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鈴木彩子

人と親密な関係を築けない複雑性PTSD 誰もが抱える「トラウマ」

 

気持ちを表す言葉の例。ステア・ナラティブセラピーを紹介する書籍「児童期虐待を生き延びた人々の治療」から

 

 うつ病になって精神科に通い、薬の治療を続けているのになかなか良くならない。その場合、本人に自覚がなくても、背景に過去のトラウマの問題が隠れていることがある。こうした人たちの生きづらさを解消するために、新しい心理療法も研究されている。

 トラウマは、圧倒的な恐怖の体験によりもたらされる心の傷だ。トラウマ体験をきっかけに、悪夢を見たり、フラッシュバックを起こしたりなど不調が続く状態をPTSD(心的外傷後ストレス障害)という。

 これに加え、「親密な対人関係を維持できない」「感情を制御できない」「自分が人より劣っていると感じる」などの症状があるケースを「複雑性PTSD」という。2018年に世界保健機関(WHO)の改訂版国際疾病分類(ICD-11)で採用された。

 複雑性PTSDは、逃げられない状況で繰り返し虐待や拷問、性的虐待を受けたりした経験が背景にあることが多く、日常生活や社会生活全般に影響が出やすい。

幼い頃に受けた虐待やネグレクト

 複雑性PTSDと診断される人が国内にどれくらいいるかは、わかっていない。ただ、幼い頃に虐待やネグレクトなどを経験している人は少なくない。全国の児童相談所が対応した子どもの虐待相談件数は、2021年度は年間20万件を超えた。

 PTSDの治療を専門とする国立精神・神経医療研究センターの金吉晴・精神保健研究所長は、「感情をコントロールできなかったり、対人関係に悩んだりする背景に、実はトラウマの問題を抱えていて、そのことに本人も周囲も気づいていないというケースは多いのではないか」と指摘する。

 なぜ、気づけないのか。

 背景には、患者本人がつらい記憶にふたをして向き合うことを避けていたり、過去に相談窓口や医療機関を訪ねてかえって傷ついた経験があったりするなど、さまざまな理由がある。

 治療の難しさや診療報酬の点数の問題もあり、トラウマに焦点を当てた専門的な治療が普及していないことも理由の一つだ。

 国内では年間70万人がPTSDの診断基準に該当すると推計されているが、医療機関につながっている人はわずか7千人しかいない。

「誰もがトラウマを抱えている」

 兵庫県こころのケアセンターの亀岡智美・副センター長は、こうした人たちを適切にアプローチしてケアするために、専門家だけでなく、社会全般が「誰もがトラウマを抱えているかもしれない」という視点を持つことが大切だと指摘する。

 困っている本人に対しては、「いま、つらい症状が出ているのは、その人が悪いからでもダメだからでもない」ということを伝え、「過去のいろいろな出来事によって心にケガをしているからうまくいかない」という認識を持ってもらうことが大切だという。「パラダイムシフトをすることで、本人の向き合い方も変わってくる」と話す。

 治療法の研究も進む。

 PTSDの治療では、トラウマの記憶に繰り返し触れることで、恐怖がやわらぎ、過去の出来事として整理できるようにする「持続エクスポ-ジャー(PE)療法」が公的医療保険の対象になっている。

 また、虐待のサバイバー向けの支援方法として米国で開発された「ステア・ナラティブセラピー」を、日本に普及させる取り組みも進む。

 セラピーは2部構成で、感情の調整方法などを学ぶ「ステア」を行った後に、過去のつらい体験と向き合う「ナラティブセラピー」を行う。プログラムは週1回1時間、4カ月ほどで、臨床心理士などが担当する。

 海外の研究では、「ステア」を行うと、治療後、長期にわたり、感情調整や対人関係の改善効果が続くという報告もある(https://doi.org/10.1176/appi.ajp.2010.09081247別ウインドウで開きます)。

 18歳以前に身体的・性的虐待を経験した複雑性PTSD患者10人にこの治療を実施した国内の研究では、治療を終えた7人全員が、3カ月後も診断基準を満たさなくなった。重症度の得点も半分以下に改善したという(https://doi.org/10.1080/20008198.2022.2080933別ウインドウで開きます)。

 国内ではまだ研究段階で、現在、指導者の育成を進めているという。国立精神・神経医療研究センターの金さんは「近い将来、受けらる医療機関が広がることを期待している」と話す。

 研究メンバーのひとり、臨床心理士の丹羽まどかさんは「治療の選択肢が増えることで、治療の裾野が広がることを願っている」と話す。(鈴木彩子)