春樹氏の記事 転載記事です

 

 

 

※ 当記事で取り上げている「避難住宅追い出し訴訟[仮称]」の次回弁論期日は、2024年7月18日・木曜10時半に、東京地裁626号法廷で行われます。


​​​東京地裁で「避難住宅追い出し訴訟」が継続中​​​​


 2024年6月現在、東京地方裁判所では「避難住宅追い出し訴訟[仮]」が継続中です。
 この訴訟は、フクイチ(東京電力・福島第一原子力発電所)事故による避難者を東京都が提訴したもので、「原告が東京都、被告が避難者」です。
 訴えられている避難者(被害者)は、「福島原発被害者東京訴訟原告団」の団長でもある、鴨下祐也さんです。

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国・自治体が一体となった、被害者の声封じか

 フクイチ核災害で避難した人を避難先の自治体が訴えるのも悪質且つ珍しいのですが、私(春橋)は、この訴訟は、弱いもの苛め・避難者の追い出しだけではなく、政治的な意図を込めたもの、と見ています。

 鴨下さんは、被害者(避難者)の中では、顔と実名を公開して活動している数少ない方です。国や東電を相手取った集団訴訟では、(原告団によって違いは有りますが)顔と実名を公開して活動できる方は、どうしても少なくなりがちです。
 原告団長は広報的な役割も担っていますから、各地の集会での参加・発言、或いは著述活動と、フクイチ核災害の被害・避難の実態を一人称で社会に知らせる役割も負いがちです。

 東京都(正確には、東京都の背後にいる国)の狙いは、東京訴訟・原告団で顔と実名を公開している鴨下さんと家族の生活を不安定にし、金銭面だけではなくメンタル面でもリソースを消耗させることでしょう。

 東京都の提訴理由は、「住宅の明け渡し」と「退去期限後の家賃相当額の支払い」ですが、鴨下さんは住宅からは退去しているので、「明け渡し」は成り立ちません。実際、訴訟の中では、東京都は「明け渡し請求」は取り下げています。
 又、鴨下さんに提供されていた住宅は国の持ち物であって、東京都のものではありませんから、東京都に実質的な被害は生じていないのです。仮に「退去期限後の家賃相当額」が支払われたとしても、東京都を経由して国の懐に入ります。

 以上のように、東京都にとっては訴訟費用を支出するだけの「意味の無い訴訟」である筈です。
 にも関わらず、東京都は鴨下さんを訴えているのです(因みに、この提訴は知事の専決であり、都議会の承認は必要ありません)。

 私は、この訴訟の狙いは、「フクイチ核災害の被害者・避難者が声を上げ難い環境を整備することの一環」と見ています。現在の為政者は「フクイチ核災害の被害を矮小化・終わったこと」にしようとしていますから、戦術の一つとして、このような悪辣な方法を採用したのでしょう。


結審が予想される、次回の口頭弁論は7月18日・木曜午前

「避難住宅追い出し訴訟[仮]」の次回の口頭弁論は、7月18日・木曜・10時30分から、東京地裁・626号法廷で予定されています。4月に傍聴した際の裁判長の発言によると、次回で結審する可能性が高いです。

 弁論は元々、6月13日に予定されていましたが、被告である鴨下祐也さんが「5月初旬に癌と診断され、緊急手術を行い、抗癌剤治療を開始した」(6月5日に行われた、東京訴訟・第二陣の口頭弁論に合わせた集会での、配偶者さんの説明)ことにより、延期されました。

 被告側が心身ともに追い詰められているのに、東京都は訴訟を継続するのしょうか? だとしたら、度し難いです。「人の為の行政」ではなく、「特定の利益層の為の行政」でしょう。


4月に配布された被告(鴨下さん)の意見陳述

「避難住宅追い出し訴訟[仮]」は、24年4月22日に東京地裁で第11回口頭弁論が行われ、弁論後の被告側報告集会で、24年1月に鴨下さんが裁判所に提出した意見陳述(訴訟概要の説明含む)が参加者に配布されました。
 この意見陳述は、フクイチ核災害の区域外避難者(自力避難者)の置かれた状況や、避難の判断について克明に語っているものです。
 社会的に共有されるべきと考えるので、ご本人の承諾の下、全文を当ブログに掲載します。
 読み易さの為に、段落を追加し、明らかに誤字・脱字と思われる部分は改めていますが、それ以外は手を加えていません。
 固有名詞の記載も、ご本人から承諾を得ています。

 尚、説明が必要と思われる部分については、「注〇」を追記しました。区別の為に、陳述は青文字・注は黒文字と、色を分けています。
 
​====被告(鴨下祐也さん)による訴訟説明・意見陳述、ここから====
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【訴訟の概要】

●原告:東京都
●被告:鴨下祐也(福島第一原子力発電所事故による避難者、ひなん生活をまもる会代表、福島原発被害者東京訴訟原告団長)

 東京都内の避難住宅を引き続き提供するよう、話し合いによる解決を求めてきた避難世帯の中から、東京都がたった一人の避難者を原告としても2022年3月に東京地裁に提訴した訴訟。
 東京都は被告人(福島県いわき市からの区域外避難者)に対し、居住していた避難住宅の明け渡しと、提供期限以降の家賃相当額を損害金として請求している。
 しかしそもそも、避難元が今も放射線管理区域相当の放射能汚染である為に避難の継続を求めている避難者に対し、居住している避難住宅から無理矢理に追い出そうとしていること自体が問題である。更に、該当の避難住宅は国家公務員宿舎であり、東京都には本来、損害は発生していない為、避難者に対し損害金を請求する権利が東京都に有るのか、という点でも問題である。もしも東京都が勝訴し、原発事故の被害者である避難者が損害金の支払いを命じられた場合、その損害金は東京都を経由して原発事故の加害者である国の懐に入ることになる。その意味でも非常に不当で理不尽な裁判である。 


​​​​​【被告(避難者)陳述書(抜粋)】  2024年1月9日

はじめに

「(福島県)いわき市の急性心筋梗塞死の割合は、全国平均の2倍です」
 2023年の夏、いわき駅前の大モニターに映し出された市長が呼びかける声に、私は思わず足を止めた。急性心筋梗塞による突然死は、チェルノブイリ原発事故後にも多発したことで広く知られている病である。人口30万人を超えるいわき市で(春橋注1)、死因の割合にそれだけの変化が出るということは、相当な数の方が急性心筋梗塞で亡くなられていることを意味する。

(注1:23年3月1日時点のいわき市の人口は、外国人含めて約31万人/ https://www.city.iwaki.lg.jp/www/contents/1714631360226/index.html より)

 私自身、(原発)事故の有った年以降、身近な若者の突然死に関わることが増えていた。特に一昨年あたりからは、いわき市からの広報物にも「脳血管疾患や急性心筋梗塞で亡くなる方が多い」という注意喚起が目立っていた。そんな保健所からのお知らせだけでなく、市長自らが大モニターから呼びかけている様子に、いわき市の抱く危機感を改めて感じ取った出来事であった。


 別紙1は、2023年3月に届いた、特定健診受信を勧める『いわき市健康つくり推進課』からのお知らせの封筒のコピーである。
 心疾患や脳血管疾患が全国平均より顕著に多いことは、ここにあるグラフからも読み取れる。一方で、呼びかけ文に有るような『塩分摂取量』の問題は、実はこの広報にあるグラフからは読み取ることができない。何故なら塩分摂取量のグラフの対象比較は、他のグラフとは異なり『全国平均』ではなく『国目標値』となっているからである。塩分摂取量の「全国平均値」は、令和元年で男性10.9g、女性9.3gと、いわき市民の平均(男性9.5g、女性8.8g)よりも高い。つまりいわき市民は、少なくとも塩分摂取量に於いては、全国平均よりも少ないのである。しかし一見そうとは気付かせないようなこのグラフの描き方は、無理にでも、急性心筋梗塞や脳血管疾患の原因を、市民の生活習慣の悪さにこじつけようとしているかのようである。

別紙1



 実際のところ、市民の多くが、口には出さずに薄々と感じているは、俗にいう「ホの字」である。即ち福島では言葉に出す事も憚られるようになってしまった「放射能」が原因ではないかと、多くの人が思っている。しかし、「復興の妨げ」と批判されることを恐れて、「本当はなんか関係あるんだべ?」と思いながらも口に出せないまま、市民は不気味に増加する「生活習慣病」と闘っている。12年経って尚、本来なら飲食禁止である筈の放射線管理区域の基準を上回る汚染のもとで、日常生活を続けることによる低線量被ばくが、人体にとって安全でないことは、寧ろ科学的に明らかである。しかしながら、この非人道的で大規模な人体実験は、12年過ぎた今もなお継続中である。

​ いわき市だけでなく、福島県全体としても、急性心筋梗塞や脳血管疾患による死亡は少なくとも2015年に全国都道府県の中でワースト1位とされて以来、県内では度々ニュースとなっている(別紙2)。

別紙2



 小児甲状腺がんの異常多発など、特定のガンの増加ばかりが注目される福島ではあるが、低線量被曝の影響は悪性腫瘍だけに留まらない。PFASによる水質汚染に起因する脂質異常症のように、生活習慣病に分類される幾つかの環境病も又、放射性セシウムに等による低線量被曝によっても引き起こされることが明らかにされている。

 2024年1月5日にいわき市の私の自宅の庭の土壌を測定してみたが、依然として40000㏃/㎡の放射線管理区域の基準を越えている。平時であれば子どもが立ち入れる筈も無く、放射線業務従事者であっても飲食が禁止される程の放射能汚染の中で、私は妻子と共に日常生活を再開するなど、考えられない。寧ろ、そのように夥しく汚染されてしまった地からの避難が正当と認められず、今、このような裁判を起こされていることに、改めて怒りを覚えている。

 

1 避難を決断した経緯

 2011年3月11日(金曜日の)14時46分。突如、不気味な地鳴りと共に、立っている事さえできない巨大な揺れが、私達が暮らしていた福島県いわき市を襲った。私は当時、国立福島工業高等専門学校の準教授で、学生の卒業・進級を決める成績会議の真最中であったが、会議室の天井からは崩れた天井材が剥がれ落ち、会議用テーブルに降り積もった。余りの揺れに会議は中止となった。
 このとき私の脳裏をかすめたのが、『原発は無事に止まっただろうか』という一抹の不安だった。耐震補強工事済みの校舎や新築の自宅とは異なり、昭和に作られた原発の耐震性は存外に低い。これほど揺れれば、ただでは済まされないだろう。

 嫌な動悸を覚えながら、私は校舎の屋上へと向かった。当時の私の研究は、施設園芸による屋上緑化。屋上には目下研究中の野菜栽培のプラントが並んでいた。それらの被害状況を確認した後、私は北北東の方角に目を凝らした。肉眼では見える筈の無い35km遠方に福島第二原発がある。制御棒は無事に入っただろうか。冷却系に異常は起きていないだろうか? 若しも炉の圧力が上がり、放射性物質を含んだガスが環境中に排出されるようなことになれば、北風に乗って1時間足らずで、この街にも放射能が届いてしまう。このままここに妻子を居させるべきではないのではないか? 地震による液状化で道路は激しく隆起・陥没し、交通はマヒ状態となり、海沿い川沿いは津波で甚大な被害が出ており、市内では混乱が始まっていた。避難など考えられない程、あらゆる所に危険が転がっていた。

 しかし夜になるとラジオから、福島第一原発の周辺3km圏の住民に避難指示が出されたことが伝わってきた。『放射能漏れはありませんが、念の為に、鼻や口をマスクや濡れたハンカチなとで覆って避難して下さい』というアナウンスに、放射能漏れの隠蔽の可能性を疑った私は、日付が変わった3月12日午前2時に妻と話し合い、特に息子たちの被曝リスクを回避する為に、念の為の避難をすることに決めた。

 停電の続く街は、街灯どころか信号機さえ機能しておらず危険すぎる為、私たちは夜明け前の薄明りを待ち、当時8歳と3歳の息子達を起こして車に乗せ、折から滞在中だった82歳の養父と共に避難することになった。
 

​​ 激しい余震が続く中、蠟燭の明かりでの荷造りは全く不十分だったが、それでも北風が吹く前に一刻も早く原発から距離を取らなければという焦燥感から、朝の5時半に出発した。交通は大混乱が続いていた。普段は4時間で到着する妻の実家の横浜まで、実に19時間半がかかった。出発した際の懸念は、あくまでも放射性ガスの排出(ベント等)による被曝であったが、12日午後には東電福島第一原発の1号機の爆発が報道され、事態は激変した(春橋注2)。何事も無ければ月曜には元の生活に戻れると考えていた私達の目論見は、呆気なく崩れ去った。

(注2:3月12日15時36分に、福島第一原発1号原子炉建屋が水素爆発)

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 やがて4月を待たずに、膨大な多核種の放射性物質が放出されていたことが判明し、特にセシウム137などの、所謂「粉」で半減期の長い放射性物質が、自宅周辺はおろか東京の避難先にも多量に降り注いでしまったことが判った。スリーマイル事故のように、希ガスとヨウ素中心の汚染であれば、数ヶ月間避難すれば元の生活を取り戻せると考えていた私の目論見は、再び崩れ去った。
 汚染の多くを占めているセシウム137の半減期は約30年。つまり30年経っても、半分にしかならないのである。数年の避難では全く話にならない。だが、これとほぼ同量飛散したセシウム134の半減期は2年。こちらは13年待てば減ってくるかも知れない。そんな希望を抱きつつも、何れにしても数ヶ月から数年の避難では元の生活には戻れない、という覚悟を、私は2011年の4月に決めた。同時にこれらを測定する為に、100万円程の簡易型のベクレルモニターを購入し、以降、職場のシンチレーションカウンターと共に、いわきの自宅や東京の避難先など、自分や家族の生活空間を測り続けてきた。


 残念ながら、2014年1月5日の測定でも、いわきの家の庭は40000㏃/㎡の放射線管理区域を上回ったままであり、ベランダの側溝に溜まっていた土は、未だにオーバーフロー(10000㏃/㎏超)で、測定不能のままである。増してそれらは、空間線量に影響を与えるだけでなく、乾燥すれば風に舞い、室内や灰の中に入り込む。布団や洗濯物や子ども達にも付着する。全く封じ込められていない移動線源であるのだから、危険極まりない。そんな。一向に無くならない放射性物質からの被曝を回避する為に、私達は現在まで避難を続けている。

 

2 かつては放射性物質を扱っていた

​​ 私と妻の美和は、1992年に東京理科大学基礎工学部生物工学科の研究室で出会った。私が大学院生だったときのことで、妻は学部の学生であった。
 その研究室では、植物の分子遺伝学を研究しており、自らの体細胞のDNAに突然変異を起こさせる特殊な遺伝子配列(易変因子[えきへんいんし])を探査したり、そのメカニズムを解明したりするような研究が中心であった。当時、遺伝子を扱う実験では、遺伝子の存在や配列を確認する為にDNAを標識する必要があり、いわばその染料として放射性物質(主にリン32[春橋注3])を使用する事があったが、その際は、研究棟とは別棟の放射線管理区域に指定された建物の中で、細心の注意を払って実験を行った。今でいうガラスバッジを、男性は胸に、女性は卵巣に近い腹部に付け、自分が被曝しない為の操作は勿論、間違っても管理区域の外へ放射性物質を持ち出さない為に、厳しく管理された中で実験を行っていた。

(注3:ベータ線を発する放射性同位体)


 実験後にはガイガーカウンターで、実験台や床が汚染していないか、隈なく調べ、管理棟から外へ出る際には、実験で使った白衣やスリッパは念の為に着替え、ハンドフットモニターで手足が汚染していないかも確認し、汚染がある人は外へ出られない仕組みになっていた。実験で用いた薬剤の残りやゴミなどは、100㏃/㎏以上の物は全て専用の容器に入れて厳重に管理し、流しの排水なども下水には流さず一旦貯水し、十分に放射能が減衰するまできちんと管理されていた。
 

 あの事故が起こるまで、研究室は勿論、病院や、原発の敷地内であっても、放射性物質はそのように厳重に管理されてきた。もちろん現在でも、この原則は放射性物資を扱う施設では厳密に守られている。
 しかし、あの事故によって東日本の広い範囲が、そのような放射線管理区域に指定された施設の中よりも酷い汚染状況になってしまった。

 嘗て私が実験を行っていた千葉県に有る東京理科大学の放射線管理区域でも、2011年の春には、管理棟から外へ出る扉を開くと、普段は鳴らない放射能汚染を知らせる警告音が鳴り響き、扉を閉めると警告音が鳴り止む、という状況になった。私たち夫婦の学生・院生時代の恩師の教授から聞いた話だが、2011年当時の大学生や大学院生の間では大変な話題になっていて、他の人からも同様の話を聞いた。実際、実験棟の中の空気よりも、外の風の方が、遥かに放射能に汚染されていたのは、公表されている数値からも明らかな事実だった。

 大学生の頃から放射性物質の危険性を学び、見えないそれを厳重に管理してきた私達にとって、自分の家や、子ども達が遊ぶ場所に、大量の放射性物質が降り注ぎ、子ども達が素手でそれに触れられるようになってしまったこと、また風雨で移動し、風が吹けば土埃と共に再び空中に舞い上がり、呼吸によって肺から侵入し、全身に巡ってしまう状態になってしまったことは、心が壊れるほどの恐怖であった。

 

3 避難を続けなければならない理由

​1.別紙3は、いわき市の自宅と、事故を起こした原発までのおおまかな位置関係を示したものである。政府の避難指示は、概ね原発から30kmの円の中に限られており、その外側に住んでいた私の家には避難指示は無かった。

別紙3



​ だがいわき市は、2011年3月15日に大量の放射性物質を含む北風に見舞われ、23.7μ㏜/hもの線量が計測された(別紙4)。更にその後も、度々汚染した風雨による放射能汚染が続いた。

別紙4




 私が同年4月下旬に職場の屋上の側溝をシンチレーションディレクターで測定したところ、30μ㏜/hを越える汚染があり、事故前には全く考えられなかったレベルの夥しい放射能汚染があることが判明した。本来であれば、飲食厳禁で、許可の無い者が踏み込めない筈の放射線管理区域よりも、遥かに高い放射線量である。その危険性を知る私には、そこで日常生活を送ることなど到底受け入れられるものではなかった。当然、妻子を戻せる筈も無い。避難は必須だった。

 しかし、避難指示の無い地域からの避難生活は困難を極めた。避難に必要な情報さえ得られず、初めは妻の実家の有る横浜へ。次は、私の親が暮らす東京へ。親族とは言え、そう長く居候も出来ず、その後はアパートやホテルを転々とし、4月の末に都内の避難所に入れることが分かって入所するも、2ヶ月で閉所された。そして2011年7月、東京都からみなし仮設住宅として提供されたのが、嘗て国家公務員宿舎として使われていた千代田区の避難住宅であった。

2.東電からの賠償金の仮払いさえ無い区域外からの避難者である私達には、避難を継続する資金が必須だった。その為、私はやむなく4月にいわき市へ戻って、仕事に戻らざるを得なかった。まだ汚染が著しいいわき市へ戻る日『今後、もしも僕に何か起きても、決して(いわき市には)戻ってこないで欲しい。寧ろ何か起きたら、迷わず子ども達を連れてねもっと西に逃げて欲しい』と妻に言い残して、いわき市に戻った。
 私は、戻れば間違いなく被曝することを知りながら、それでも妻子を避難させ続ける為に、自らは被曝する道を選ばざるを得なかった。いわき市の汚染度合いは、チェルノブイリ事故後に、急性心筋梗塞などによる突然死が相次いだ地域と同じレベルであった。私の覚悟の言葉に妻は黙って頷いた。

 職場に戻ると、埃だらけになった教室の掃除や、本や家具が散乱した研究室の片付けに追われた。ただの掃除ではない。全てが除染作業である。大袈裟に聞こえるかも知れないが、毎日机を拭いても、拭き上げた後の使い捨て雑巾をベクレルモニターで測定すると、明らかに高い放射線を示す数値が出るのだから、生徒を守るべき教職にある身としては、掃除という名の除染作業をやめることはできなかった。

 又、校舎の屋上に設けていた水耕栽培のプラントは、著しく放射能汚染していた為、除染できないものは全て廃棄し、その上で除染作業を行った。ただの掃除さえも除染になってしまう場所に、妻子を連れてくることなど考えられないと、改めて避難が必要であると感じた。

​3.福島第一原発から噴出(ママ)された放射性物質は、県境を遥かに越えて広く東日本に拡散した。別紙5は市民が測定した汚染マップ「みんなのデータサイト」から引用であるが、現在もなお、東日本の広い範囲で、深刻な土壌汚染が続いていることが見て取れる。(春橋注4)

 図中、黄色の丸は100㏃/㎏以上の汚染土壌を示すが、これは事故前までは専用の鉛容器や黄色いドラム缶で厳重に管理されていた汚染レベルである。しかしこれだけの夥しい放射能汚染に対し、政府が避難指示を出したのは、極めて狭いごく一部の区域に留まった。




(注4:「みんなのデータサイト」のトップページは https://minnanods.net/ 

同サイトは「東日本土壌ベクレル測定プロジェクト」として、2014年10月〜17年9月に、東日本17都県・約3000箇所の土壌を採取し、ベクレル計測を実施した。詳細は https://minnanods.net/soil/

陳述中の「2023年の土壌汚染マップ」は、その際の計測値を減衰補正した計算値)

​ 別紙6は、汚染マップに縮尺を揃えた福島県の地図と、避難指示が一度でも発令された地域を汚染地図に重ねたものである。汚染に対し、ごく僅かな地域しか、避難指示が出されなかったことが見て取れる。しかし、国の避難指示は出されなくとも、生活圏を放射能汚染された人達は、被曝を回避したいと望み、避難を試みた。しかし行く当ても、情報も、お金も無い状態で、自力で避難することは容易でなく、それでも、せめて被曝に脆弱な子どもだけでも逃がしたい、家族を放射線被曝から守りたい。そんな切実な思いから、多くの親達が、私達のように、世帯分離避難を決意したのである。


別紙6




 避難の費用を捻出する為に、生計者が福島県に残り、子ども達とその養育者を、少しでも放射能の少ない場所へと送り出す。多くの場合、それは若い母親と幼い子ども達であった。夫婦が福島県に残って働き、祖父母が孫を連れて避難したケースもある。逆に祖父母が福島県に残り、子や孫を仕送りで支えた世帯も有った。
 このように、ただでさえ経済的に余裕が無い中で、放射能汚染された布団や衣類などの買い替えや、避難元と避難先での二重生活によって、一層出費が嵩んでいた区域外避難者にとって、何より必要不可欠だったのが、みなし仮設住宅として提供された避難住宅であった。


4 避難住宅の打ち切りと追い出し

​ 2015年6月、国と福島県は、2019年3月31日に区域外避難者への避難住宅の提供を打ち切ることを公表した。しかし2015年頃でも、いわき市内の市民測定所「たらちね」では(春橋注5)、市内の家庭用掃除機のダストを測定しており、そのセシウム134と137の合計値が数千~1万㏃/㎏を越えている、という測定結果を公表していた(別紙7)。

(注5:「たらちね」トップページ https://tarachineiwaki.org/ )


別紙7



 室内を掃除している掃除機の中のゴミが数千~1万㏃/㎏あるということは、室内に放射性物質が入り込んでいるだけではなく、掃除機から出される埃っぽい排気を吸い込むことによって、呼吸器経由で体内に放射性物質を取り込んでしまうことも意味している。そんな場所に、家族で暮らさなければならないことなど耐えられない為、私は同じ想いを持つ避難者らと共に復興庁や環境省などと交渉を行い、室内にさえ、まだ酷い汚染が日常的に侵入している状態なのだから、避難住宅の打ち切りは行わないで欲しいと訴えてきた。

 しかし、復興庁の担当者は「(発災当初と比べて)十分に線量が下がったから(打ち切りは行う)」と繰り返すのみであった。「それは発災直後が酷過ぎただけで、事故前に比べれば、今でも酷い汚染状況であることは変わらない」と言ったところ、「事故前のデータは(記録が)無いので比較できません」との回答であった。もちろん、事故前のデータは存在する。原発事故が起こるまで、私達の避難元である福島県浜通り地域では、福島県原子力広報協会が隔月で発行する冊子『アトムふくしま』(別紙16~17)が回覧されており、そこには原発周辺などの陸土や農産物・海産物等の放射能測定値も定期的に掲載され、例えば陸土のセシウム137であれば20㏃/㎏前後という数値が示されていた。それと比較すれば、掃除機の中に有る塵が少なくとも事故前の数百倍の数値であることが分かる。

 事故前の数値を無視し、事故直後より大きく下がっており問題ないから避難住宅の提供を打ち切るという対応は、納得できるものではなかった。

別紙16・17








5 放射線による健康影響

 安全な被曝など存在しない。放射線の人体への影響は確率的なものである。少しの追加被曝なら大丈夫なのではなく、低い確率であっても、確実に被害は起きている。
 

 この国の殆どの人は、2011年の福島第一原発事故によって、今も東日本の広い範囲が100㏃/㎏以上の汚染土壌となってしまっていることを知らない。
 事故前であれば、黄色いドラム缶に入れて、厳重に管理しなければならないレベルの汚染が、今も東北と関東に広がっているにも関わらず、その危険はきちんと伝えられず、被曝させ放題。その影響が懸念される病気が増えても、生活習慣病として自己責任に落とされてしまう。既に原発事故との因果関係が明らかになっている小児甲状腺がんでさえ、その事実を報道することができないと、県内の記者達は嘆いている。そんな報道側の忖度も有り、真実が報道されないまま、為政者にとって都合の悪い事実はまるで無かったかのように扱われているのが現状である。

 
 避難生活は、ただでさえ不自由且つストレスフルで、私のように政府によって「線引きの外側」とされた者は、実際には夥しい汚染や被曝の危険があるにも関わらず、「自主避難者=必要無いのに勝手に逃げた人達」と言わんばかりに区別され、被害そのものが無いかのようにも誤解され、差別やいじめの対象にもされ続けてきた。そのようなストレスフルな環境で、更に住んでいる住宅からも追い出される恐怖によって、もはや日常生活がままならない状況にある避難者が、私の周りには少なくない。

 

6 最後に

​ 別紙18の図は、2015年6月に避難住宅の打ち切りが報道されてから半年後に、個人面談の為に妻が小学校へ行った際に、廊下に飾られていた次男の絵である。

別紙18



 カラフルな同級生達の絵が並ぶ中で、その絵は暗く寂しく異彩を放っており、妻はショックで暫くその場から動けなかったと言う。当初は描かれていたように見える幾色かの色彩は暗緑色に塗り潰され、そこに白々とした目の無いカタツムリが、力なく、白く浮かび上がるように描かれている。
 目も口も無い小動物の絵は「見たくない、聞きたくない」という心の叫びだと、カウンセラーは言う。日頃は絵が上手で、明るくカラフルで豊かな絵を書いていた次男だけに、この絵は一層、住んでいる家を追い出されるかも知れない、という次男の恐怖や不安が強く伝わってくるものだった。


 この絵が描かれた頃、私は避難者数名と東京都都市整備局へ、避難者の追い出しをしないで欲しい陳情に行っていた。その際、妻についてきた幼い次男は、帰り際に都の担当者に向かって「だれがぼくたちをおいだすのですか?」と思いつめたように質問した。まだ小学校2年生で、何もわからないだろうと次男を連れてきてしまったことを後悔した瞬間だった。大人達のやり取りを黙って聞き、静かに小さな胸を痛めていたのだ。そんな8歳の少年に対し、都の男性職員は「そんなことしないからね」と、小声で優しく言ってくれた。目を丸くして職員の顔を見上げる次男。その手を握りしめた妻は、涙を流して頭を下げた。
 この子達を被曝させたくない。でもお金も行く当てもない中で、避難住宅からの追い出しが始まった頃、自ら命を絶つ避難者も出かねない。私も内心、縋るような思いで職員の優しい言葉を心に残した。

 しかし今、私は訴えられて心身ともに疲弊し切っている。そんな私が今なお願うことは、今日もギリギリの精神は状態で何とか生きている家族や、他の避難者たちが、万が一にも同じ苦しみにおかれない事である。
 転居し、自立するだけの力が無い者にとって、家を追い出されるという恐怖は心身を破壊するのに十分である。そして裁判を起こされるという恐怖もまた、心身を狂わせる。そんな心の闇は伝播し、他の避難者をも病ませていく。

 私は避難者の代表として、避難住宅追い出しの中で崩れていく避難者達と、その子ども達を嫌というほど見てきた。被曝と汚染を受けながら、避難に必要な賠償さえ支払われていない区域外避難者を、どうか命綱の住処から追い出さないで欲しい。東京都には、仮に国からどのような圧を受けたとしても、先ずは都を頼って避難してきた人達の、人命と人権を守り抜いて欲しいと切に願う。

以上

====陳述、ここまで====

春橋哲史(ツイッターアカウント:haruhasiSF)​​ ​