幸福感 しみじみ
先日は、ローカルスタッフの親戚が亡くなって、たまたま船で遺体を故郷に返す時に遭遇しました。首都ディリから手漕ぎ船で3時間くらいのところにあるアタウロ島というところから体調が悪くなってディリの病院で手術を受けたけれど、何時間後かに亡くなったそうです。海辺には親戚が60人近く集まり、彼らは亡くなった老婦人の顔をなでたり悲しみの歌や泣き声を響き渡らせていました。
そしてその同じ日、秋葉原の通り魔事件について、インターネットで精神病理学など識者の分析を読みました。孤独と差別によって、自分の感情を受け止めてもらえる場所がなく、社会に対して攻撃的な感情を持ってしまった。というのが、どの分析者も捉えている点でした。彼の携帯からの書き込みを読んでいると、鳥肌が立ってくる。携帯からの書き込みで、誰と会話をしているのだろう・・・彼の供述によると「現実の世界で嫌なことがあっても、誰にも言えない。そのためネットの世界にのめり込むようになった。誰でもいいから構ってほしかった。」とのことでした。
同じ日にその2つのことに触れて、なんとも考えさせられました。そう、またしみじみしちゃったのです。
東ティモールの人びとには、バーチャルの世界は無いといって等しい。とにかく何かあれば、話して、群れて、誰かは誰かを知っていて、親戚やコミュニティー内でのコミュニケーション密度はハイレベルだ。外国人の自分が通りを一歩歩けば、会う人みんなに挨拶が必要だし、どこ行くの?何持ってるの?と毎回聞かれる。(最初は聞いてどうするんだろ?と不思議に思ったものですが。)・・・バーチャルの世界へ逃げる・・・そんな選択肢は無く、貧困や差別、歴史的なトラウマなどの現実と向き合い、時にそれらが彼らの許容範囲を越えて暴力で表現してしまう時もある。
東ティモールは人とのつながりが密だけれども、暴力がなくなる訳ではない。日本は物質的な水準はある程度確保しているものの、暴力がなくなる訳ではない。弱さ、惨めさ、悲しさ、そんな気持ちでも、自分を受け入れてくれる場所がある、というのは人が越えてはいけない一線を踏み留めさせる、そんな力がある気がします。
一人一人の幸福感を高めることはとても難しいことですね。互いの国から学べることがあるかもしれないですね。
モンゴリアン