さて、昨日はIWPRの記事をご紹介しました。
本日は「Kevin Sites」というジャーナリストがYahoo!の企画で一年間、紛争地を巡り、レポートを行い、「Kevin Sites in the Hotzone 」という企画の一環で書かれたアフガニスタンの「幼い花嫁」という記事をご紹介します。
http://hotzone.yahoo.com/b/hotzone/20060320/hz_afghanistan_0306/blogs2986
この記事は何度読み返しても泣いてしまいます。
是非原文の写真を見ながら訳文を読んでいただければと思います。
幼い花嫁
4歳の時に嫁がされ、何年もの虐待に遭った女の子は、遂に逃亡し、暴力の溢れるこの世の中にも、善意があることを知った。
2006年3月20日、6:51 PM ET
作者: ケヴィン・サイツ
翻訳: 平井 礼子
【アフガニスタン・カブール】11歳のグルソマは義父の前に倒れていた。行方不明になった腕時計を翌日の朝までに見つけなければ殺す、と脅された。既に半殺しにあっているようなものだったが。
グルソマの義父は、なくなった腕時計に逆上し、棒で彼女を何度も殴った。身体中にできた傷跡から血が流れ、右腕と右足が骨折していた。
彼女は、逃げなければ本当に殺される、と悟った。
* * *
女性省で初めてグルソマと会った時、現在12歳になる少女がこんなひどい苦難に遭った子には見えなかった。赤いベースボール・キャップとオレンジ色のスカーフをかぶっていた。済んだ茶色い瞳と快活な笑顔の持ち主だった。彼女は躊躇することなく、私の手を両手で握り、挨拶をした。
私の友人でもある通訳のハルーンは、「健康そうだね。」と言い、僕は相槌をうった。しかし、彼女が年齢よりも大人びて見えるという印象を受けた。考えようのない監禁と虐待から逃れて約1年間、カンダハール、そしてカブールの孤児院で回復の時を過ごした。
女性省の事務所の椅子に腰掛け、彼女は今までの人生を語ってくれた。時折涙を拭う以外は、冷静な語り口だった。
彼女の人生はカンダハール近くのムラ・アラム・アクーンド村に始まる。
「私が3歳の時、父親が亡くなりました。その翌年、母親は再婚しましたが、その新しい夫は私を欲しがらなかった。だから母親は当時30歳だった隣家の長男の嫁として私を嫁がせてしまったのです。」
「馬に乗せられて、相手の男性の家に嫁ぐ、という婚礼儀式[アフガニスタンの伝統的な習慣]も行われました。」
まだ子どもだったため、夫との性交渉こそ強いられることはなかったが、奴隷同然の扱いを受けることを嫁いで1年も経たないうちに気づいた。
5歳になった頃には、「夫」だけでなく、義父・義母とその12人の子どもたち、一家の世話を行わなければならなかった。
嫁ぎ先一家のほぼ全員が虐待に加担した。が、彼女が言うには、義父が最も残忍だった。
「義父は私に何でもやらせました。洗濯から家事まで。家の中で眠ることができたのは、来客があるときくらいでした。」、と彼女は語る。「それ以外は家の外で、毛布もなく、絨毯の切れ端の上で寝かされていました。夏はまだ良かったんです。冬は、哀れんでくれる近所の人が毛布や時々ご飯を与えてくれました。」
言いつけられた通りに家事が終わらないと、虐待された。
「電線で主に足などを殴られました。義父は子どもたちに『傷跡が外から見えないようにやれ。骨は折っても顔は殴るな。』と指示していました。」
このひどい虐待も、時にはサディステックな程にエスカレートすることもあった。彼女をうつぶせにし、ナイフを使って食料を彼女の背中で調理した時のように。
嫁ぎ先の家には、アティクラという同年代の男の子がいて、彼が唯一虐待に加担することがなかった。
「時々ごはんをこっそりと運んできてくれたし、義母が殴ってやりなさい、と彼に命じた時も『探したけど、いなかった。』と言ってごまかしてくれたこともありました。時々間に入って虐待を制止しようとしてくれたこともありました。彼は『彼女は僕たちの妹だ。こんなことは罪だ。』と。今でも彼のことを思い出し、私の兄としてここに一緒にいてくれたら、と思うこともあります。」
ある晩、近所の人が彼女に食料と毛布を与えているのを見つけて逆上した義父は食料と毛布を取り上げ、彼女をボコボコに殴った。そして、推定2ヶ月間、小屋の中に監禁した。
「一日中そこに監禁されていました。夜は、トイレに行くために、少しの間だけ外にでることを許されました。ご飯は一日一回。大半の場合はパンのみで、時々豆が出されるくらいでした。」
小屋に監禁されていた時、毎日のように両親が助けに来てくれることを願ったそうだ。が、父親は亡くなり、母親はもういなくなってしまったことを思い出した。
しかし、義父にも理解しようのない精神力をグルソマは持ち合わせていた。
義父は小屋に来てては「お前はなんで死なないんだ。監禁して、飯も食わせていないのに、なんで死なないんだ。」と聞いたそうだ。
彼らは彼女を殺さんばかりの行為をしなかったわけではなかった。漸く小屋から解放したと思ったら、手を背中の後ろで縛り、意識を失うまで殴った。目を覚ませるために、熱湯を頭と背中にかけた。
「痛くて、痛くて。」とスカーフで涙を拭きながら彼女は言った。「ずっと泣きわめいていました。」
五日後、娘の腕時計がなくなった、と再びひどい虐待を受けた。
「私が盗んだんだと思われたんです。身体中を棒で殴られました。腕と足を折られました。翌日までに腕時計が出てこなかったら殺す、と脅されました。」
* * *
その晩、家からこっそりと抜け出し、馬車の下に隠れた。馬車の持ち主が、骨折して血だらけの彼女を見つけた。彼女の悲惨な話を聞いた持ち主は、彼女を警察に連れて行った。その場で彼女は入院させられた。
「病院で治療をしてくれたお医者さんは『こんなことが二度と起こらないように、君を村の中心に連れて行って、こんなにひどい目にあった子がいる、という事実を伝えたいくらいだ。』と言っていました。」
最後の虐待から回復するのに丸々1ヶ月を要した。しかし、虐待の恐怖とトラウマからの完全な回復は一生ないかもしれない。
「病院にはベットもあったし、ご飯もあったので、安心できました。でも、回復したらあの家族の下に帰されるのではないかと恐れていました。」
警察がその一家に事情聴取しに行った時、義父は、グルソマはてんかんの発作で転んで怪我をした、と嘘をついた。しかし、近所の人がグルソマが虐待に遭っていた事実を報告した。
警察は、義父と「夫」を逮捕した。警察は彼女が良いと言うまで彼らを拘束する、と約束したそうだ。
「私の話を聞いた人は皆泣いてくれました。」
彼女はしばらくの間、カンダハールの孤児院で保護された。しかし、そこでは唯一の女の子だった。そのうち、彼女の境遇を女性省が耳にした。
その後、グルソマは現在生活している、カブールの孤児院に保護された。
ベースボール・キャップを取り、髪の毛のない頭のてっぺんを見せてくれた。頭の上から熱湯を注がれた時の火傷の跡だ。
そして私達に背を向け、シャツを上げると、熱湯、打撲、切り傷のケロイドだらけの背中を見せてくれた。
ハルーンと僕は互いを見合った。彼女の背中に描かれた、信じがたいほど悲惨な人生に驚きを隠せなかった。
しかし、彼女は笑顔のまま。同情をもらおうとはしない。むしろ僕たちの隠しきれないショックの表情を気にかけているようだった。
「今はだいぶ回復しました。孤児院にも友達がいます。でも、毎晩あの一家が私を引き取りに来るんじゃないかと恐れていますが。」
日が暮れると、全身の震えが止まらないことがあるそうだ。砂漠気候の厳しい寒さで7年間、外で寝させられていた過去を身体が覚えているのだ。
同じような思いをしている女の子はカンダハールやアフガニスタンの他の場所にいるのではないか、将来人権の勉強をして、そのような子を助けたい、と彼女は語る。
最後に写真撮影のために屋外にでた。こんな思いをしたら、人を信用できなくなるんじゃないか、と聞いてみたところ、「そんなことはないわ。」と彼女は即答した。
「神以外に救いはないと思っていました。でも、近所の人、馬車の持ち主、警察が私を助け出してくれたんです。私を解放してくれた人に感謝しています。」
カメラを直視し、何事もなかったような笑顔を見せる。
「人間はみんな良い人だと思うわ。私を傷つけた人たち以外は。」
以上
本日は「Kevin Sites」というジャーナリストがYahoo!の企画で一年間、紛争地を巡り、レポートを行い、「Kevin Sites in the Hotzone 」という企画の一環で書かれたアフガニスタンの「幼い花嫁」という記事をご紹介します。
http://hotzone.yahoo.com/b/hotzone/20060320/hz_afghanistan_0306/blogs2986
この記事は何度読み返しても泣いてしまいます。
是非原文の写真を見ながら訳文を読んでいただければと思います。
幼い花嫁
4歳の時に嫁がされ、何年もの虐待に遭った女の子は、遂に逃亡し、暴力の溢れるこの世の中にも、善意があることを知った。
2006年3月20日、6:51 PM ET
作者: ケヴィン・サイツ
翻訳: 平井 礼子
【アフガニスタン・カブール】11歳のグルソマは義父の前に倒れていた。行方不明になった腕時計を翌日の朝までに見つけなければ殺す、と脅された。既に半殺しにあっているようなものだったが。
グルソマの義父は、なくなった腕時計に逆上し、棒で彼女を何度も殴った。身体中にできた傷跡から血が流れ、右腕と右足が骨折していた。
彼女は、逃げなければ本当に殺される、と悟った。
* * *
女性省で初めてグルソマと会った時、現在12歳になる少女がこんなひどい苦難に遭った子には見えなかった。赤いベースボール・キャップとオレンジ色のスカーフをかぶっていた。済んだ茶色い瞳と快活な笑顔の持ち主だった。彼女は躊躇することなく、私の手を両手で握り、挨拶をした。
私の友人でもある通訳のハルーンは、「健康そうだね。」と言い、僕は相槌をうった。しかし、彼女が年齢よりも大人びて見えるという印象を受けた。考えようのない監禁と虐待から逃れて約1年間、カンダハール、そしてカブールの孤児院で回復の時を過ごした。
女性省の事務所の椅子に腰掛け、彼女は今までの人生を語ってくれた。時折涙を拭う以外は、冷静な語り口だった。
彼女の人生はカンダハール近くのムラ・アラム・アクーンド村に始まる。
「私が3歳の時、父親が亡くなりました。その翌年、母親は再婚しましたが、その新しい夫は私を欲しがらなかった。だから母親は当時30歳だった隣家の長男の嫁として私を嫁がせてしまったのです。」
「馬に乗せられて、相手の男性の家に嫁ぐ、という婚礼儀式[アフガニスタンの伝統的な習慣]も行われました。」
まだ子どもだったため、夫との性交渉こそ強いられることはなかったが、奴隷同然の扱いを受けることを嫁いで1年も経たないうちに気づいた。
5歳になった頃には、「夫」だけでなく、義父・義母とその12人の子どもたち、一家の世話を行わなければならなかった。
嫁ぎ先一家のほぼ全員が虐待に加担した。が、彼女が言うには、義父が最も残忍だった。
「義父は私に何でもやらせました。洗濯から家事まで。家の中で眠ることができたのは、来客があるときくらいでした。」、と彼女は語る。「それ以外は家の外で、毛布もなく、絨毯の切れ端の上で寝かされていました。夏はまだ良かったんです。冬は、哀れんでくれる近所の人が毛布や時々ご飯を与えてくれました。」
言いつけられた通りに家事が終わらないと、虐待された。
「電線で主に足などを殴られました。義父は子どもたちに『傷跡が外から見えないようにやれ。骨は折っても顔は殴るな。』と指示していました。」
このひどい虐待も、時にはサディステックな程にエスカレートすることもあった。彼女をうつぶせにし、ナイフを使って食料を彼女の背中で調理した時のように。
嫁ぎ先の家には、アティクラという同年代の男の子がいて、彼が唯一虐待に加担することがなかった。
「時々ごはんをこっそりと運んできてくれたし、義母が殴ってやりなさい、と彼に命じた時も『探したけど、いなかった。』と言ってごまかしてくれたこともありました。時々間に入って虐待を制止しようとしてくれたこともありました。彼は『彼女は僕たちの妹だ。こんなことは罪だ。』と。今でも彼のことを思い出し、私の兄としてここに一緒にいてくれたら、と思うこともあります。」
ある晩、近所の人が彼女に食料と毛布を与えているのを見つけて逆上した義父は食料と毛布を取り上げ、彼女をボコボコに殴った。そして、推定2ヶ月間、小屋の中に監禁した。
「一日中そこに監禁されていました。夜は、トイレに行くために、少しの間だけ外にでることを許されました。ご飯は一日一回。大半の場合はパンのみで、時々豆が出されるくらいでした。」
小屋に監禁されていた時、毎日のように両親が助けに来てくれることを願ったそうだ。が、父親は亡くなり、母親はもういなくなってしまったことを思い出した。
しかし、義父にも理解しようのない精神力をグルソマは持ち合わせていた。
義父は小屋に来てては「お前はなんで死なないんだ。監禁して、飯も食わせていないのに、なんで死なないんだ。」と聞いたそうだ。
彼らは彼女を殺さんばかりの行為をしなかったわけではなかった。漸く小屋から解放したと思ったら、手を背中の後ろで縛り、意識を失うまで殴った。目を覚ませるために、熱湯を頭と背中にかけた。
「痛くて、痛くて。」とスカーフで涙を拭きながら彼女は言った。「ずっと泣きわめいていました。」
五日後、娘の腕時計がなくなった、と再びひどい虐待を受けた。
「私が盗んだんだと思われたんです。身体中を棒で殴られました。腕と足を折られました。翌日までに腕時計が出てこなかったら殺す、と脅されました。」
* * *
その晩、家からこっそりと抜け出し、馬車の下に隠れた。馬車の持ち主が、骨折して血だらけの彼女を見つけた。彼女の悲惨な話を聞いた持ち主は、彼女を警察に連れて行った。その場で彼女は入院させられた。
「病院で治療をしてくれたお医者さんは『こんなことが二度と起こらないように、君を村の中心に連れて行って、こんなにひどい目にあった子がいる、という事実を伝えたいくらいだ。』と言っていました。」
最後の虐待から回復するのに丸々1ヶ月を要した。しかし、虐待の恐怖とトラウマからの完全な回復は一生ないかもしれない。
「病院にはベットもあったし、ご飯もあったので、安心できました。でも、回復したらあの家族の下に帰されるのではないかと恐れていました。」
警察がその一家に事情聴取しに行った時、義父は、グルソマはてんかんの発作で転んで怪我をした、と嘘をついた。しかし、近所の人がグルソマが虐待に遭っていた事実を報告した。
警察は、義父と「夫」を逮捕した。警察は彼女が良いと言うまで彼らを拘束する、と約束したそうだ。
「私の話を聞いた人は皆泣いてくれました。」
彼女はしばらくの間、カンダハールの孤児院で保護された。しかし、そこでは唯一の女の子だった。そのうち、彼女の境遇を女性省が耳にした。
その後、グルソマは現在生活している、カブールの孤児院に保護された。
ベースボール・キャップを取り、髪の毛のない頭のてっぺんを見せてくれた。頭の上から熱湯を注がれた時の火傷の跡だ。
そして私達に背を向け、シャツを上げると、熱湯、打撲、切り傷のケロイドだらけの背中を見せてくれた。
ハルーンと僕は互いを見合った。彼女の背中に描かれた、信じがたいほど悲惨な人生に驚きを隠せなかった。
しかし、彼女は笑顔のまま。同情をもらおうとはしない。むしろ僕たちの隠しきれないショックの表情を気にかけているようだった。
「今はだいぶ回復しました。孤児院にも友達がいます。でも、毎晩あの一家が私を引き取りに来るんじゃないかと恐れていますが。」
日が暮れると、全身の震えが止まらないことがあるそうだ。砂漠気候の厳しい寒さで7年間、外で寝させられていた過去を身体が覚えているのだ。
同じような思いをしている女の子はカンダハールやアフガニスタンの他の場所にいるのではないか、将来人権の勉強をして、そのような子を助けたい、と彼女は語る。
最後に写真撮影のために屋外にでた。こんな思いをしたら、人を信用できなくなるんじゃないか、と聞いてみたところ、「そんなことはないわ。」と彼女は即答した。
「神以外に救いはないと思っていました。でも、近所の人、馬車の持ち主、警察が私を助け出してくれたんです。私を解放してくれた人に感謝しています。」
カメラを直視し、何事もなかったような笑顔を見せる。
「人間はみんな良い人だと思うわ。私を傷つけた人たち以外は。」
以上