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「東京電力と接近した最高裁に“東電刑事裁判”の公正な判断ができるのか」問い続ける福島の被害者と弁護士

 

 

最高裁判所(写真:共同通信社)

 連日SNSのタイムラインを賑わせるNHK朝ドラ『虎に翼』。脇役も異彩を放つ。裁判官・桂馬等一郎(松山ケンイチ)は常に無表情で嫌なヤツだと思わせる役柄だが、主人公・寅子の父が巻き込まれた汚職事件では公正な判決を書く人物だ。人柄はどうであれ、裁判官とは、司法の独立を重んじ、公正さを保つ、その矜持を視聴者に感じさせていた。 

 

【写真】「ここはあいづわかまつだよ」原発事故で入院中の双葉病院から避難を余儀なくされた父に見せたメモ 

 

 ──とはいえ、それはフィクションであり時代も昭和初期。現在の「裏金問題」のような政治の腐敗を連日目の当たりにしていると、司法のほうは大丈夫か、本当に独立しているのか、裁判官は公正か、と疑いたくもなる。  特に、原発事故をめぐる国の責任を認めなかった2022年6月17日の最高裁判決が出てから、あるいは後藤秀典氏(ジャーナリスト)が最高裁人事の裏側について明らかにしてからは、多くの原発事故被害者が、司法の独立、裁判所の公正さを祈る思いで見守っている。  その最高裁にて、東電旧経営陣の責任をただす「東電刑事裁判」が係争中だ。「東電刑事裁判」の支援団は、毎月のように集会を開き、「公正な判決」を求めて署名を集めている。今日5月28日にも、TKP赤坂カンファレンスセンターにて5回目の集会がある。 

 

 「朝、『今日こそ、判決の日が示されるのではないか』とドキッとして起きることがある」と支援団の副団長、武藤類子さん(福島県三春町)は胸の内を明かしていた。  そもそもなぜ、原発事故の被害者が、裁判所に「公正さ」を求めなければならないのだろうか。

 

 ■ 不自然かつ異例だった「6・17最高裁判決」 

 

 東京電力福島第一原発事故当時、福島県内や隣県に住んでいた住民らが、国や東京電力に対し、損害賠償や原状回復を求めた4件の集団訴訟の判決が2年前の2022年6月17日、最高裁第二小法廷で言い渡された。それが「6・17最高裁判決」だ。国の責任はないとし、国家賠償責任を否定するものだった。  同種の集団訴訟は全国で約30あり、それぞれ地裁・高裁で争っているが、「6・17最高裁判決」後に出た判決はことごとく国の責任を認めておらず、4月10日には最高裁でも1件の上告を退けた。原告、つまり原発事故の被害者からは「6・17最高裁判決のコピペ」と批判の声も上がっている。  原発事故の被害者にとって、そもそもどの裁判も、賠償は本質の話ではない。国が責任を認めたうえで、国がとことん加害行為と向き合い、被害者に説明し、それを周知し、周囲にもそれを共有し、社会全体が変化すること、つまり二度と原発事故が起きないよう、原発そのものを見直すことも求めている。「東電が賠償するのだからいいだろう」という話では全くない。  その願いも虚しく、「6・17最高裁判決」は国の責任を認めなかった。  その判決を分析し、「不自然」かつ「異例」と痛烈に指摘するのは、数々の原発関連訴訟の代理人をつとめる海渡雄一弁護士だ。  この「6・17最高裁判決」の疑問点については複数専門家も指摘しているが、第二小法廷の4人のうち3人(菅野博之裁判長・草野耕一裁判官・岡村和美裁判官)が「国の責任を認めない」多数意見。1人だけ三浦守裁判官が「国に責任がある」という反対意見を述べた。その反対意見のほうが、「格調高い」と海渡弁護士は語る。事実認定と適用法令をきっちり整理したうえで、まるで本来の判決文かのような体裁で述べられ、しかも、判決文全体の半分以上を占める。一方、「国の責任を認めない」とした多数意見は、正確な事実認定もなく、法条の適用も正確にされておらず、極めて簡略的であり「異例なもの、お粗末なものだった」と海渡弁護士は言う。  そもそも「6・17最高裁判決」は、4件の集団訴訟のうち3件が高裁で国の責任を認めていた。そのため最高裁でも国の責任は認められるだろうと、原告や全国の多くの原発事故の被害者は期待していたのだった。だからこそ「なぜ」が渦巻いた。

 

■ 「最高裁お友だち人事」とは  「6・17最高裁判決」の舞台となった第二小法廷の裁判官について調べ上げ、関係性を指摘しているのが前述の後藤氏の著書『東京電力の変節──最高裁・司法エリートとの癒着と原発被災者攻撃』だ。  詳細は本書で確認願いたいが、例えば、菅野裁判長はこの判決から約1カ月後に退官し、「長島・大野・常松法律事務所」(大手5大法律事務所のひとつ)の顧問に就任した。この「長島・大野・常松法律事務所」には、東電株主代表訴訟の補助参加人として東電代理人を務める弁護士が所属している。  また、草野裁判官は、東京電力・東電関連会社に法的アドバイスを行う弁護士が複数所属する「西村あさひ法律事務所」(同じく5大法律事務所)の代表を15年務め、2019年に最高裁判事になった人物。共同経営者であった新川麻弁護士は経済産業省の「総合資源エネルギー調査会再生可能エネルギー大量導入・次世代電力ネットワーク小委員会」ほか、エネルギーに関わる政府の審議員を複数務めていた。また、生業訴訟(原発事故被害者が事故前の生活の回復を求めて起こしている訴訟)などが最高裁で審議中であった2021年には、新川弁護士が東京電力の社外取締役に就任している。  つまり、国のエネルギー関連の審議員をつとめ、東電の役員になった弁護士が、かつて自分が所属する法律事務所の元共同経営者だったということになる。また、その「西村あさひ法律事務所」の顧問をつとめる元最高裁判事(千葉勝美氏)は、一連の裁判の中で、被告・東電側に立って意見書を提出したこともある。  後藤氏はそれ以外にも、原子力規制庁の元職員が東電の代理人になったケースなども指摘。さらに、国・企業側に有利な判決を下した後に関連業界に再就職したケースなども複数、挙げている。この人事をもって「それでも裁判所は公正を保つ」とは、一般的な感覚では、にわかには信じ難い。  これらが、原発事故の被害者が、公正なはずの最高裁にわざわざ「公正な判決を」と求めなくてはならない理由だ。

 

■ 「東電刑事裁判」高裁判決を問う──「現実的な可能性」って何?   国と東電に損害賠償を求める集団訴訟では、地裁・高裁レベルでは少なくとも複数の裁判所が国・東電双方の責任を認めている。しかし、「東電刑事裁判」では被告・旧経営陣3人(勝俣恒久元会長、武黒一郎元副社長、武藤栄元副社長)を無罪とする判決が地裁・高裁と続いた。  高裁判決に対しては、「必要な原発事故対策をしないことを免罪し、次の原発事故を準備する危険な論理」「チープな判決で何の気概も感じられない」と海渡弁護士は指摘する。  特に、「現実的な可能性」がなければ原発事故の対策をとらなくてもいい、とする内容について、「明日、大地震が来ることがわかっていない限り原発は安全対策を何もしなくていいということになりかねない」「これを認めたら、原発政策の根本から成り立たない」と厳しく批判する。  元日に発生した能登半島沖地震においても、「志賀原発は大丈夫なのか」という多くの不安の声が上がった。科学的知見を持たない素人であっても、複合災害が引き起こす原発のトラブルは想像がつき、対策が必要だということは分かる。しかし、「東電刑事裁判」の高裁判決では、その可能性が「現実的」であるかないかが問われて否定されているというのだ。  「現実的な可能性」を必要とすることに真っ向から反対する地震学の専門家の意見を引用した判決がある。13兆円の支払いを命じた、2023年7月24日の東電株主代表訴訟の東京地裁判決だ。  判決に引用された、纐纈一起東京大学地震研究所名誉教授の論文には、「研究者の間で異論が存在しないとか、裏付けるデータが完全であるなど、津波の予測に関する科学的知見に過度の信頼性を求めると、現実に起こり得る津波への対策が不十分となり、原子力発電所の安全性の確保が図れない事態(全電源喪失による過酷事故)が生じかねない」と書かれている。「現実的な可能性」とは対照的で、「過度の信頼性を求めると、安全性の確保が図れない」と明確に述べている。  また、原発事故は「国そのものの崩壊にもつながりかねない」「過酷事故を万が一にも防止すべき社会的ないし公益的義務がある」とも書かれているのだ。  また、前出の「6・17最高裁判決」における三浦守裁判官の反対意見でも、「極めてまれではあるが発生する可能性がある津波」の対策をすべきだというものだ。  「確立した見解に基づいて確実に予測される津波に限られるものではなく、最新の知見における様々な要因の不確かさを前提に、これを保守的に(安全側に)考慮して、深刻な災害の防止という観点から合理的に判断すべき」としている。「現実的な可能性」などは一言も問うていない。

 

■ 東海第二原発ではできていた津波対策、なぜ福島第一ではできなかったのか  また、同判決は、最大の争点から逃げたものだった。「原発を停止する」以外(つまり津波対策等)の事故を回避する措置について、何の判断も示していないのだ。  原発を停止しなくても、例えば東海第二原発(日本原電)が津波予測を元に対策をしたように、水密化・防潮壁に代わる盛り土設置などの対策はとり得た。  また、「長期評価」に基づく津波対策の議論は、東京電力では2008年頃に行われていた。数百億円規模の津波対策は、2007年に起きた中越沖地震により、柏崎刈羽が停止し、大きな損害を抱えていたからやりたくなかった時期でもあった。現場では、「津波対策をやるべきだ」と考えていたことが、資料にも残り、その証言もあった。被告・武藤氏に津波対策を先送りされた時のことを「力が抜けてしまって、その後のことは記憶に残っていない」と語った東電・高尾誠氏の証言は界隈では有名になった。  さらに、電力会社の横並び体質による弊害も明らかになっている。津波対策をやる・やらないをめぐり、他社(4社・東京電力、東北電力、日本原電、JAEA)の「協調が必要」という、対策先送りの言い訳めいたメールも証拠として残っている。  前述の通り、東海第二原発は津波対策をしていたが、「長期評価に基づく津波対策である」とは、メディアには公表していない。「現場の声を聞き、東電の経営陣が津波対策をやると決断すれば、事故は防げた」「ホテルやデパート火災では、万が一の場合の対策を講じていなかった会社役員の刑事責任が肯定されている」と海渡弁護士は強く指摘する。  海渡弁護士は、「東電刑事裁判」について、複数の著書で詳しく解説している。 ■ 双葉病院から避難した入院患者の遺族  この裁判を見守り、高裁判決を傍聴した菅野正克さん(福島県大熊町、現在は水戸市に避難中)は、判決を聞きながらノートにペンを走らせていたが、途中から手を止めたという。書く気力を削ぐほど、判決は納得できるものではなかった。「なぜ刑事責任が問われないのか」と、怒り、失望の思いが湧いた。  菅野さんは原発事故で避難を余儀なくされた双葉病院の入院患者の遺族でもある。  大熊町で昭和51年から肉屋を営んでいた菅野さん。震災前は、隣の双葉町・だるま市や浪江町・十日市など、祭りのたびに屋台を出す、地域に根ざした肉屋だった。「祭りで知り合いに会うと、おまけであげちゃう」と菅野さん。祭りでは売上はなかったと、思い出し、笑う。寝ているヒマもないほど忙しい日々だったそうだ。  菅野さんの99歳の父・健藏さんは、2010年の夏から、風邪をこじらせて双葉病院に入院していた。95歳までバイクに乗って職場に通うなど、元気な人だったという。菅野さんは、父の洗濯物を週に2~3回病院に取りにいきがてら、見舞う日々を送っていた。  2011年3月11日、大きな揺れに襲われた菅野さん。しばらくして、「じーちゃん(父)どうしているだろ」と、歩いて15分ほどの双葉病院に向かった。病院に着くと、停電のせいか、病院内は真っ暗だった。災害直後で慌ただしく緊迫した病院内。近くにいた看護師に、父がどうしているか尋ねると、「大丈夫、安全なところに移動しましたから」と教えられた。10分ほどその場にいたが、父に会えることなく、自宅に戻った。

 

 

 その日の夜には、「原発が危ない」ということを菅野さんは耳にしていた。福島第一原子力発電所から約5キロ。停電によりテレビはつかなかったが、ラジオで菅直人首相(当時)が、「バスを手配した」と言うのを聴いていたうえ、東電関係者の身内から「原発が危ない」と知らされていたという。  自宅の斜め前には「オフサイトセンター」があった。オフサイトセンターとは、原子力災害時の緊急事態応急対策拠点施設。11日夜、重要拠点として非常時に消えるはずのない灯りが、ついたと思うとボコッと消えるのを菅野さんは見かけていた。  翌朝になると「役場に集まるように」と言う指示が出た。防災無線はあまり聞こえなかったが、どうやら避難をするという。茨城交通のバスが大熊町役場からどんどん出発していた。お昼頃に出発した最後のバスに乗り、菅野さんが避難所である田村市の高校の体育館に到着した時には、すでに日が暮れていた。  体育館には、そこで寝たり休んだりできるようなものが何もなく、困った菅野さんは、近くのタクシー事務所に直接出向き、なんとか車を借りて近くのホームセンターで、マットレス、毛布、食べ物などを購入した。 ■ 父に見せたメモ「ここはあいづわかまつだよ」  避難先の体育館にはテレビがあり、連日、津波や原発事故の報道が流れていた。避難をして数日後、「双葉病院」「患者死亡」と報道されているのを観た。  慌てて知り合いの役場職員に「おれの親父、双葉病院にいたんだ」と話すと、大熊町の災害対策室の電話番号を教えてもらった。そこで「双葉病院の方は、いわき市の光洋高校に運ばれたはずだ」と知らされる。しかし、それも確証はない。菅野さんはバスで避難をしたため、いわき市まで駆けつけることもできなかった。その後、父は福島県立医大にいることがわかり、医大に確認の電話をすると、「います」と教えられた。ようやく父の居場所がわかり「移動などする場合には、連絡をしてほしい」と携帯電話の番号を知らせ、菅野さんは自らの避難生活を続けるしかなかった。  3月中は体育館での避難所生活を2カ所で送り、4月3日には裏磐梯にあるホテルへと移動した。5日、医大から電話があり、「会津若松の武田病院にいます」と知らされた。転院先を探していることは教えられていたが、すでに転院しているとは思っていなかった。慌てて6日に家族で武田病院に行き、震災から約1カ月後にはじめて父と対面した。  その時に寝ている父に向けて、メモを見せた。それを今も、菅野さんは大切に残している。転々とさせられた父に、こう伝えた。  「ここはあいづわかまつだよ」  (つづく)