こんばんは。児島でございます。


今日はこちらの暦でいえば、正月二日です。

このサリプルという田舎町にも

どことなく、のんびりした雰囲気が漂っています。


夕方5時ごろ、オフィスの土塀の外から、

げらげらと笑う

子どもの遊ぶ声が聞こえてきました。



私にとって

夕方の子どもの遊び声というのは、

特に、幼少時の夕方に遊んだ気分がこころに残っているからか、

現地の子どもが日本語でしゃべってるわけでもないのに、

どうしても、日本語のように聞こえてしまい、

何を言ってるか自然とわかるような気分になってきます。

私はシェラレオネにも赴任していたことがありますが、

なぜかわかりませんが、アフガニスタンではこの思い込みの傾向が強いです。


(ここに、録音してみた子どもの遊び声

-まるで日本語のように聞こえる遊び声-

を貼り付けようと思ったのですが、載せれませんでした。

音声データは貼り付けたりシェアしたり出来ないのでしょうか。

載せ方知っている方、ご教授下さい。)


愉しそうに騒いでいるので

何をしてるのかな、と外に出てみると、

顔見知りの隣家の姉弟妹がいつものようにじゃれあってました。



近所の子

       遊んでいた姉弟妹


左から、

アレン君、サミンちゃん、

アディサちゃん(坊主頭ですけど女の子です、正月には男女を問わず坊主頭にする子が多いです)。

お正月とあって、女の子二人は、ちょっといい服を着ていました。


*  *  *


この正月には、わがサリプル事務所に

UNDP(国連開発計画)関連の職員が

調査業務のため連泊しています。

(サリプルには、国際スタッフが安全に泊まれるところがないものですから、

ときどきこのようなお客が来られます。)


彼らはカブールから来ているのですが、

彼らとご飯を食べながら話していた中で、

こちらでは時々耳にする以下のような誘拐の話を聞きました。


*  *  *


在カブール某大使館の入り口のゲート近くにいつも遊びに来ていて、

その大使館勤務の駐在職員にダリ語を教えてくれたり

いろいろ仲良くしていた10歳くらいの女の子が

突然いなくなり、

調査の末、誘拐されたということがわかったようです。

とても残酷な話なのですが、

隣国で不法に臓器移植を行っている医療機関へ臓器を提供するバイヤーに誘拐されたらしいということです。

もっぱらの噂では、パキスタンで腎臓が高く売れる、つまり臓器の市場があるということです。


カブールだけでなく北部でも、

臓器や人身売買目的の誘拐は時折報道されています。
サリプル州の更に奥地の村でも、

子どもの日課である水汲みに行く折は、

片道の所要時間3時間もかかるため、

いつも大人が一人ついていく、というところがあります。


*  *  *


酷い話というのは、

日本のニュースでも耳にする機会がありますが、

いつも聞くたびに、

どんな心で考えればいいのか、全く思いつきません、祈るしかありません。


特にアフガニスタンでは、

酷い話を耳にする機会は多く、

私は、

恥ずべきことかもしれませんが、

日常業務の中では出来るだけ考え込まないようにしようとしています。

しかしやはり、

こういう話を聞くたびに、

なんという人生なんだろうか、と、

穴があいてしまうような、

つまり、

それを聞き知ってしまった単なる一個人としての私には

ただ惻隠という条件反射が現れるばかりで、

ただただ呆然・暗然としてしまいます。


(きっとこういうときのために

宗教というものがあるともいえるかもしれません)


*  *  *


アフガニスタンでは、諸説ありますが、

1978年以来内戦で犠牲となったアフガニスタン人は150~200万人ということです。

そして1978年当時の人口は1300万人程度といわれています。

10%以上が犠牲になったということでしょうか。

一方、

日本では満州事変から太平洋戦争の終了までに、

戦闘員・民間人合わせて、約300万の方が犠牲になられたといわれています。

その当時の日本の人口は7000万人ぐらいでしょう(正確な数字ではないかもしれません)。

国民の4%もの人が犠牲になったということでしょうか。


悲劇の多寡を亡くなった方の数や割合で表すのは不謹慎であるかも知れませんが、

人口に対する犠牲者の割合を、

各個人の周辺に存在する悲劇の多さとして考えれば、


私の祖母や両親の世代が語ってくれるむごい戦争の話、

それに匹敵するかそれ以上の惨状が

アフガニスタンにあったということだと想像されます。


現地スタッフや村人が、

ことさらに悲しむわけでもなく淡々と話す悲惨なの話の背景には

そういう大きな趨勢があるということです。

そして、上記のような内戦中と変わらぬ異常と言うべき悲しい事件、

政情が不安定だからこそその発生を許してしまう痛ましい事件は、

数は減っているけれどいまだ続いているのです。


*  *  *


まずは

自分の周辺だけは、

つまり、たとえば、

アレン君、サミンちゃん、アディサちゃんらには

そういうことがないように、と思いますけれど、

大きな時代の流れの中でおきる個人の悲劇に対して

別の個人としての私が、

どのように抵抗することが出来るかといえば、

当然ながら無力です。

それは日本にいても同じ気持ちになりますが、

支援活動のために現地で生活していても、

まったく手も足もでない、という気がします。


(だからこそ、現地政府と国際的な支援との協調のもと、

あまたある支援事業の一つ一つが積み重なって相互に関連させながら、

速やかな政府機能の復興、治安・政情・経済の安定を目指しているのです。

自分の仕事もその一助になるようにと、仕事しているわけですけれども。)


現地で出会う国連などで働く援助業界の人の中には

おどろくほど淡々と、

感情移入をしないで仕事をこなしている人がいます。

その姿勢は、

明快な割り切りをもっているので力強いです。

しかしときおり

そういう人の中の一部の人には

一見説得力があるように思えるけれど、

何か私には少し違和感をともなう、

落とし穴のようなうつろな印象を与える人がいます。


うつろになることが、現地の状況に適応することなのか?、

という批判的な疑問が湧いてくるわけですが、

翻って、酷い事実を前に呆然・暗然している私も、実は同じなのかもしれません。

だからといって

若輩の私は

どのようなこころの姿勢で

現地での日常業務を続けていくべきか、今人に言える言葉はありません。

とりあえず、よくわからんが、ガッツで乗り切ろう、と思うだけです。


こういうときは

戦争中から戦争直後の時代を生きた

たとえば、現在70才前後の日本人の皆さんから

広く教えを請いたい気持ちになります。



児島