こんにちは、児島です。


今日も現場作業に出た。

今日の仕事は、現地スタッフのトレーニングが主目的だったので、

写真を撮るような暇はないと思って、始めからカメラを事務所においていった。


こういうときに限って、

素晴らしく感じのいいおじいさんが作業中の私たちにブドウを持ってきてくれたり、

竹内力そっくりのシブい顔をした少年が調査の手伝いをしてくれたり、

普段なら調査をしていたら逃げていく小さな女の子たちが、

今日は、河川流量を計測している私に「魚を獲ってるの?」なんて話しかけてきたりして、

(年齢に関わらず、女性の警戒心は非常に強いので、こういうことは殆どない)


”もし、今日カメラをもってきていたら、

危険なアフガニスタンというイメージとは違う、

アフガニスタンの愉しい側面を

このブログで紹介できたのに”


と歯がゆいおもいをした。




アフガニスタン便り-子馬と子供
写真:何日か前に調査現場で撮った、子馬と子供。今年は雨季の雨量が多かったせいで、

家畜の飼料も潤沢で、子馬の肉付きも例年よりいい。

”危険な国”という文脈で語られることが多いアフガニスタンであるが、

2500万人の人が生活しているわけであるから、

生活者の普通の愉快な日常もあるわけで、

それはそれでアフガニスタンのひとつの側面だから、

出来るだけここでお伝えできれば、と思っている。


***


このブログで何度も何度も触れているが、

現在の私の最大の関心事は、アフガニスタンの治安問題である。

毎日、治安についての知見の収集・考察に、もっとも時間を割いている。

事業そのものよりも時間を割いているくらいである。

これは、治安状況が事業の遂行に影響を与えるからであるが、

もっと長期的には、アフガニスタンの今後についての懸念があるからである。


アフガニスタンの今後について考えていくと、

自ずから、アフガニスタン国内外にひしめくアクターの動きに注目することになる。

アフガニスタン政府、タリバン、アルカイダは言うに及ばず、

周辺諸国、ISAFの構成諸国、アメリカ・・・など、利害関係者だらけである。

そしてそのアクターのそれぞれが、内部事情を抱えていて、

例えばパキスタンでは、現政権、タリバンやそれ以外のテロ組織、ISI・・・など、

立場の異なるサブアクターに分割されていき、更にサブアクターもまた分割されていき、

それらは相互に連動しているのである。


どのアクター、サブアクターの本心も、当然ながらオンタイムで明晰に見えることはない。

アメリカがなにを考えているのか、パキスタンがなにを考えているのか、

それらの目論見がどんな相互作用を起こしているか、

仮説は幾らでもたつが、それを検証することはできない。


一方、自然現象を見れば、

現在進行中の気候変動が、

中央アジアの乾燥域にどのような影響を及ぼすのか、

その中でどのような水資源管理が妥当となるのか、なども、わかりようがない。


もしかしたら、100年後くらいの歴史研究者が、

今のアフガニスタンを取り巻く利害関係者の思惑が明らかにすることがあるかもしれないが、

すくなくとも、現時点では、わかるわけがない。

また、100年後の気象学者は、現在2009年の気候について語ることができるが、

今現在生きている当の本人にはわからない。


それらが見えないことはわかっていながら、

オンタイムで見えることのない、アクターたちの思惑や、

気候変動の行く末について、

ただのNGO平職員である私が、毎日、推測したり仮説を立てて考えたりしている。


なぜこのような徒労ともいえる思考をしているかといえば、

それは、自分の立ち位置が気にかかるからである。

知らず知らずのうちに、不本意な立場に立ってしまうことを恐れるからである。


支援全般に関して言えば、

刹那的な支援になっていないか、

現地にとって逆効果となる支援になっていないか、

大国の目論見を助長するような支援になっていないか、

など、様々な立場に注意を払う必要がある。

水資源管理について言えば、

盲目的に、先進国のスキームを移植することに疑念があるし、

完全なボトムアップで管理していくには、現在の水資源量の年々変動は大き過ぎると思う。


とにかく、簡単に”支援の仕事”と言っても、

他の仕事と同様、

自分の現在地を知ることは難しく、正解はない。


***


さて、話は変わるが、

私の個人的な途上国経験、シェラレオネ、アフガニスタンなどでの経験から独断的に判断すると、

途上国で支援活動をしている、日本人が駐在する事務所やゲストハウスに

日本人が持ってきている本の作者を、冊数の多い順に並べると、以下のようになるのではないか、

と思う。


1位 司馬遼太郎

2位 宮部みゆき

3位 北方謙三


(そのときそのときのベストセラー、脳内革命、とか、国家の品格、とか、東京タワーとかいった本は除く。)


アフガニスタン北部に滞在してカブールに出る事が少なくなった2005年頃から、
他の日本人の皆さんと接する機会がめったになくなってしまったし、

調査サンプルが非常に少ないから非常に独断的であるが、

しかし、1位の司馬遼太郎は案外当たっているのではないかと思う。

シェラレオネでも、アフガニスタンでも、

日本人のいる場所の本棚でよく見かけた気がする。


***


さて、

この間日本に帰ったとき、近所のBOOK-OFF に行った。

そこで、ついつい、司馬遼太郎などの、日本の歴史小説に手がのびがちな自分に気がついて、

”これはいかん!”と自制した。


なぜ”自制しないといけない!”と思ったのかというと、


歴史小説という、


”ある程度、結果の出ている過去の出来事について、

ある程度『定説』といわれるような歴史観が定まっていて、

登場する関係者各々の立場も読者にとって判明している舞台”


というものに、心地よさを感じてしまう私の気分を自覚したからである。


”登場する役者全員の立ち位置が読者にわかっているような、

そんな舞台ならアフガニスタンもどんなにか楽だろう”


という、安易な思いに駆られた衝動が自分にあるように思ったのである。

当然、歴史小説を本気でじっくり読んでいる人たちは、もっと高尚な読み方をしてるのだろうけど、

私は、軽率で自閉気味な動機で読もうとしていたようだ。


冒頭に書いたように、

100年後くらいにしかわからないアフガニスタンの真相を、

手探りしながら日々を過ごしている私は、

ついつい歴史小説に逃げ場所を求めようとしたようだ。


支援の現場で司馬遼太郎を愛読した人がみんな、私と同じ動機で読んでいたとは、勿論思わないけれど、

私と同じように、支援事業のさなかで、自分の立ち位置に迷った人は多いと思う。


司馬遼太郎の歴史小説は、そういう意味で非常に誘惑がある。


司馬遼太郎への一般的な批判としては、

”歴史が少数の人間によって作られたように描いていて、それが読者に安っぽいカタルシスを生む、云々”とか、

”司馬史観が然々”とか、色々あるようだが、

そういう批判論は難しくてよく分からないし、

あれだけ活き活きと歴史的事件を物語りにまで噛み砕いてくれたのだから、

別にあれこれ批判しなくてもいいではないか、と思う。

読者が、安っぽいカタルシスを抱くのなら、それはその読者が未熟だからで、作者のせいではないだろう。

安っぽいカタルシスを抱くような人は、

別に司馬作品ではなくても、

どんな素晴らしい小説や映画やドラマに触れても、

安っぽいカタルシスを求めてしまうのだろうから、それはそういう個々人の抱える課題である。


そんなことよりも、

私にとっての司馬遼太郎作品の唯一の問題は、

繰り返すが、

”舞台の仕組みがだいたい分かっている歴史”を扱っている、という誘惑を持っている点である。

この誘惑は、司馬遼太郎の小説にだけに感じるのではなくて、

歴史的な事件を取り扱った小説の多くに感じる。

つまりは、この問題点は、読み手の私側の気持ちの問題だ。


歴史小説の世界に慣れてしまうと、

現在の自分を取り巻く複雑さに戻れなくなりそうな気がする。

もしくは、とても手軽に現在を解読できる、と思い込んでしまいそうになる。

ありえない”分かりやすさ”、”理解されやすさ”、”受け入れやすさ”を捏造してしまいそうになる。

そして、分かりやすさは、安っぽいカタルシスを生む。

支援の現場でカタルシスを持ったら、その人もその事業も一巻の終わりである。


***


現在ただいま起こっていることについて、

その舞台の仕組みが分かっていることなんて、現実にはありえない。

それは、アフガニスタンでなくても

現在の日本だって同じだろう。


衆議院議員選挙を前に、政治家が、時代の趨勢についての色んな仮説をたて、

その上に立って政策を述べている。

舞台の仕組みをみんな一生懸命解読して、解決策を考えているわけだ。

見えるはずのない舞台の骨組みを解き明かして立て直そうというのだから

考えてみたら、政治家とは、真面目にやったら大変な商売だ。

読み解くだけでなくて、その複雑な仕組みを、有権者に分かりやすくして伝える、というのも難しいことだ。

分かりやすく噛み砕いてから、その中で何を重要だと考えているかを、さらに分かりやすくして伝えているが、

俚耳に心地よいお話を作り上げる、という本末転倒なスタンスをとる者も出てくるかもしれない。

第一、100%の自信をもって自説を説いているようには思えない。

誰も将来を見通せない当節、自信満々のそぶりで自説を説いている政治家に対し、

有権者は、うっすらと物悲しさを感じているのではないか。

政治家自身も、彼ら自身の見通しのとおりになるとは思っていないような気がする。

なるようにしかならない、と思っているような雰囲気が、政治家自身にもどんより漂っているように思うのだが。

それを直視している気分が感じられる立候補者には比較的好意が持てるが、

自分で自分を謀っているように見受けられる立候補者には関心が湧かない。


願わくは、立候補者たちが、お手軽なストーリーを捏造してカタルシスを得ているような人たちでないことを望む。

表に出す必要はないが、内面では悩みとおして右往左往している立候補者であってほしい。


選ぶ側の私も、彼らの話を理解できるくらい賢く、彼らの本性を見抜けるくらいの審美眼をもたないといけないということだが。


どっちも非現実的な気もする。



***


ともあれ、

アフガニスタンの大統領選挙は、8月20日、

日本の衆議院議員選挙は8月30日ということで

奇しくも同時期に両国で重大な選挙があるわけだ。


どんな結果になるのか、が気になるだけでなく、

選挙の結果を受けて、その後のアフガニスタン、日本の進んでいく方向に対して、
諦観と不安と、幾ばくかの期待がある。



アフガニスタン便り-渋いおじいさん
写真:ラクダ飼いのおじいさん。