こんにちは、児島です。


大晦日にも書いたが、

あたふたと過ごしているうちに、

アフガニスタンは秋から冬になり、イードが終わり、冬至を過ぎ、2010年が始まってしまった。


アフガニスタン便り-ボガウィ冬の夕間暮れ

 写真:冬枯れのボガウィ村、夕間暮れ。西日の残る暖かいところに集まって、なにやら話している子供たち。


***



私は毎日、

反政府勢力による爆破事件など、陰々滅滅とした治安情報を集めて対策を考えたり、
現在建設工事が進行中の工事現場で、

セメントと砂利と砂の配合が間違っている!などとガミガミ文句を言ったり、

設計と施行状況の違いについて現場主任と言い合いをしたり、

足元を見てふっかけてくる商売っ気たっぷりの資機材屋などと交渉したりしているわけだが、

こういう仕事をしているときの気分というのは、

不愉快な気分ではないのだが、

ただ、

頭の中の焦点がぼやけてくる、というか、

なんといえばいいのだろう、

たとえて言うと、

目をくっつけるようにして、新聞などの細かい文字を長時間読んでいて

ふっと顔を上げると、自分の周囲の壁やら窓に焦点が合わなくなる、

そんな、

頭の一部しか使っていないような、

硬直化した気分になる。


アフガニスタン便り-はずかしーーーい3


アフガニスタン便り-はずかしーーーい2


アフガニスタン便り-はずかしーーーい1  写真:工事現場を見に来ていた子供。 この寒いのに裸足の末っ子、優しい兄、照れ屋の次女と三女、というところ。女の子二人は、キャアキャアと笑っては私にちょっかいを出してきてカメラを向けると顔を隠すという繰り返し。兄はそれを微笑んで見ていた。


こういう日の夜、
例えば今日のように、

行き詰っている仕事の合間に、
オフィスの外にある便所まで小便をしに出ると、
冬の星が無数にガチャガチャと光っていて、
虚をつかれる思いだ。


ドーーーン!と横たわる天の川を見ると、

気持ちが和らぐ気がするのだが、
多分それは気の迷いだ。
その証拠に、星空を見ても、仕事は一向にはかどらない。

まあ、星空をみたからといって仕事がはかどるわけもない。


今日は
この、気の迷いついでに、
日ごろ漠然と考えていることを、書いてみようと思う。


***


雨も雪も、今年の雨季は、出だし好調である。

北部の中心都市であるマザルシャリフと首都カブールを陸路で結ぶ幹線道路には、
途中、サラン峠という標高の高い難所があるが、
そこも大雪だときいた。


マザルシャリフといえば、

最近、なにかと仕事があって、

マザルシャリフに日帰り出張をすることが多い。


ルートとしては、

『サリプル-シビルガン-バルフ-マザルシャリフ』

という経路で往復移動する。


アフガニスタンでの治安悪化傾向は、
比較的平穏なアフガニスタン北部も例外ではなく、

反政府勢力の攻撃が頻繁に発生している。

マザルシャリフに向かう幹線道路では、

ISAF(国際治安支援部隊)指揮下のドイツ軍の軍用車両のコンボイを頻繁に見かけるし、

警察による検問も厳重になっている。


 アフガニスタン便り-ISAF
写真:マザルシャリフへ続く中央幹線道路で見たドイツ軍の戦車。

装甲車を見かけることは多いが、戦車をみることは少ない。


アフガニスタン便り-ANA(サリプル)
     写真:サリプル中心部のアフガニスタン国軍(ANA)駐屯地。


検問が厳重になった、と書いたけれども、

アフガニスタン警察による検問は、

この”厳重”という日本語から連想するような細かさはない。


検問の方法について、警察内部にどういう規定があるのか知らないが、
私からみれば、
当直警官の気分次第、としか思えない要領で、
ときどき、大型トラックを止めて荷物を検査したり、
現地の人がタクシーとして使うハイエースをおもむろに止めてみたりしているだけのようで、
例えば、

私たちの乗る車両は、たいていの場合、まったくチェックされずに通過できる。


私は、この検問を通過するたびに思うのだが、
これだけ杜撰な検問であるのだから、

もしも、私が反政府勢力のメンバーで、

アフガニスタン北部の状況を撹乱するためのテロ行動を画策している当事者であれば、
南部や東部から、もっと頻繁に武器弾薬を持ち込んでIEDを仕掛けるだろうと思う。

つまり、たとえ私が、

まるでB級のアクション映画のような、

非常に大雑把でマンガチックなテロ計画を実行したとしても、
政府に対してある程度のインパクトは与えることができるだろう、と思うのだ。


ということは、逆に言うと、
この大雑把な検問と、それと矛盾するような、北部での反政府活動の少なさは、
”反政府分子が、如何に周到な計画性を持ち、慎重な集団であるか”
という可能性を示している気がする。


慎重である、という意味は、
”目下計画中のテロ活動の成功を期して慎重である”、
という目先の慎重さのことばかりでなく、
全体的な反政府活動の戦略についても、
限りなく愉快犯に近い粗暴な作戦を展開しているのではなく、
何かしら明確な戦略のある青写真をもとに活動を遂行しているかもしれない、ということである。
そんな印象を受ける。


***


しかし、この印象は
しばしば私の脳裏に浮かぶ、雑多な印象のひとつであって、
確定的な知見ではない。


マザルシャリフの治安のよさは、
ここを統治するアタ氏の威力によるところが大きいという考え方もあるし、
アタ氏自身が、犯罪者集団を統率しているという噂もある。

反政府勢力にとって北部は攻撃目標としての魅力に欠けるのかも知れないし、

反政府活動の拠点たるべき協力的な村が少ないのかも知れない。

反政府行動を行っているアクターが、タリバンなどからは距離を持った一団なのかもしれない。

アタ氏は、先に行われた大統領選挙時に、アブドゥラ・アブドゥラ氏側についたので、

その去就にまつわる動きも、今後出てくるかもしれない。

つまり、

実体は知りようがない。


だから、上記したような、私の個人的な印象というのは、
現地情勢を見るときに私が抱く印象のなかの、単なる一つの例であり、

これだけを切り取っても、治安について考える材料にはならない。

私は現地で活動をしながら、
いつも、上記のような小さな印象を忘れないようにしながら蓄積していって、
実際に発生する治安問題を考えるとき、

それらの印象群全体を見渡す気持ちで考えるようにしている。


これらの蓄積された印象の各々は、
なんの確証も傍証もなく、
自分でも信用できないくらいの希薄な印象でしかなく、
”情報”などというものには程遠く、
”知見”とすら呼べない、
なんというのか、漠然とした憶測、とても言うものである。

それらの印象群は、

ときに互いに矛盾するような仮説群であり、
それらを頭のなかでくっつけたりほどいたりしながら、
状況を理解しようとしていくわけである。

これほど頼りない私の印象群であるが、

”**村で、**名のアフガニスタン国軍兵士が犠牲になった”とかいうような

かなり精度の高い確証を得ることができる情報よりも、

自分で蓄積してきた仮説だらけの印象群のほうが、

長期的にみて、事態を類推するときの価値が高いように思う。

可塑性の高い印象群のほうが、

流動的な状況を読み解くには、有用だ、と言えるかもしれない。

リアルであることと、リアリティがあること、

そこには、根本的な違いがあるのかもしれない。


***


私だけではないと思うのだが、
一般に”情報”という言葉を使うとき、
私は、居心地の悪さを感じてしまう。

もちろん、”情報”という言葉は便利なので、
仕事でも日常生活でもついつい使ってしまうが、
言った後、自分で違和感を持ってしまう。

例えば、会議などで
「私が得ました情報によれば・・・だと考えられます」
などと発言したり、
人がそのように発言するのを耳にすると、
なんだか、
座りの悪い感じ、
わざと何かをぼやかしているような気がしてしまうのだ。


この感覚はいったい何なんだろう、
というのが数年来の私の疑問であった。


***


最近、この疑問を考える一つの糸口を見つけることが出来た。
その糸口は、佐藤 優 著の「国家の謀略」にあった。

この本によると、

『”情報”という言葉の語源は”敵情報告”を短縮したもの』

だそうである。

もしかしたらこれは一般常識なのかも知れないが、
恥ずかしながら私は今まで知らなかった。

これを知ったとき、上の謎が少し解けてきたように思えた。


つまり、”情報”という言葉は、
もともと ”戦争に勝つため”に収集された報告のことであった、というわけだ。

そこで、

”情報”の語源についてもう少し詳しく知りたくて
ネットで調べてみたら、


http://www32.ocn.ne.jp/~env_info_math/yamasita-diary/information-origin.pdf


という、非常にわかりやすい記述を見つけた。

これによると、諸説あるようだが、
”情報”という言葉が最初に用いられたのは、

森鴎外がドイツの軍用書を翻訳したときに作った言葉である、とか
幕末のフランスの軍用書の翻訳時に作られた言葉である、とか
様々だが、

つまりは、近代に近い時期に出来た軍隊用の日本語、まだ若い日本語であるわけだ。


この語源に従い、

”情報”について、戦争との関係で考えてみれば、

本来”情報”が持っている性質は自ずと類推されてくる。


一般的に、理想的な軍隊とは、

彼我の軍事力の評価にリアリズムを持っていなければならない、と思う。
そうでなければ、勝てるか負けるかという判断を間違うからだ。

その判断をするために”情報”=”敵情報告”が必要となる。


そして、真のリアリズムを達成するためには、
複雑怪奇な現実と向き合うことが必要であるから、
そこで集められる”敵情報告”についても

100%の正確さなどは想定してはならないはずである。


つまり、”情報”という言葉はもともと、
100%の正確さとは無縁な言葉で、
完全に正しい報告などありえない、
そういう状況が前提条件となった言葉だったわけだ。


サリプルという比較的平和な田舎に住んでいる私が、

治安状況について検討しているだけでも

事態の推移についての様々な推測が成り立つのであるから、

いわんや、

実際に戦争が行われている状況では、

”情報”と呼ばれるもののなかに、
如何に玉石混淆、如何にピンキリな内容を含むものが含まれるか、
容易に想像できる。

戦時下において”情報”を収集し検討するリアリストは、
不正確なことを前提のうえで、
それらの報告を見渡し、
その都度”確からしい”方向をさぐっていくことになる。


***



しかしながら、

現代の日本で使われている”情報”という言葉には、
その語源に含まれていた
”不正確なもの”というニュアンスが薄まっているように思う。


現代日本で使われる”情報”という言葉には、
なんだか、
なんというのか、
語感として、
”100%正しいこと”、”正確なこと”、”無条件に信用すべきこと”
というようなニュアンスが含まれているような気がしてしまう。

いや、
”情報”自体を100%正しいと信用している、というよりも、
どんな信用出来なさそうな、ガセネタのような”情報”に接するときにも、
知らず知らずのうちに、
”完全無欠の正確無比な情報”というものがどこか別のところに存在することを、
心のどこかで期待している、そんな気がする。

”今は入手できなくても、この世のどこかに必ず100%正しい情報があるのだ”
という妄想とでも言おうか。


しかし、100%信用できる、完全無欠な情報なんてあるのだろうか、手に入るものだろうか。


”情報”という言葉の現代的な使い方の起源は、
上記のhttpによれば、
1950年代に輸入された数学的な理論のなかで
”インフォメーション”の訳語の専門用語として使われ始めたことによるようだ。
このことは、
なんとなく、ではあるが、
なぜ”情報”という言葉が、
現代のように”正確なこと”というイメージをもつようになったかの理由の一つにも思える。

しかし、むしろ、
そういう使い方を時代が要請した、というほうが理解の仕方として正しい気がする。


***


たとえば、
”三角形の内角の和は180°である”という記述を

”情報”と呼べるかどうか。

この記述は
信用できる内容を含んでいるけれども、
”三角形の内角の和が180°”というのは、
”三角形”という主語の中にすでに含まれた意味であるから、
は自明のことを言っているだけだ。
主語の中にすでに含まれた内容を書き出しているだけだ。


あるいは、

”A=B かつ B=Cなら、A=Cである”という論理に従って構成された記述を

”情報”と呼べるかどうか。

A、B、Cそのものの表象性を問題にはせずに

ひたすらに論理学的思考を積み上げたものは、

硬直化しすぎている。

これらような自明さ、あるいは硬直化した”真理”を

情報とは呼べなかろう。


まあこれらの、

三角形や論理学的な例は極端すぎるが、
とにかく、”敵情報告”の中に、

このような自明性を持った報告があるわけがない。
本来、”情報”=敵情報告とは

流動的な現実の側面を描き出すためのもので、自明なものではないはずだから。


しかしもしも、
”情報”と呼ぶものを、すべて正確なことだ、と皆が考えたら、
どうなるだろう。
情報が、とたんにめまぐるしく流通し始めるに違いない。

”正確である”という価値で固定されて、朽ちることのなくなった状態だからこそ、
情報は流通する。


現代において、特に先進国において、
これだけ情報が流通しているのは、
情報が持つ、ある種の”朽ちにくい価値”が保証されているからではないだろうか。

流通するからそれが正しい気がしてくるのか、
正しいと思えるから流通するのか、
順序はわからないが、

とにかく、朽ちにくい価値が情報に付随している。

情報の朽ちにくさ、の前提の上に社会が成り立っている。

情報の正しさを仮定して初めて機能している社会だ。


***


私の思い込みかもしれないが、
日本に帰国して、
テレビを観たりコンビニで立ち読みをしたりするたびに思うのは、
”あふれている情報は全て正しいのだ”という前提ありき、
”情報は自明である”という前提ありき
で物事が語られているような気がするのである。

事実に最も近い一次情報は流通しにくいことは分かるが、
二次情報とも呼べない、

三次・四次情報とでも呼びたくなるような、
根拠の不明瞭な、根無し草のような”情報”が

大量に高速で流通している気がする。
なんだか、

空中に浮いたジャイロが高速回転してる、そんなイメージを持ってしまう。
根も葉もない価値体系が、独りで勝手に稼動してる、そんな気分がする。


そんな、勝手に高速回転している価値体系の中では、

ある情報が間違いであると判明したときは

別の確からしい情報に、あまり抵抗なく塗り替えられてゆく。

なぜそんなにお手軽に塗り替えて上書きできるか、といえば、

それは、
”どこかにきっと真に正しい情報があって、それをいつか知ることができるはずだ”
という”信仰”に裏打ちされているからではなかろうか。


今自分が持っている情報が信用できないものであると薄々分かっていても

半ば訳知り顔な気分のなかで、

”それでも本当の情報はいつか知ることが出来るんだ”と信じることで

とりあえず落胆から救済されている。
”いつか手に入れることが出来る真の情報”という仮説に担保された、

キリのない、尻に火がついたような信仰である。


つまりいいたいことは、
”情報”がこれだけ流通しているということは、
そこに何らかの信仰が存在している、ということだ。
いわば、
”情報教”だ。


私たち先進国出身者は、
無宗教を気取って、

魂の救済を求めないという鷹揚な空元気で

虚勢を張っているけれど、

深層においては、

救済されない魂の部分を、

頼りない”情報教”で埋めようとしているのかも知れない。


もしそうだとすれば、認識しておいたほうがよいのは、

”情報教”の中心にあるのは

”いつの日か、100%正しい真の情報を入手できるはずだ”

という、片思いのようなドグマだけだ、ということだ。


情報が物事を説明していく、その端から、

次から次へと情報は硬直化してしまうから、

情報は、心の中の何かを、いつも取りこぼしていく。

この”心の中の何か”を包摂できない限り、

”情報教”の底は割れたままだ。

そしてこの”何か”とは、

古来、神話や信仰が担っていた部分である。


***


私の勝手な想像だが

もともと、大昔の石器時代くらいの人間社会の中では、
色あせることのない”不朽の情報”というのは、
神話や信仰といった、精神のリアリティを表す世界観によってのみ

人間に供給されていたと思う。
人々の魂を救い上げるために、様々な物語が育まれてきた。

太古の人間社会に流通していた情報は、いわば、”魂についての情報”であった。


そこには、

現代における情報のような固定化はなく、

芳醇なリアリティがある。

現代の情報のように素早くは流通せず伝達には時間がかかるが、

それが人間の魂に共鳴している。

流動する毎日のリアルにも同期している。


”魂についての情報”が、

神話や信仰と融和している時代は

おごそかな方法で”魂についての情報”は守られ大切にされていた。

精神的にはある程度、平安であったであろう。

というより、精神の平安を得るための知見が

”魂についての情報”だったはずだ。


それが、時間が経つにつれて、
科学的な情報、記号論理学的な情報、
なにか、”魂についての情報”とは異なる雰囲気をもった

硬直化した”不朽の情報”が流通し始める。


そしてさらに時代が進むにつれて、
”不朽の情報”は肥大化し始めて、どんどん流通し始めた。

なぜ、こんなに”不朽の情報”が流通したのだろうか。

私が思うに、

それは”不朽の情報”の確からしさに原因している、という以上に、

この世のどこかに”不朽の情報”が存在しているにちがいない、という

想像の延長線上にある信仰があったからではないか、

と思う。

そしてそれは、価値を固定化して集約させる”貨幣”と関係があるのではないか、

というのが、私の意見である。


***


”貨幣”は、価値を固定化して流通させる力を持っている。
貨幣は、それが、金や銀などの希少金属そのものであった時代でも、

それら希少金属と兌換できた時代にも、

そして、ブレトン・ウッズ体制が崩れたニクソンショック後の、国力に保証された通貨であっても、

どこかに絶対的な価値が前提とされて初めて成り立つ。


この、人間が発明した貨幣経済が持っている、

”価値を支える仕組みを前提とした上で、固定化された価値が流通する”という構造、

このアナロジーで、

”どこかに確かな情報が存在することを前提とした上で、固定化した情報が流通する”という構造を発生させ、

人間は無意識に、情報を流通させ始めたのではないだろうか、と思うのだ。

信仰を破壊したのは、

相対的な価値観をもたらした科学ではなく、

その前に、

貨幣の持つ構造が遠因となっているのではないだろうか。


***


鋳造貨幣が人間社会に登場したのは、

リディア王国で紀元前7世紀ごろと言われているらしいが、

もっと原始的な貨幣まで含めれば、もっと遡ることになるだろう。
当時、どれくらいの貨幣が流通していたかはわかるはずもないが、

その便利さ、価値の流れを留めることのできる魔力、
これは当時の人をひきつけただろう。


一方、

今日の経済のグローバル化で世界に流通している通貨量のイメージは、というと、

手元にある経済関連の雑誌によれば、

2008年10月の時点での世界に存在する総資産額を参考にすると、

実物資産で60.1兆ドル、

金融資産でみれば165.8兆ドルだそうである。


鋳造貨幣が生まれた頃の貨幣価値を

現在に換算することは難しいが、

とにかく現在の流通量を、鋳造貨幣の出現当時と比較すれば、

天文学的な数字であろう。


近代以前においても、もしかしたら古代においても、

貨幣の流通量が増加するのに比例して、

古典的な信仰心は、徐々に”情報教”に駆逐されていたのではないか、

そして、

近代以降、貨幣の流通量が圧倒的に増加する中で、

宗教的な精神は、加速度的に弱められているのではないか。


この天文学的な現代の貨幣以上に

価値を流通させたものは、

宗教的な価値感以外に、

人類史上、存在しなかったにちがいない。

朽ちないものが流通するのである。

朽ちないものの価値を皆が認めるからである。


***


なぜここで突然、”貨幣”の話が出てきたのか?というと、

理由は簡単で、

先週、マザルシャリフに出張したとき、

そこに住む知人が、昼ごはんに招待してくれ、そのときに、

バルフというマザルシャリフ近くにある町から出土した、

古代の貨幣を見せてくれたからだ。


アフガニスタン便り-コイン2  アフガニスタン便り-コイン1

      写真:マザルシャリフの知人が見せびらかしてくれた、古代貨幣。


この貨幣の発行者であるが、

この写真をもとに、素人である私が絵柄だけから調べたところでは、

フィリップ・アリダエウス という、アレクサンダー大王の異母弟にあたるマケドニアの王か、

アンティオコス1世または2世、または10世、

エウティデームス1世か、とおもう。

或いは、それらのどれでもなく、

古代にアフガニスタンで偽造されたものかもしれないし、

つい最近偽造されたものかもしれない。

友人が又聞きで聞いた、という、

これらの貨幣が出土したときの様子では、

バルフのとある場所で掘り起こされた壺があって、

その壺を割ったら、中から銀貨がザクザクとこぼれ落ちてきた、というのだ。

私はこの話を聞いて、幼少期に読んだ『岩窟王』の挿絵を思い出し、

いい歳をして、ウキウキした。


***


高校時代の世界史で習ったところでは、

アレクサンダー大王は、世界で始めて貨幣を統一した、ということだ。

しかしそういう教科書的な知見はさておき、

紀元前の当時において、いったい、

どれくらいの人間が貨幣を日常的に使い、

どれくらいの量の貨幣が流通していて、

どれくらいの人にとって貨幣が一般的なもので、

どれくらいの人が一生貨幣を見ないで過ごしたのか、

従来からの物々交換という、自然経済、交換経済という経済活動と

貨幣を用いた交換とは、どのように偏在して両立していたのか、

もっと掘り下げるなら、

貨幣を使う人間はそのときにどんな心境だったのか、

拝金主義はどれくらい蔓延していたか、

そして、

その拝金主義は、

元来の宗教的な信仰心と両立できたのか、

それとも信仰心を駆逐してしまうものだったのか。


私は、上で述べた、貨幣と情報の相似関係から考えて、

貨幣と、

信仰心や魂の救済、というのは、

努力や工夫なしでは、両立が難しいのではないか、

と思う。

古代から現在まで、貨幣によってもたらされた人心の混乱は絶えることはなかったのではないか。

***


妄想をたくましくして言えば、

私には、

貨幣の流通、

人々の魂の救済を果たしてきた信仰心の解体、

情報の流通量の増加と”情報教”の誕生、
この3つが、直接的な因果関係を持っているように思えてならない。

思えば、キリスト教も、イスラム教も、

古代的な貨幣経済が発生した後に出来た宗教だ。
ゾロアスター教やヒンドゥー教、ユダヤ教、仏教など

古い信仰が息づいているその土壌の上に出来た宗教である。


これは私の無知のせいかもしれないが、

どうしても、一般的に宗教を分類するときに用いられる、

”一神教”と”多神教”という区別の仕方に

あまり本質的な意味を見出せない。

宗教の区別の仕方としては、むしろ、

貨幣が機能していた都市、時代に生まれた宗教か、

都市ではない自然との対峙の中で生まれた宗教か、

そういう区別でみるほうが、

得られるイメージが芳醇になるように思う。


都市か、非都市か、という分類で言えば、
イスラム教は、都市で生まれた宗教だ。
商人であったと言われるマホメットが預言者となってから成立した宗教だ。

私が思うに、

イスラム教の持つ大事な側面の一つとして、

規模も範囲も大きくなった当時の経済を、

そして、その貨幣経済から派生した”情報教”に蝕まれはじめた信仰心を保持しながら、

人間の魂との間で出来るだけ齟齬のないように回転させるための約束事が

智恵として、たくさん含まれていたのではないか、

と思う。

信用取引から、喜捨という文化まで、

それは貨幣経済のもたらす破壊性を飼いならすために

皆が切望していたプリンシプルだったのではないか。


なんの確証もないが、

貨幣経済が発生が前7世紀として、それから1400年たった西暦700年代、

貨幣によって綱紀と人心が乱れた只中で

マホメットは生まれたのではなかろうか。


まるで、

マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」における

プロテスタンティズムと同じような役割を、

イスラム教が果たしたのかもしれない。

もしかしたら、利息を許さないイスラム金融も、

そこから発生しているのではないか、とさえ想像してしまう。

イスラム教は

貨幣経済と、魂の救済を両立させるための物語だったのではないか。


***


アフガニスタンにイスラム教が来る前は、

ゾロアスター教やヒンドゥー教、仏教が混在していたということだ。

ゾロアスター教の発生の時期は正確にはわからないが、

ゾロアスター教がユダヤ教に影響を与えたといわれているくらいだから、

ゾロアスターという祭司が生きた時代はおそらくユダヤ教より以前になる。  


そして、

ゾロアスターの生まれた場所は、バルフ、

つまり、

私が、マザルシャリフまでの日帰り出張のときにいつも通っているバルフ、

今回見せてもらった銀貨が出土したバルフ、

なのである。


このバルフ界隈では、
自然宗教とも言える土壌の上に、

アケメネス朝やマケドニアのアレクサンダー大王、セレウコス朝、パルティアやギリシャ系のバクトリア、などなど

数々の王朝が現れ、その領土となった。

そしてそれらの王権は、それぞれの貨幣をもってやってきたわけだ。

いわば、最も古くから貨幣経済を経験してきた地域の一つだ、と言える。


原初的な宗教土壌に

価値が集約的に流通する貨幣が入ってくる毎に、

流動するべき価値は偏在して蓄積され、

それに影響されて、徐々に”情報教”が原初的信仰心を蝕み、

人心は繰り返し荒んでいたのかもしれない。

であれば、そこに現れたイスラム教の価値は大きかったと思われる。

イスラムと呼ばれるものを受け入れる土壌はすでにあったのだ。


***


一方、現代は

経済のグローバル化により、

つまり、貨幣という圧倒的な価値体系によって、

宗教的な精神は駆逐される傾向にある。

近代までは、何とか貨幣経済と共存していた宗教的心情は、

現代に至り、貨幣という不朽の価値の増殖に変換されようとしたのではないか。

しかし、宗教が持っている

”精神の表層と深層をつなげるための対話形式”を、

厖大な量で価値が流通する貨幣では

置き換えることはできなかった、のではないだろうか。


”近代人は魂の救済を求めない”と嘯く人もいるが、

おそらくそんなはずはなく、

貨幣という価値体系では掬い取れない心の襞を、

なんとか受け止めてくれるものを探しあぐねているに違いない。

それの一つの受け皿が、”情報教”なのではないか。


しかし、その”情報教”は、すでに述べたように、

頼りない信仰、強迫観念にとりつかれた様な信仰である。

そして、

国力という、非常に流動的で儚いものに支えられている現代の貨幣も

金本位制が崩れて以降、貨幣の実質的な意味の底が抜け、

近年の市場原理主義の台頭で不確定性が露呈し、

そこでは、為替の変動制の中で価値が不安定となり、
それを判断するために有用だと思われていた、新古典主義派経済学では読みきれなくなった今、

非常に頼りない信仰対象になっている。

一見、”不朽の価値”を持った貨幣や情報に対して、

宗教が担当していた”リアリティ”の全てを押し付けようとしたが、
裏づけを持たない”貨幣”と”情報”では、

それは背負いきれず、

リアルを拾いつくすことは出来ず、
現代、”不朽”であることに綻びが出始めたわけだ。

私の妄想では、近代になったとき、
石器時代から人間社会に深くゆっくりと流通していた信仰心、

これの代替物として、人間が無意識に、

不朽に流通するものを求めたのではないか、と思う。
それが、”貨幣”であり、”情報”なのである。

近代以降、社会が急速に宗教性を失いつつある現在、
よりどころをなくした人間の魂は、
絶対的で朽ちない価値を求めてうごめき、
一つは”情報”という宗教へ、一つは”貨幣”という宗教へ、向かっていったのではないか。

しかし、これらの不朽に見える価値は、実は”不朽”ではないのである。

***


ここまで長々と妄想話を進めた上で、

主題であるアフガニスタンに戻る。

ここから以下の文章は全て、

もう、

妄想を通り越して、私の希望である。


このアフガニスタンでは、

アケメネス朝やアレキサンダー大王、パルティアやバクトリアなどというように

覇権が次々と入れ替わるなかで、

そこで流通していた貨幣は、これまでなんども無価値化さてて来ていて、

そのたびに、

貨幣を物理的に構成している希少金属という実物の価値に戻ることを経験してきたのであろう。

また、貨幣が流通するなかでも、
その存在を知りながら、

一方で物々交換で成り立つ交換経済、自然経済も存在し続けてきた。

いわば、貨幣経済の酸いも甘いも痛いほど経験してきた地域だ。


アフガニスタン便り-ドスタム紙幣
写真:タリバン前後まで北部で流通していた、ドスタム将軍が勝手に発効した紙幣。もちろん、今は無価値。

そして、満を持したかのように現れたイスラム的社会のなかで
アフガニスタンでは、イスラム教という貨幣経済と人心を両立させるための信仰心が根付いた。

そして、地政学的な理由から常に政情は不安定で、

他の裕福なイスラム諸国とは違い、幸か不幸か、

グローバル化した資本主義にかき回されることなく、

いまもまだ、そのイスラム的信仰が

人々の魂を救済することの出来る土壌が生きている。

それが、私の想うアフガニスタンである。

先進国のように、

情報や貨幣を絶対化しないと不安でたまらなくなる、ということは少ないのではなかろうか。

こういう国に住む人間は、プレモダンの精神性を持ったまま、

ポストモダンの社会と技術を手にすることになる。
これは、相当に強力な武器になるのではないだろうか。


ちょっと話がそれるようだが、

私がアフガニスタン赴任を始めた2003年から、だいたい2006年ころまでが、

私が一番疲弊していた時期である。
また、私の同僚でも、この時期に疲弊をしていたスタッフが多かったように思う。


私は、よく考えるのだが、
急激に支援のお金が流れ込んだために

アフガニスタン人の、
とくに、都会派の住人達の一部、

そして特に若い世代の一部が、
あの当時、急速に拝金主義化して、退廃しかけていたように思う。


そしてその時期に、

都会派のアフガニスタン人スタッフを部下にして仕事をした日本人などの国際スタッフは、

非常に高い割合で疲弊していった、というように思っている。

それは、私の解釈では、

拝金化した現地スタッフの、軸のなさや変わり身の早さに困憊したからだ、と思っている。


あの当時は、

経済のグローバル化が世界中で進み、ちょうどその影響もあったが、
それ以外にも、支援の資金がどっと流れ込んだり、

またポピーなどのブラック経済による外貨の流入もあり、
都市を中心に土地が急騰したし、

UNの現地職員を中心に給与もべらぼうに上がり、

新たな富裕層が生まれてきた。
汚職は当時からひどいものであった。


こんな中で、拝金主義にならないでいるほうが難しいと思うが、
その傾向は特に都市部で顕著だったと思う。
特に、

都市部出身の若いアフガニスタン人スタッフの退廃ぶりは酷かったようにおもう。
若い拝金主義者と、年配のスタッフ達との、精神的乖離というものも如実に感じられた。


翻って今年、2010年、

勿論拝金主義は進んでいるだろうけれど、

私は、なんとなくではあるが、

一時のような拝金主義へこぞって皆が向かっていくような猛々しさはなくなったようにも感じている。

これには、私の、希望的観測、という色眼鏡が入ってると思うのだが、

私は、この希望的観測を捨てきれない。


この点について、

私と働いているアフガニスタン人スタッフに訊くと、

”確かに、拝金主義的な傾向は一時顕著だった、

しかし最近は落ち着きはじめているのではないか、

お金のことは、相変わらず好きであるが、

ほどほどになってきたのではないか”


という。

私は、このスタッフの個人的な意見に、感覚的ながら強く同意する。

確かに現実に付き合いのある住民の個人個人には、

やはり、拝金主義が多いし、前近代的・封建的な悪人も多い。

日々の業務の中では、百戦錬磨の抜け目のない商人にも出会う。
しかし、

私が、山岳地域の村々でお世話になる人々の中には、

超然とした風貌をもつ人々が多い。

アフガニスタンの社会を直感するためには

私はまだまだ鍛錬が必要であるが、

心の焦点をわずかにずらせば、

普段着の信仰心のなかに光芒を見る気がする。


私は、妄想の中で、
”イスラム教という、

貨幣という不朽の存在と適当に関わる手段を知ってるアフガニスタン人は、

これまでの様々な貨幣経済の盛衰を経験してきたなかで、

ここ数年の異常なドル経済化についても
ほどほどの拝金主義化で踏みとどまり、

ある程度、精神の中で消化しつつあるのではないだろうか”

と夢想するのだ。
つまり、貨幣への過度な”不朽性の希求”は持たずに済んでいるのではないか。


***


同じことを私は、情報化社会となっているアフガニスタンにも感じる。
私の知っている限り、

アフガニスタンの電話会社は5社、テレビ局は30局以上ある。

2006年くらいまでは、

”こんな素朴な社会に、

突然携帯電話のような情報ツールが入ってきては、
これはこの社会をつぶしてしまうのではないか”

と危惧したが、
最近はその心配はある程度希薄になってきた。

それは、現地社会が、どうも、

情報化社会をすら、

アフガニスタン的・イスラム的消化力で、こなしているように思うようになったからである。
情報への過度な”不朽性”の幻想を、彼らは抱いていないようにも思える。


***


サリプルの街角で、
バザールで調達した物資を数匹のロバで運ばせながら、

自身は馬上にあって、携帯電話で通話中の、

豊かな髭を蓄えたの現地のおじさんを見つつ、
私は、

本来の意味で魂を救済する宗教性を持った人間の底力をみるような、そんな気がする。