【コラム】槿と桜(112)

ソウルの住居事情

延 恩株 

                                

 日本で東京の都心に住んでいると聞きますと、持ち家であれば裕福な方とみなし、賃貸であれば家賃は高いにちがいないと思ってしまいます。もちろんそうでない住居もありますが、低価格の理由がそれぞれあるはずです。
 同じように韓国のソウル市内に住むとなれば持ち家は言うまでもなく、賃貸住宅でもたとえ1DK程度(日本的な言い方ですが)でさえ、東京の都心以上に高額で、住むのが難しくなってきています。特に若い独身の人たちにはなかなか手が届きません。
 共働きの夫婦がこれからマイホームを手に入れようとすれば、ソウル市以外の隣接地域に求める人が増えてきています。日本でも東京から離れた地域にも電車の路線が縦横に延びているように、韓国でも近年は地下鉄やバスの路線が充実し、ソウル中心部へのアクセスは格段に便利になっていますから、ソウル以外の市で住居を求めるのはむしろ自然の流れだと思います。

 

 日本にもさまざまな住居形態がありますが、韓国では国土が狭いため(日本の4分の1ほど)、特に人口が多いソウル市や近隣の市では一戸建て住宅より高層マンション(韓国では「アパート(아파트)」と呼びます)に住むのが一般的です。もちろん「単独住宅」(日本の一戸建て住宅。伝統的な建築様式の一戸建て住宅は「韓屋(ハノク 한옥)」と呼びます)もありますが、ソウル近郊では上述しましたように人口が多く、土地が狭いためあまり多くありません。


 参考までに、以下にいくつかの住居形態を挙げてみます。

 

「アパート(아파트)」


 日本で言う分譲マンションです。ほとんどが3LDK以上で、日本の一般的なマンションより広いでしょう。建物は10〜30階建て(あるいはそれ以上)が複数棟立ち並び、正面の入り口を入ると、一つの街のようになっていて、スーパーマーケットや銀行、学校、幼稚園など生活の利便性にも優れているところが多いのが特徴です。ただし価格が高く、このような高層マンションに住むためには一定の住宅用貯金を積み立てておく必要があり、入手するのはなかなか大変です。

 

「オフィステル(오피스텔)」
 オフィスとホテルを合わせた造語で、高層のビルにオフィスと住居が一緒に入っている建物を指します。アパートに比べると部屋数は少なく、ワンルームや1DKが多く、管理費や家賃が比較的安いため、単身者向きと言えます。管理室や警備室があるため、アパートと同じくセキュリティー面が優れていて、地下や1階にス―パーマーケットや飲食店などが入っている場合もあります。

 

「ヴィラ(빌라)」
 4~5階建ての低層で、見た目は日本のアパートに似ている建物です。部屋の仕様はさまざまですが、最近の新築はほとんどマンションに近く部屋数も2~3部屋です。ただ立地環境やセキュリティの面ではマンションやオフィステルに比べて劣る場合が多いです。

 以上3種の住居形態では賃貸の場合、日本的に言えば保証金が必要でその金額は物件によりいろいろですが、どうしても一定程度のまとまった金額を用意する必要があります。


 一戸建て住居についてはここでは省略しますが、韓国の住居形式はこれだけではありません。
 韓国の若者や高齢者、低所得者などには上記で紹介しました住居に住むことができない人びとが少なくないのです。たとえば、20、30歳代で基礎受給者(制度的にまったく同じではありませんが、日本の生活保護受給者に相当)が2017年に比較しますと、2022年末で1.7倍に急増しています。

 

 このような人びとにとって住居問題は不動産価格の上昇、正規職への就職が困難、顕著な格差社会の出現といった社会状況の中にあるだけに非常に深刻です。この深刻な住居問題を示す言葉が「ジオッコ(지옥고)」です。
 

 この言葉は劣悪な住居様式を意味していて、韓国独特の「バンチハ(반하)」、「オックタッパン(탑방)」、「コシウォン(시원)」からそれぞれ一文字ずつ取った(太字部)造語です。決して良いイメージはなく、狭い、寒い、暑い、湿気が多い、社会的にも災害的にも安全性に問題ありと見られている住居です。

 

 「バンチハ」とは、漢字で表記すれば「半地下」です。2019年の第72回カンヌ国際映画祭で韓国映画では初めて最高賞のパルム・ドールを受賞した「パラサイト」で世界中に知られるようになった住居形態です。
 

 半地下住宅は一般の住宅より家賃が安いことが最大のメリットで、リビングルーム、寝室、キッチン、バスルームがありますから通常の家の間取りは整っていると言えます。また、住宅用ではなく事務室や店舗などの商業用にも利用されています。
 しかし、日当たりが悪く、暗く、湿気が多く、降雨量によっては浸水の危険性があります。
 2022年8月8日にソウルで集中豪雨によって多くの半地下住宅が浸水し、死者まで出たことは記憶に新しいところです。

 

 この災害後、ソウル市はただちに8月10日、ソウルにある半地下住宅を段階的になくす方針を発表していますから時間はかかるでしょうが、やがてソウル市から半地下住宅が消える日が来ると思います。
 

 とはいえ、現在の若年層や低所得層が直面している住居問題で言えば、「半地下」に住めるのはまだ良い方だと言えるかもしれません。なぜなら「半地下」に住むためには、賃貸住宅に住むための保証金と言える「伝貰(チョンセ)」があり、しかも最近は急激に高騰して生活困窮者には手の届かない物件になりつつあります。韓国独特の「チョンセ」は基本的には退去時には借り手に返却されますが、若年層や低所得者層にとっては入居時にまとまった金額を用意するのは非常に困難だからです。

 

 地下がダメなら屋上へというわけではないでしょうが、「オックタッパン」という家賃が安い韓国の住居形式があります。「オックタッパン」は、漢字で表記すれば「屋塔房」です。
 

 アパートなどの集合住宅の屋上に備えられた貯水槽が冬場に凍結するのを防ぐために、その貯水槽を守るため小屋が設置されるのが一般的でした。その後、技術の進歩で貯水槽が不要となると、その小屋が賃貸物件として利用されるようになったのです。日本語では屋根部屋、屋上部屋などと訳されています。
 

 屋上にありますから天候が穏やかであれば眺望も良く開放的な気分にもなれるのでしょうが、小屋状ですから壁が薄く、夏は暑く冬は寒く、強雨・強風にも直接、吹きさらされることになります。それでも高い賃料のソウルで比較的安く借りられることから若年層や低所得者層が住む住居となっています。もっとも「ジオッコ」の中では利用している世帯数が一番少ないのがこの「オックタッパン」です。

 

 では、もっとも利用されている「ジオッコ」は何かと言いますと「コシウォン」で、漢字で表記すれば「考試院」です。
 

 本来は大学入試や公務員試験の受験者が泊まり込んで試験勉強をする小さな部屋として作られた、安く泊まれる施設でした。ですから「考試」とは中国から移入された言葉で「試験」を意味します。ところが、現在は高い賃貸料が払えない地方出身の学生や非正規労働者などが生活する居住場所となってしまっています。部屋は2畳程度で窓がない場合もあり、ベッドと机で占められて、ほかの家具はほとんどありません。狭い通路を挟んで部屋がたくさん並んでいて、火災が発生すると大きな被害が発生すると危惧されています。


 基本的には、台所やトイレ、シャワー室が共同ですが、ソウルや大都市圏の住居費の高騰から「コシウォン」が増加して、個別のトイレやシャワーが部屋に備えられたり、女性専用の「コシウォン」なども現われています。コシウォンには保証金がありませんから、低所得者でも家賃さえ払えれば入居が可能です。しかも1か月ごとの契約更新ができて、家賃は30~50万ウォン(3~5万円)程度とソウルの住居状況から見ると格安です。


 この「コシウォン」より少し状況を良くしたのが「コシテル」です。「考試院」の考試とホテルの合成語です。この「コシテル」(考試テル 고시텔)はワンルームよりは狭いのですが部屋にシャワー、トイレがあり「コシウォン」より住み心地は多少良くなります。ただしその分家賃も高くなります。女性専用もあります。

 

 日本でも住居費が高いということはよく聞きますし、住宅を取得するには、たいてい銀行ローンを組まざるを得ません。銀行からの融資を受けるためには、通常は安定した収入が得られていることが条件となります。


 たとえ賃貸物件であっても自分の収入に見合った物件を探すしかありませんから、やはりきちんと毎月給料が得られる人が利便性や機能的に優れた物件を手に入れることができます。
 それは韓国でも同じです。しかし、住居問題は今回紹介しましたように韓国は日本以上に深刻です。さらに人口過密状態のソウル市での住居問題はいっそう深刻です。

 

 収入が不安定なために「ジオッコ」のような劣悪な住居から脱け出したくても脱け出せない人びとがいる現実を見ますと、解決策はそう簡単に見いだせないのではないでしょうか。
 なによりも若年層や低所得者層の経済的な困窮からどのように脱け出させるのかが先決だからです。その解決策が見いだせない限り「ジオッコ」はなくならないと思います。

 現在、韓国は異常事態とも言える「少子化」に直面しています。その原因をたどれば、今回の住居問題とも同根といえる部分があります。


 今後の韓国の将来を考えますと心が暗くなります。中国の近代文学の創始者といわれている魯迅の小説「狂人日記」は「子どもを救え」という言葉で結ばれていますが、現在の韓国には「子どもを救え」に加えて、「若年者、そして弱者を救え」となるのかもしれません。

大妻女子大学教授

(2024.1.20)

 

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