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ここに西田哲学の人気があるのだ。尤もここから、反動的な「宗教復興」などのための依り処を引き出すことも、西田博士自身の、又人々の、自由にぞくするのだが。
「全体」の魔術
――高橋里美教授の哲学法
私は「『無の論理』は論理であるか」で以て、西田哲学の特色づけを行った。西田哲学がアカデミカルかジャーナリスティックかというようなことをムキになって喋っている人もいるが、問題はそんな処にあったのではない。博士の「無」の立場からは、多分哲学的な諸問題・諸関係の意義の解釈 は出来るだろうが、哲学的であろうとなかろうと、現実の問題は、実際問題 は、こういう形而上学的な解釈の立場と方法とでは解決出来るものではない、ということが要点だったのである。
 西田幾多郎博士の「無」の立場乃至方法と対比出来るのは云わば有 の立場乃至方法で、今日わが国でこれを代表するものは田辺博士である。田辺博士はその「絶対弁証法」(即ち Real-Ideal-Dialektik)によって所謂観念論的弁証法(ヘーゲル)と唯物弁証法(マルクス主義)との総合に到達出来ると考える。この田辺哲学の特色づけの一端も亦、私はかつて拙著『現代哲学講話』〔前出〕で触れて見たことがある。
 処で、弁証法と云えば、観念論的であろうと唯物論的であろうと、更に又絶対的なものであろうと、とに角それは運動・過程の立場に立っている。事物や世界や意識をその動態に於て把握しようとすればこそ、一般に弁証法という方法が必要になるわけだからである。