「フィリピン・マニラ南部にあるモンテンルパの刑務所で山下奉文を見た」

 

 事務所に2004年12月8日、1918年出兵し、

 台湾 高雄から、夜中に 出る船、出る船 ボカチン、ボカチン・・・

  夜が明け、すっかり明るいのに「行くぞー」

 

 ルソン島に向かった

 

 隅田川で、泳ぎが得意だったUさん。

 

 船が沈むときは、舳先真上で垂直に沈むと知ってたUさん。

 

 

 いざという時のため、甲板近くにいると

 

 「船底に居ろ!」ゞ 船底に降りろ!と

 

   ・・・

 

 ボカン!

 

 舳先に先に上ると、

 

 遠くにルソン島の島影が。

 

 

 島影目指し飛び込んだUさん

 

 

 着ていたもの全て脱いで、ひたすらルソン島めざし 

 

 

 浜辺に泳ぎ着くなりジャングルに逃げ込み

 

 

 死んだ兵士の軍服を剝ぎ、腰の生米も

 

 昼のジャングルは、機銃掃射、バリバリバリ・・・バリバリバリ・・・バリバリバリ・・・

 

  じっと ひれ伏し 、夜になると 民家に行き食料を盗む。

 

 

     ジャングルを逃げまどっていると、

 

 

      ある日、左後背部から、銃弾が「ウッ!!!」

 

 

       しかし、弾は体を突き抜けなかった

 

          ため、

 

       昼はじっと ひれ伏し 、夜になると 民家に行き食料を盗む・・・

 

 

       1週間ほどするとキズが膿み 高熱が出て動けなる

 

           小枝の皮をはいで、外科の「ゾンデ」を作り 左後背部から差し込むと

 

 

          ドドドッと膿が出る。

 

          すると、熱がスーッと下がって、・・・

 

        しかし、とうとう動けなくなったところを オーストラリア兵に見つかり、

 

       戸板に乗せられ、戸板の上で、サンドイッチを食べさせてもらい

 

       この時、初めて「日本は負ける!と思った」と。

 

 

          連れていかれたのは、モンテンルパ捕虜収容所。

 

 

           「処刑前の山下奉文を見た」

 

 

 

 

  生きて帰国、

 

  廓清術を繰り返し、東大病院で最後に・・・

 

 

  誰にも、話さず、「国民年金は掛け捨てになる」と年金もかけず、2億円で駅前の喫茶店を売却し

 

 

 商売しようと千葉県内へ、次々失敗し・・・

 

 

  

  私の事務所に迷い込んだ?認知症のUさんから、毎日毎日、聞き取り調査を繰り返し、

 

    原爆症認定裁判団長の医師に意見書をお願いし、千葉県に3月「従軍恩給爾後申請」提出。   

 

    本籍地→東京都→厚労省・・・一刻も早く支給するよう要請を繰り返し、

 

    同年8月15日、2か月分16万円、月8万円支給開始。

 

 

    彼の長年の友人で都内鉄鋼業社長も、大変驚き、彼を訪ね習志野に。

 

 

       JR津田沼駅にお迎えに行きお送りしました。

 

 

     読売新聞、他の記者も取材に

 

          ある政党幹部も驚き、「あの記事は、Uさんだったんですか!」と

 

 

 

「日本人は忘れてはいけません」

 

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小川尭洋

「日本人は忘れてはいけません」 宮崎駿さんが語った虐殺の歴史とは

 

 「アジアのノーベル賞」といわれるマグサイサイ賞を受賞した宮崎駿監督(83)が、フィリピンの首都マニラで16日に開かれた授賞式で、フィリピン人虐殺の過去を「忘れてはいけない」とするメッセージを寄せた。宮崎さんが「受賞の喜び」の代わりに伝えようとしたこととは――。

 マグサイサイ賞は1957年、当時のフィリピンの大統領の死去後に創設され、毎年、アジア地域で平和や社会のために尽力した個人や団体に贈られている。

 今年は、宮崎さんをふくむ4人と1団体が対象となった。式では、宮崎さんが平和や環境保全など多くの社会課題を題材にしてきたと紹介した上で「社会課題への理解を助けた」と称賛した。

 その後、スタジオジブリ取締役の依田謙一さんが、宮崎さんのメッセージを代読した。

《マグサイサイ賞の名前を初めて聞いたのは、子どものころでした。学校の校庭だったと思いますが、先生から、こういう賞ができたと聞いたという話があり、印象的な名前だったことから、心に残っていました。この受賞を機に、改めてフィリピンに思いをはせました。2016年、当時の天皇、皇后両陛下が、ここマニラを訪れ、マニラの市街戦に触れながら、命を失った多くの戦没者を慰霊しました。日本人は戦時中、ひどいことを散々したんです。民間人をたくさん殺しました。日本人はこのことを忘れてはいけません。ずっと残っていることです。そういう歴史がある中で、フィリピンからマグサイサイ賞を贈られるということを、厳粛に受けとめています。本当にありがとうございました》

「忘れるも何も知らなかった」

 このメッセージが報道されると、SNSでは賛同の声が広がる一方で、「忘れるも何も知らなかった」との声もあった。

 マグサイサイ賞を運営する財団に、宮崎さんのメッセージの受け止めを聞くと、次のようなコメントが寄せられた。

 「宮崎さんのスピーチは、より良い両国の未来のために、過去の歴史と向き合い、記憶する重要性を思い起こさせてくれました。私たちもマグサイサイ賞の理念を通じて、相互理解を推進していきたいと思います」

日本軍によって処刑される前の大統領代理、ホセ・アバド・サントス氏の写真。1942年4月18日の朝日新聞朝刊に掲載された