大変長いインターバルで御座いましたが、久しぶりに更新致します。



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今日は、東日本大震災から半年、アメリカでの同時多発テロから10年という日であった。


私は、偶然にも3月の地震発生直前にアフガニスタンから日本に帰国していて、

地震発生直後から東日本大震災の緊急支援の一員として支援に加わることが出来た。



アフガニスタン便り-南三陸花火03

         写真1:南三陸町で行われた花火大会にて

これまで8年間行ってきたアフガニスタンでの支援活動と、

東北地方での支援活動、

どちらの現場においても、

自分の働きが効果的に何かに貢献できたとは思えない。後悔も多い。

しかし、

『何かできることをしたい』という、

たくさんの人が抱いたのと同じ気持ちを

そのまま実行に移すことが出来る仕事に就いていたことは、

普段では有難い縁、得難い廻りあわせを私にもたらしてくれた。


10年前、

9・11の同時多発テロが起きたことを知ったのは、

アフリカのシェラレオネで働いている時であった。

勤務地の一つである難民キャンプから事務所に戻ろうとした時に、

現地スタッフから教えられ、

事務所に戻ってテレビを観た。

当時、衛星放送が映るテレビは余りなく、

各国のNGOスタッフが徐々に私のいる事務所に集まってきて、

アメリカ人、フランス人、イギリス人らと一緒に観た。当然皆、言葉はなかった。


そしてこの2011年3月11日、アフガニスタンから帰国して4日後、

ミーティングに出席するために出社していた30分後に、地震が発生した。

すぐに準備を始めて出動した。


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私は、大学生となってから約11年間、岩手で暮らしていた。

正直なところ、良い思い出しかない懐かしい土地である。

私のような、全くパッととしない人間に対して

”東北”と言う言葉で表象される得体の知れない茫洋としたあたたかい主体が

―その主体というのは、その時期に知己を得た友人をはじめ、

友人の御両親やアパートの大家のおばあさんに至るまで、多くの人についての記憶で構成され、

街やら山やらまでもが含まれている気がする―

それとない心配りで私を養生してくれたような

そんな有難さと結びついた懐かしさである。



そんな、恵まれた、としか言いようのない11年間、

”東北”という慈愛に満ちた場のなかで、

パッとしない私なりに思い巡らし、思い定めた結果、

国際支援の仕事に就くことを決め、

岩手を離れた。

それから、幾つかの国で働いて、

そして今回の震災で東北に戻ってきた。

おそらく多くの人が過去を振り返る場合と同様、

私にとっては、

岩手での日々からインド・シェラレオネ・アフガニスタンの日々まで、

すべての記憶が

地続きの連続性の中にある。


そんなわけで

原始宇宙のように未分化な私の脳みその中では、

シェラレオネ、アフガニスタン、東北というのが、

全く全てが分かち難く繋がった塊となっている。

何と言えばいいのだろう、

例えばアフガニスタンについての記憶を手繰ろうとすると、

結局、シェラレオネや東北についての記憶も一緒に蘇ってしまう有様である。

それらの記憶は、

頭の中の同じ抽斗に仕舞うしかないような、同じカテゴリーに属する記憶であり、

未生已然とも言うべき同一感覚でしかくくり様がない、記憶の一群と言えるかもしれない。

自分の記憶さえ整理出来ないという低能さを示しているようでもあるが

それが私の実感である。


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今日のブログでは、
ブログを更新していなかった、2010年7月から今日までの期間、

1年余りについてのご報告を中心に述べたいと思う。


この期間は、私にとって非常に目まぐるしい期間であった。


時系列で述べると、

まず、2010年夏以降から2011年年始までは、

依然治安悪化が続いていたアフガニスタン北部において、

私はPWJ現地代表として、また唯一の日本人スタッフとして

これまでどおり水資源調査事業を中心に業務を遂行していた。

反政府勢力の動静は、日々変化を見せ、

それを如何に業務計画に反映させるかに心を砕く、

慌ただしい毎日であった。


そして、2011年の1月6日、

反政府勢力によってPWJ車両が攻撃され、

現地スタッフが大けがをする事態となった。

幸い、スタッフは一命を取り留めたが、

それは幾つかの幸運が重なってのことであった。

そして、この事件を受けPWJ東京本部は、

アフガニスタン現地事務所閉鎖の方針を決定した。

事業計画は大きく退行することとなった。


(なお、これまで行ってきた水資源調査事業については、

近い将来に予定されている私のアフガニスタン再訪で、総括されて終了となる計画であるから、

事業自体はまだ継続している状態である。)


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事務所閉鎖が決定された当時、私としては複雑な思いであった。


PWJがこれまで、

顕著となっていた治安悪化傾向を考慮した上で事業遂行という選択をしてきた以上、

今回の事態は、PWJとして”想定内”であったはずだから、

事務所閉鎖という判断は、私個人としては不得要領な決定であった。


更に言えば、

怪我をしたスタッフを含め、現地スタッフ全員が事務所を閉めることに反対していたから、

撤退という判断を裏付ける理由は、現場には希薄であった。

だから、

突然の撤退を現地スタッフに納得してもらうために何度も開いたミーティングは、

結局、説得力を欠いた一方的な通達の場にしかならなかった。

現地スタッフに撤退の説明をしているときの私にとっては、

アフガニスタンでの水資源管理についての展望や願望について

これまで何度も語り合ってきた現地スタッフに対して

PWJ側の都合で事業を中止するための苦しい弁解の場であり、

同時に、私自身をも強引に納得させるための儀式のようでもあった。



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アフガニスタンでの8年間は

私にとって掛け替えのないものであったが、

同時に少なからぬ疲弊ももたらした。


アフガニスタンでの8年間では
現地での生活での事象全てが、

五感の全てを刺激しながら、

好悪の範を超えて昼夜を分かたず私に押し寄せた。

現地の人々の日々の生活から、頻発する血みどろの事件に至るまで、

全ての事象に常に近接している、生命についてのまなざしが

言わば実存的に私に肉迫し

それは確かに、

未熟な私にとっての全人格的な研鑽となり、心に果実として充牣した(と自分では思っている)。

そして、私のアフガニスタン観は、

生き生きとした形でそれまでの私の世界観を飭正した。

支援についての考え方から、

共同体がもつ目に見えない可能性に至るまで、

実地での体感から考察することが出来たわけである。

どんな仕事でもそうだと思うが、

余りに整理された知見は、硬直化した理解しかもたらさない。

アフガニスタンについて日本で学ぶときは、

どうしても、”歴史”とか”イスラム教”とか”国際政治”というタームで整理整頓された形で学ぶことになる。

しかし私の場合、

現地で起きている事象を、

歴史・経済・政治・思想・宗教などといった簡便な言葉で強引に分類される以前の、

生生しいままで体感できたわけである。

それは、これまでこのブログにも記してきた私見にも反映されていると思う。

形而上と形而下とを区分することなく織り交ぜた私の体験は、

それ自体がアフガニスタン的なのかもしれない。

(それがなぜアフガニスタン的だと思うのか、については、

稿を改めて、述べたい。)

とにかく、アフガニスタンは私を成長させてくれる場であった。

しかしその一方で、疲労が蓄積していたことも否めない。


8年間に及ぶ現地駐在は、

私の心身をかなり困憊させていたことも確かであり、

後数年は続くことになっていた水資源調査を完遂できるか、

100%の確信が持てなくなる場面も少なからずあった。

だから、”撤退の決断は間違っていた”と単純に結論することも私には出来ない。


1月に発生したような治安事件の可能性をゼロにすることは不可能である。

常に流動的な反政府軍勢力の動静、

政府軍・ISAFが展開する作戦の傾向、

一般犯罪と反政府勢力とが混然一体となった形で突発的に顕然する事象、

これらを見渡しながら事業を行うことには、五感全てを常時稼働することが不可欠である。


さらに、

PWJのような弱小NGOの、脆く心もとない治安対策の下で行う支援活動の中では、

いずれ治安事件に巻き込まれるだろう、というのが、

どのスタッフも感じていた暗黙の諦念であった。

そのなかで、

事件が起きた時にその被害を如何に少なくするか、という、

言わば消極的たらざるを得ない思考に

間断なく昼に夜に心を砕くというのは、

”ストーリー”とか”シナリオ”、”シークエンス”というような言葉で表象することが憚れるくらいの

カオスの世界である。

なんと言えばいいのだろう、

一般的なビジネスの世界で想定されるような、

成果とか、標準化とか、ホワイトカラーエグゼンプションとか、シナジー効果とか、コンピテンシー・・・等といった

綺麗に描写される世界とは全く異質な感触である。


それに、

治安対策には自分のスタッフの生命が関わるのであるから、

心を砕くその真剣さの度合いはとても高くなる。

部活の合宿のような日々の中で共に暮らしている仲間が生命の危険に晒されていることを

正確にイメージすれば、当然発生する心労である。

勿論、私が現地スタッフを心配するのと同様に

現地スタッフはガイジンである私に対して非常に気を配ってくれていたから、

スタッフ全員の心労が

治安事件が起こるたびに、

事務所全体を覆う緊張感に直結した。


そう言えば、蛇足になるが、

支援の現場では、時折、

現地スタッフを異常に軽く扱う人間に出会うことあるが、

ああいう人であれば、

治安対策業務も極めてビジネスライクにこなすことが出来るであろう。

しかし、

そういう割り切ったスタンスを選択することで解決策を見出すというのは、

おそらく、

主題を意図的に曲解しがちな倒錯か、

窮迫した状況での無思慮な逃げ と言わざるを得ない。

喩に挙げるのも烏滸がましいが、

福島第一原発で放水作業を行った東京消防庁の記者会見を見ても、

この手の緊張は、生命に関わる仕事には常に随伴して当然なのであろう。


アフガニスタンでの駐在が長くなった私に対して、

日本や別の国で勤務する親しい同僚は非常に心配してくれて

休養をとることをすすめてくれたが、

それは大変有難いことであった。

気遣いは有難いことであったが、しかし、『兎に角休むように』と犒われても、

正直、そう簡単に休めるようなものではなかった。


たとえば、定期的な休暇でアフガニスタンを離れるときでも、

結局、現地で活動するスタッフの安全については、

念頭を離れることはなかった。

休暇中でも現地スタッフは勤務しているわけであるから、

休暇で身体を休めることは出来ても、

反対に、現地を離れるほうが、心は心配で一杯になる。

携帯電話が鳴るたびに、無数の不吉な可能性を想起することが癖となった。


とにかく、実り多いアフガニスタンでの8年間は、

同時に

かなりの疲弊を私にもたらしていたと思われる。


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多分、

アフガニスタンでの治安問題に付随した緊張は、

”業務でのストレスを、休養・休暇で発散する”というような、

先進国のホワイトカラーの世界では一般的となっている

心身の管理方法が適応出来るものではないのだろう。

多分、危険地での治安対策に関わる業務には、

”精神的に気が休まらない状況で仕事をし続ける能力がどれくらい備わっているか”、

ということが基本的な条件として要求される業種なのだろうと思う。


例えば、

ボクサーにとっての動体視力とか、

レストランの店員にとっての、お客の座席番号と注文を記憶する能力とか、

お寺の住職が正座で長時間座れる忍耐力とか、

音楽家の絶対音感とか、

そういう、もう、

”それがないと殆ど仕事にならない”

というような能力の一種と考えるほうが適当なのかも知れない。

”休暇をとればストレスが解消される”ことを前提とするのは間違いで、

緊張し続けながら仕事をする耐性が獲得出来ないのであれば、辞めるべきなのかもしれない。


私の場合はどうだったのだろう。


8年間のアフガニスタン赴任で疲弊した、ということは、

それは、

『8年間も持ち堪えるくらい、緊張状態への耐性があった』

と言えるかもしれないが、

『8年間持ち堪える耐性は持っていたが、年々摩耗していた』

とも言えるかも知れないし、

『もともと、こういう業務への耐性は無く、8年間騙し騙しやってきたが、もう騙しきれなくなってきていた』

なのかも知れない。


いずれにしろ、

たった8年で疲弊したことは確かであるから、

負けは負けである、

自分の非力を直視しなければならないし、

今度、もしも、アフガニスタンに戻ったり、治安の悪い地域での活動を従事することがあれば、

この耐性の獲得についてもっと自覚的な心構えで臨みたいと考えている。


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こんな状態のなか、

1月6日の治安事件を迎えたわけである。


治安悪化の中で、少ないながらも現地に部下を持つ立場が、

私にもたらした、目にはさやかに見えぬ”衰え”は

治安事件によって見事に顕在化した。


1月6日の事件後から毎日、

血まみれの夢ばかり見ることとなり、

私は自分の衰えを明確に自覚し始めた。


浅い眠りで悪夢を観ては起きる、という状態であった。

アフガニスタンでの撤退作業は骨の折れる仕事であったが

悪夢と寝不足がそれに拍車をかけた。


なお、付け加えると、

この、精神的な衰えは、

3月11日の震災によって更に悪化した。


3月7日に、なんとか撤退作業を終えて帰国したのだが

その後、日本でも殆ど眠れなかった。

そして、

3月11日以降に出動して以降は、

この悪夢に震災の要素が加わって、

言葉にならない異様な夢になった。


当然、寝ていて見る夢というのは、

ともすれば現実よりももっとリアルに感じられるものであるから、

寝起き後にも肌に生々しい感じが残っていた。

東北支援の最中も

この血なまぐさい噩夢は続き、

連日の支援業務で疲れた私の安眠を奪い、

それは身体的な不調にもつながった。


この夢は、結局6月下旬になっても続いていた。


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話を、アフガニスタン撤退作業をしていた2月にまで話を戻す。


とにかく、

アフガニスタンでの事件後の私の精神状態は良くなかったのだが、

アフガニスタンの事務所閉鎖作業は、

様々な制限要因から、出来るだけ早く行わなければならず、

事務所閉鎖決定の日から不休で行うこととなった。

遂行中事業の停止だけでなく、

事務所運営に関わるあれこれの始末、

8年間の事業についての全文書の仕分け、

スタッフの再就職先の調整、

これらを、引き続き治安に注意しながら行った。


その最中には、

間の悪いことに、

歯の詰め物が2か所もとれてしまって食事も上手く摂れなくなったり、

30年ぶりくらいのひどい霜焼けになったり、

こまごまとした不測の事態も起こったが、

なんとか、

3月頭に全スタッフを解雇して事務所を閉鎖した。


私にとって掛け替えのない仲間であった現地スタッフは、

突然の解雇を言い渡した恨むべき私に対し、

繰り言ひとつ言うことなく、

ウズベキスタン国境まで見送ってくれた。

その中には、狙撃されたスタッフも含まれていたし、

スタッフはカバンに入らないくらいのお土産をくれた。

いつかまた一緒に仕事をしよう、という約束を何度も言い合ってから、

国境を渡った。

そして、3月7日に日本に帰国した。


事務所を閉めるとき、

サリプルを去るとき、

国境を渡るとき、

日本への飛行機に乗っているとき、

8年の間に積みあがった愛惜の思いが

色々な形で涌溢して去来したが、

それは、

夜な夜な悪夢にうなされている私としては、

治安問題如きではまだ磨滅していなかった、

アフガニスタンについての細やかな襟情の存在を自覚する契機ともなった。


こんな状態で私は3月11日を迎え、

東北震災支援に参加することとなった訳である。

(つづく)