実は身近なもの、「死」 | NGOピースウィンズ・ジャパン スーダン駐在スタッフのブログ ナイルでまいる!南スーダン“こにょこにょ”レポート

実は身近なもの、「死」

この南スーダンに居ると、とても身近に感じてしまうものがあります。

それは「死」です。

とか書いてしまうと、何かネガティブな話のようですが、必ずしもそうではありません。



かつての日本もそうだったのでしょうが、ここの人々は人や動物が「死ぬ」という事実を、ごく自然に受け入ている気がします。当然ですが、人は時に肉を食べます。そして、その事柄は当然のことながら、何かの「死」の上に成り立っています。我々の事務所があるボータウンの市場を覗いてみると、そういうことを直接的に感じることができます。肉を売っている台の上には、肉と共に、眼を剥いた牛の頭が置いてあります。台の後ろにはたくさんの臓物が壁にひっかけられています。そして、その一帯には、肉の匂い、すなわち死臭が強烈に漂っています。非常にわかりやすく、「ああ、ここではこの頭だけとなった、この牛のお肉が売られているんだなぁ」と、肉とは動物が死んだ体の一部なんだと、否が応でもでも理解させられることになります。



井戸の掘削でフィールドにいる際には、ヤギをよく食べます。事務所の敷地にヤギがつながれていると、なんとなく水をやったり落ち葉を食べさせたりします。そういう風に世話をしていても、次の日にはお肉となってスープに浮かんでいるのです。まさに昨日の友は、今日の肉。生きるということは、何かを奪っていくということです。この場合ヤギがこの世から居なくなることで、肉が手に入りました。生きるということが自然であるならば、奪うことも、奪われることも、当たり前に受け入れるべきことなのです。



さて、人の死はどうでしょうか。これも南スーダンでは身近にあるものだと言えます。おそらく平均寿命がかなり短いことや、紛争の犠牲者が多いこともあってか、見ていると人々は人が死んでいなくなることにあっけらかんとしているような感があります。ここ、ジョングレイ州では民族紛争や反乱軍に関連する事件がしょっちゅう発生します。その度に亡くなる人の数も相当なものです。去年一年間だけで、2000人弱もの犠牲者がでています。



当たり前ですが、ここの人々も、死を悲しんだり、怖がったりすることはあります。しかし、現代の日本でのイメージのように、「死」というものは、何もないところから突然ぽっと現れて、人をさらってしまうトンビのようなものではありません。そこにずっと初めから存在していたものが自然に目覚め、動きだす、そのようなイメージなのではないかと思います。だから、自然にそれを受け入れることができるのではないでしょうか。



言わば、「死」は「生」の対照ではなく、いつもそこに居て、「生」は「死」を常に内含した状態なのだということです。きっと、誰もが「死」というものを背中におぶって歩いていて、ある時、疲れたのでそろそろ交代しようかねぇと、今度は「死」が「生」をおぶって歩き出す。そういうようなものが、本当の「生」と「死」の関係なのではないでしょうか。



今の日本のような、無菌状態ではこういう事を感じたり、考えたりするのは難しいのかもしれません。スーパーでパックされたお肉にはまったく「死」の匂いがしません。人間の死どころか、動物の死を目の当たりにすることも滅多にありません。確かに「死」を感じない生活は心地よいのかもしれません。でも、自分が背負っているものをずっと見ないように歩いて行くのって何か恐ろしくありませんかねぇ。



自衛隊のPKOが滞在しているジュバから、車で11時間更に奥地にいるとこういうような重いテーマを書いてみたくなりました。


今回のテーマに沿うような写真がないので、まったく関係ないアユッドの子供たちの写真をどうぞ。




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