こんにちは、児島です。


この間ここでも書いた、鎖骨治療の抜糸が今週終わり、傷はふさがった。
現地に戻る日も近くなってきており、現在その準備をしている。
手術をしたために、11月下旬に日本に一時帰国してから1ヶ月以上滞在することになってしまった。
現場仕事に心配はあるが、現地スタッフがよく働いてくれているのでとても助かっている。


日本にこれだけ長くいると、
自分のアフガニスタンへの視点が、いい意味でも悪い意味でも巨視的になっていくことに気がつく。
これまでこのブログに書いていたような、
人道支援という立場や、日本の国益という立場などでアフガニスタンのことを考える際に、
どうしても巨視的な見方になっていく。

たとえば、日本で新聞をめくりながらアフガニスタンについて考えていると、
”アメリカから、こんなに強くアフガニスタンへの軍事支援を要請されていてどうせ断れないのならば、

この不況下でアメリカは国債を大量発行するから、

軍事支援への支出分だけアメリカ国債を引き受けてチャラにしてもらって

それとは別に、真に身のある民生支援をじっくりやればいいのではないか?”

などと、漫画のようなことも考えてしまった。

この例は、巨視的、というより多分に漫画のようなパズル的発想であるが、

とにかく、巨視的な考え方は、往々にしてパズル的発想に陥りやすい、とは言えると思う。


巨視的な見方をするのは、

どうしても、アフガニスタンに関して耳に入る事柄が、
現地から遠い日本のメディアを通したものが多くなるからであろう。
メディアを通すということは、

好むと好まざるとに関わらず、フィルターがかかってしまうことである。
日本において得られるアフガニスタンなど、遠方に関する情報は
メディアのフィルターを通してしまうと、

極端に言うと、
金額などに関する数値情報と、大きなスキームに関する情報に偏るように思われる。
たとえば
”アメリカが、3万人増派することを検討している”
”アフガニスタン政府がタリバンとの交渉を模索している”
昨日のニュースでは

”日本政府がアフガニスタンへ民生支援を5億ドル行うことを検討している”

さらに、今日7日のニュースでは
”日本政府は、韓国と協力してアフガニスタンの民生支援を行うことを検討している”
などである。

日本のメディアでアフガニスタンについて報道するには、紙面も時間も予算も限られているからしょうがないことではあるし、

また、

大まかな情報が非常に有益な場合は多いし、大勢を決めるきっかけになり得る動きではある。

しかし、これだけだと、なにか欠落している気がしてくる。


この”大局を捉える”ということについて、思い出す話がある。
それは、ずいぶんと前、多分1980年代後半ごろか90年代初めに知人に聞いた話である。
どんな話だったかというと
”外国の経済人が日本に来ると、
日本人の重要な経済界の人間が、すべて日本経済新聞を読んで、
その記事内容に少なからぬ信頼をおいて、それを参考にしながら経営判断をしている、
ということに驚く、或いは奇異に感じることがある”
という話である。

この話を聞いた当時の状況は、勿論、情報化社会が一層進んだ現在とは変わっているし、
当時でも、この話がどれだけ実際を言い当てていたかは私には解らないが、
プレーヤーがみんな、偏った情報源を元に動いている、おかしさをその外国人は言いたかったようだ。


この話を、アフガニスタンの報道に敷衍して考えた場合、ひとつ確かなことは、
情報伝達の末端にいて知見を得るしか方法がない場合においては、
”ずっと情報の流れの下流にいると、非常に単純化されたパズルのような理解しかできなくなるのではないか”
という危惧があるということと、

当然のことであるが、
”情報源が少ない場合、もしその内容に誤りがあれば、判断に致命的に影響してくるだろう”
ということである。


たとえば、”タリバン”という集合名詞について考えてみる。
日本で”タリバン”といえば、
非常に固定的な集団に対する呼称となっている。

しかしそれは間違った理解である。
もちろん、日本で手に入る知見の中には、
”タリバンとは、決して一枚岩ではなく、主義主張などからみるとタリバンの中には様々な集団がいる、

かれらの活動から考えれば、タリバンと通常の住民との境界線も曖昧だ”
という、リアリスティックな情報も散見できるが、
おしなべて見れば、”タリバンとは、非常にしっかりとまとまった集団”という印象が拭い去られていない。

なんといえばいいのだろうか、
私なりに表現するならば、
「一度”タリバン”と名前をつけてしまうと、名前をつけた時点で、思考がその呪縛にかかってしまう」
ような気がする。
この呪縛は、現地にいてもある程度影響するだろうが、
現地にいれば、もっと生々しいニュースが日々耳に入るので
”タリバン”という集合名詞が指し示す中身が、
どれだけ不均質なものか、非常にゆるい共通性しかもっていないのか、が普通に解ってくる。
たとえば、それは、
現在の日本において、
”自由民主党”という呼称が、”どれだけ色々な考えを持った集団をまとめて言い表しているか”、は、
麻生首相を指示する議員、異を唱える議員、その異の唱え方の色々、を見ていれば、
日々のニュースから、多少ではあるが解ってくるようなものである。
もちろん、

”政治の内情なんてものは、本当は新聞だけでは解るはずもないだろう”

という正しい憶測も含めてのリアリズムである。

つまり、”タリバン”という固定概念を持つことへの躊躇、留保が自然と身についている。


タリバン、という呼称だけでなく、

アフガニスタンの現状について言えば、

ISAF(国際治安支援部隊)、PRT(地方復興支援チーム)などと言った、日本で議論されるときに一人歩きしているコトバについて

日本の政策決定者がどれだけ、言葉のパズルと呪縛から自由なのか、心配になるときがある。


巨視的な立場、とは大局を考えるためには重要なものだが、
特に、アフガニスタンのような、
関係するアクターが多種多様で、それぞれの衰勢が非常に流動的である場合は、
上で述べたような、パズル的見方をしていると事実を見誤るに違いない。


***


治安問題に不安があるアフガニスタンである。
今年は、アフガニスタン大統領選挙もあり、タリバンの攻勢がどのように変化するか、予断はできない。

事実を見誤ることは、我々の活動の遂行自身に関わってくるので

見誤らぬよう、
これまでの現場での活動などを頭に思い出し、イメージをとりもどしつつ、
気を引き締めて、現地に帰任したいと思う。




アフガニスタン便り

 写真:水資源調査で山岳域に行っているときに、車両が故障して立ち往生。