こんにちは、児島です。


数年前から現地に持ってきていて、
じっくり通読しようと思いつつ、未だにできていない本に、


中井久夫 主著 「昨日のごとく」 (みすず書房) 


という本がある。

通読する時間は見つけられないが
現場で生活するにあたり折に触れ、
なんというのか、字引きのようにして拾い読みしている。


これは、神戸の大震災の記録書であり、
著者は、神戸大学の医学部精神神経科の教授の方である(当時)。

本著書は、同著者による「1995年1月神戸-「阪神大震災」下の精神科医たち-」という本の
いわば続編という位置づけで刊行されたようだ。

著者には「分裂病と人類」という、
”人類の歴史の中での精神疾患の意味”を問うという、スケールの大きな名著のある方で
(※現在は、分裂病とは言わず、総合失調症というべきなのだろうけれど、本の題名なのでそのまま表記した。

学生時代に読んだので、細かい内容は思い出せないがすごく大きな世界を見た思いがした。)
また、臨床医としても実践的にご活躍された方だと聞いている。

だから、
当然のことではあるが、ご自身のご専門では相当以上の造詣をお持ちの方であろうけれど、
(門外漢なので、どれほど著名な方か詳しくは存じ上げないけれど、)
そんな筆者が震災にあたり、
震災直後は精神科医による被災者支援を調整する役目を果たされ、
その後の1995年6月からは、公式に設置された「こころのケアセンター」の所長として勤務されるなど
震災支援の実践現場におられつづけた。




アフガニスタン便り-昨日のごとく
    写真:アフガニスタンに持ってきた「昨日のごとく」。

       背表紙が、アフガニスタンのきつい日差しのせいで、薄黄色に変色してしまった。


この「昨日のごとく」という本では、
これら震災以降の経験を、専門性にこだわらずに非常にリアルに描いている。
つまり、
決して、精神科医という視点だけで描写されているだけでなく、
あらゆる方面からの気づきが多岐にわたって日誌のように緻密に書き込まれている。
だから、読者は、
一般人としての被災者の目線も知る事が出来るし、
それと同時に、
”大災害直後において、精神科医として如何に行動していくか”という
支援活動の中での管理職的役割という定点からの視線も感じる事が出来る。

専門的な支援活動の記録の中には、
責任ある位置にあったことで直面することになった問題についても
少なからず、淡々と書き込まれている。


また、この本は、
章を追って読むごとに、震災からの時間が経過するように構成されていて、
その中では、
少しずつ論点が明瞭になる問題があったり、
ある時点でもなお、未整理な状態である問題があったり、
あるいは、絶えず繰り返し述べられることもあったりなど、
知見が様々な経時変化をしていくことも生々しい。


この本の書き振りが
私の現在経験している

支援地での、なんといえばいいのか、”リアルの拾い方”というようなところに

非常に呼応するところがあるのだ。


この著者が、もし今のアフガニスタンで活動していたら、
どんな受け止め方をされるだろうか。


私事になるが、私の実家は神戸にあり、
親類縁者も阪神地区に多く住んでいて、被災した知り合いも多かった。
私は、阪神大震災発生当時、東北地方に住んでいたが、
ボランティア活動を通して、発生後の現地を見ることができた。

だから、余計にこの本にリアリティを感じるのかもしれないが、
それを差し引いても、
物事のリアルを伝えるための活字媒体として、
この本は最高なものに属すると思う。



***



阪神大震災について、
以前誰かが、

”コミュニティがいまだに生きている神戸で起きたからこそ、トラウマを持つ人が少なくて済んだ、
もし、他の大都市で同じことが起きたらこんな程度ではすまなかっただろう”

という発言をしていた。

その真偽については、私には考える材料がないので分からないが、
この発言を聞いて以降、折に触れてこの発言を思い出すことが多く、
『”コミュニティ”の存在が災害や紛争と直面したときに見せる意義』
について考えることが多くなった。


そもそも”コミュニティ”っていうのは実体としてどういうものを指すのか、
”コミュニティ”というものが私の赴任する支援地でどんな役割を果たしているのか、
などということを考えることが今の私の癖になっている。


私が、このブログを通して、
アフガニスタンの現地で体験する経験のうち、
”コミュニティ”の色を強く出しているものについてよく書く傾向があるが、
つまりは、そういう動機から、”コミュニティ”について感じたり考えたりしたことを記してるわけである。


ただ、この癖は、決して
”現代において理想のコミュニティとはどんなものか”というような知的興味に起因するものではない。
私が現在考えることの中心は、


”水の絶対量の足りないアフガニスタンでの農業を

如何に継続的に・効率的に・人道的に(つまり公平で係争を最小限にして)に復興することができるか”


という命題であるので、
コミュニティについての興味も、
良きにつけ悪きにつけ現在存在しているアフガニスタンの社会の仕組みのなかで、
水を如何に上手く使用することが出来るかを考えるために大事だと思うからである。


ブログでは、治安問題に関する以外は
なるべく現地での面白可笑しい話を紹介したいと思っているが、
現地のコミュニティについて毎日見ていると、
とても上手く機能している点がある一方、、
腐乱しつくしたような、混沌とした封建的側面を垣間見ることもある。

そんなとき、
ついうっかり、”水資源の効率的利用”という命題に重心をおいて現場を理解しようとしていると
現実と”水資源の効率的利用”との乖離に悄然としてしまう。


しかし、その理解の仕方は多分不自然であり、
冷静に考えてみれば、”水資源の有効利用”というお題目のほうが
余りに現実離れしているわけだ。

”水資源の有効利用”というのは、
支援内容を表現するために必要なタームであるが、
けして実現が約束された実体を描写しているものではない。


ともあれ、私は今、
水資源管理を有効利用するために必要な手法の確立のために有効となるべき調査を行っているのであるが、
それに関わってくる現地のリアルは混沌としている。



***



私は、アフガニスタンで勤務する前は、
インドのグジャラート州での大地震、
アフリカのシェラレオネでの難民キャンプ、地方での井戸掘削、
アフガニスタン赴任後であったが丁度休暇中に発生した新潟県中部地震、
という3つの支援活動に携わった。


どの現場でも
(私の才能のなさも手伝ってであろうけれど)
混沌としていた。


「昨日のごとく」を読んでいて思うのは、

まず、
リアルの始まりは、まさに混沌であり、
その混沌を伝えるのには、
これだけの多量の記述が必要なのだ、ということだ。


著者は、学問の世界で生きる、しかも教授という管理職にいる人であるから、
普段の生活では、おそらく、
物事を整理整頓して総括し、出来るだけ簡潔に表現することが多いであろう、
と推測できるが、

そういう著者が、
現状を伝えるために書いたこの本は、
その手の、”分かりやすく端的な整理整頓”によって表現されたものではない。


めまぐるしく変わる状況、
それに対する細かい気づき、
時に反復される同じ解釈、


これらが本の中にランダムに登場するのだ。

しかし、それらは著者の主観という一本の線でつながれているから、
全く違和感なく理解できる。


この本の中では、

幾つかの特定の現象に対する意見が、あちこちで何度も繰り返し述べられている。
この繰り返しは、重要な点を強調するため、というような、

理路整然と整理された目的のもとで行われているのではなく、
『筆者が、どうしようもない必然性に迫られて繰り返し感じているからこそ、何度も記述された』

というように思える。

繰り返し述べることを、筆者は躊躇した、とあとがきで述べているが、
私のいるアフガニスタンでの現場では、
何度も同じ状況を見て感じることを反復していくうちに、

身に沁みてくることが多い。
物事を頭と身体に叩き込むためには、故意によるものでなく必然的な繰り返ししかない。
そこでは、

反復することによって、スキルが身につくということだけでなく、
反復に伴って理解のモードがグレードアップするような気がする。
繰り返しを嫌っていては、ただの理論家で終わってしまう。

反復こそ、混沌を理解するきっかけのひとつだと思う。


混沌とした現状と、
それを紡いでいこうという意思によって
「昨日のごとく」の中の多量の文章群が生まれた、

ということは、だから、
私には大いに意味があることだと思う。


私は、

「複雑なものは、まず複雑なまま描かなければいけない」と思っている。



***



一方、アフガニスタンでの仕事でも、日本での日常生活のなかでも
どうも、時間と効率性と情報量の多さなどの関係からか、
何事についても”端的に”報告されることが重視されているように思うが、どうだろう。


この状況は、ちょっと病的ではないか?と思っている。


例えば、すぐに記事にしなくてはならない新聞記者なら、
混沌を整理整頓して伝えることはノルマだからしかたがないが、
支援をしている事業担当者が
消化不良のまま、混沌とした現状を無理に整理整頓してしまうことは、
リアルを頭の隙間からこぼれさせてしまう。
こぼれていったリアルに、現地の当事者が不感症になったら、だれがリアルを拾うのだろう。


例えば、

先ほど述べた”水資源の有効利用”というタームを

”すぐにでも実現可能なもの”と思い込めば
混沌には蓋をしてしまうしかなくなる。

整理整頓されたドグマの始まりだ。


例えばアフガニスタンでは、
常に評価が定まらぬ流動的事態を相手にしているのに、
都合のいい情報と数字とを駆使して”端的に”報告するようなことが、
現地政府の人間にも、支援者としてやってきている外国人にも多い気がする。
自戒も含め、先進国の人間は、どうも、強引な整理整頓をしてしまう気がする。

成果についての報告書の締め切りのせいもあろうが、それだけではなかろう。

水が低きに流れるように、たやすく整理して安心したいのかもしれない。


水資源管理に関して言えば、
アフガニスタンの開発戦略を総括した

”Afghanistan National Development Strategy”(ANDSと呼ぶ)の中で
水資源管理に関する部分を読んでみると、
”Integrated Water Resource Management ”やら
”River Basin Authirity”やら
”Supreme Council for Water Affairs Management”といった
整理整頓されつくしたタームが飛び交い、
普通に読めば、もう明日にでも有効な水資源管理が実現しそうな気がするだろう。


もちろん、アフガニスタン政府機関や援助機関のなかで管理職についている者が
物事を整理せずにいたら何事も進まないだろう。
また、政府機関高官が

水資源管理全体を統括するスキームを示すことが必要であることには、疑いの余地は無い。


しかし、行き過ぎた”整理整頓”は、問題点を不明瞭にして、将来に禍根を残してしまうと思う。
早い話が、

立派な報告書は出来合っているが、

事業の中身をみたら空っぽである、というものも多い気がする。


国連の要職や政府高官の場合はともかく、
少なくとも支援の最前線にいる者にとって、
物事を整理整頓しつくすことが
メインの仕事であっていいのか?という疑念がある。
現状を拾い上げていくことのほうが今は大事なのではないか、とも思う。



***


”整理整頓”についても
この本には学ぶべき点が多い。


『混沌を如何に咀嚼すればよいのか。
どこまでは”判断の留保”をすべきなのか。』


この問いに対するヒントを、この本は含んでいるように思う。


混沌を混沌のまま捉え続けることは、

多大な精神力が必要でありかなり難しいことである。


それは、
コンパスの利かない霧の続く山道を歩き続けるようなものである。
閉鎖社会でもあるアフガニスタンでは、

何につけても、全体像の見通しがよいときなどほとんど無い。ずっと霧に包まれている気がする。

じっとりと霧が服に沁みて重くなり体温が下がっていくような気がすることがある。
だから少しでも早く霧を吹き飛ばしたい、と焦る。

整理整頓することは、支援の最前線にいる者にとっても、非常な誘惑でもあるのだ。


しかし、混沌を拾い上げて咀嚼するための機能は、
アフガニスタンには余りにも乏しい。
政府は未だ機能しているとは言えず、

村落は閉鎖的で、

大規模な支援は、分かりやすい成果が期待できるものに集中しがちだ。

だからこそ、NGOのような現地密着型の支援でしか拾えないリアルが沢山あるのだ。


水資源調査という、混沌から事実を拾い上げるための仕事をしている私は、
だから、

ここで踏みとどまって、
整理整頓の前で留保する器量がほしい。





アフガニスタン便り-現場仕事
                写真:水資源調査を行うPWJスタッフ。