした。仕事に必要なパソコンのほか家具、衣類は友人が用意してくれた。
社員6人は野蒜地域で行方不明者を捜索した後、東北各地の港湾の点検や復旧に向かった。社長としての仕事は山積みだった。「助かった命を役立てたい」という使命感に突き動かされていた。
3月下旬、震災後初めて東松島市の自宅と事務所の跡地に立った。260世帯が住んでいた集落は、ほとんどが家の基礎を残すだけになっていた。
思い出の詰まった自宅、1人で興し、30年かけて広げてきた会社。水中調査ロボットなど1億円以上の機材も失った。「もう、昔には戻れない」と痛感した。
親類や友人にも犠牲者が出た。かわいがってくれた叔母が宮城県女川町で津波に流され、たどり着いた建物の中で2昼夜を過ごした後、淳さんら親しい人の名を呼んで息を引き取ったことを知った。
<後悔抱え>
もう、生還の喜びはなくなっていた。「生きていてよかったね」。周囲の励ましを素直に受け取れない。「頑張ろう」と自分に言い聞かせても、「何をどう頑張ったらいいのか分からない」。絶望感にさいなまれた。
志摩子さんも悔いを抱えていた。8年ほど前から、津波への備えを題材にした紙芝居の朗読ボランティアをしていた。地元の小学生には「大きな地震が来たら、すぐ高いところへ逃げるんだよ」と読み聞かせ、夫婦で着衣泳も教えていた。
「そんな自分たちが逃げずに津波に巻き込まれてしまった。避難を呼び掛けて、津波が来るまでの1時間を生かすべきだったのに」。子どもたちに恥ずかしかった。
新町地区では1960年のチリ地震津波の経験から、住民の間に「津波は鳴瀬川の方をさかのぼり、新町には来ないから大丈夫」という意識があったという。実際、地震のたびに津波警報や注意報が鳴ったが、大きな被害を伴う津波が来たことはなかった。
東松島市が住民に配った津波防災マップでは、周辺の浸水被害は「0.5メートル未満」と想定されていた。志摩子さんは揺れの直後に「6メートルの津波が来ます」という放送を聞いたが、「大変なことというイメージが湧かなかった」と振り返る。
<海を知る>
そんな2人に転機をつくってくれたのは、聖和学園高(仙台市若林区)の女子ハンドボール部の部員たちだった。昨年、合宿で事務所に泊まった縁で、「お世話になった場所がどうなったかを見せて、津波の恐ろしさを伝えてほしい」と頼まれた。
夫婦は4月17日、部員やその家族20人と一緒に、再び自宅と事務所の跡地に立った。
「ここに来るのはとてもつらい。でも、みんなに何かを感じてほしい」。淳さんはありのままを話し始めた。「おじさんたちはたまたま助かった。でも、津波が来る前にすぐ逃げるという約束を守らなかった。同じように逃げないで亡くなった人がたくさんいるんだ」
2人はこれからも、あの日、何があったかを伝えていこうと決めている。「二度と同じことが起きてほしくないから」
野蒜出身の淳さんにとって、海は遊び場であり、大人になってからは職場だった。震災後は「大好きな海に裏切られたような気がしていた」という。
部員たちに自宅の跡地を見せた後、一緒に海岸沿いを歩いた。風が潮の香りを運んでくる。目の前に広がる景色は何も変わっていなかった。
「津波の怖さを含めて、海をもっと理解していきたい」。今はそう思えるようになった。
これは
あるご夫婦の体験を新聞より載せました
それから、
お友達の福岡のボランティア活動は今日も宮城野区へ行ってくれてます
二ヶ月がたち泥も固まり大変だったみたい…
ありがとうございます
昨日は車がね車検でないから
会いに行けなかったけど
今日はいけるかなぁ…
こちらに来て寒いのではないかと
心配していたけど大丈夫よって
元気な声で答えてくれてました
彼女…浅香唯ちゃんに似てるんだよ

では
今日もまんまるです


