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87年前、断種に反対した入所者が河原に放置された 両足が不自由なのに義足もなく…「見せしめだった」 ハンセン病政策の実態とは

患者の隔離政策や断種堕胎について講演する原田玲子学芸員=鹿屋市のリナシティかのや

 

 ハンセン病は現在は完治する病気で、感染力は弱い。国の誤った患者隔離政策や優生政策はどう進んだか。鹿児島県鹿屋市で市民学習会があり、同市の国立療養所星塚敬愛園社会交流会館の学芸員原田玲子さん(52)と、ハンセン病問題を報じてきた元南日本放送報道制作担当局長の陶山賢治さん(73)が、歴史や当時の報道を振り返った。内容を紹介する。

 日本は日清戦争や日露戦争で勝利し、一等国の仲間入りをした。当時の国内にはハンセン病患者が多く、神社仏閣で物乞いをしていた。これを「国の恥」と捉え、療養所を造り隔離した。第一次世界大戦が始まると、総動員で勝ち抜くため、国民の体力増強、心身の「優秀さ」を求める優生政策が芽生えた。

 
 

 ハンセン病患者は国民の質をおとしめるとされ、子どもができないよう、男女別々にされた。断種や堕胎が非合法で行われ、根拠を「本人の同意の下」としていた。内務省は1931年、患者を強制隔離する癩(らい)予防法を制定。達成するために各県を競わせたのが「無らい県運動」だった。

 35年10月、鹿屋市に星塚敬愛園が開園する。結婚は許されたが、やはり子孫を残すことは許されなかった。結婚すると仕切りのない部屋に4組が雑居。結婚の条件や個室に入る順番を決めるのに断種の有無があった。手術は同意の下とされたが、実質上強制だったと言わざるを得ない。

 36年に敬愛園で「安村事件」が起こった。断種に反対した入所者で足が不自由な安村利助さんが園職員に連れられ、両足の義足がない状態で、都城市の大淀川の河原に放置された。園側は、遺棄ではなく「(安村さんの)でたらめ」と説明。だが、園の規則や方針に従わないことへの見せしめだったのではないか。

 
 

 入所者の玉城シゲさん(故人)は堕胎手術を強いられ、後に胎児がガラス瓶に入っているのを見た。国の第三者機関のハンセン病問題に関する検証会議報告書によると、胎児は主に36~55年、ホルマリン漬けにされたが、医学や研究目的の解剖はされなかったそうだ。標本にした目的は不明とされた。

 戦後、旧優生保護法が可決された。戦前は非合法だった患者への断種が、医学的根拠がないままに合法となり、堕胎も認められた。厚労省が認めた堕胎児は7696体。ホルマリン漬けにされた子どもは118体。合法化前の数を鑑みるとこれを超えるとみられ、命を奪われた子どもたちに関する真実は闇の中だ。

 療養所で命は大切にされたのか、どれほどの命が奪われたかを考えなければならない。元患者への人権侵害に関し、問題を直視し啓発に努める必要がある。

■メディアが差別助長

 ハンセン病問題を巡り、メディアは何を伝え、何を伝えなかったかを考えたい。戦前の報道は、国辱論や優生思想に貫かれた法に沿う形で展開され、差別を助長した。国が主導した無らい県運動をあおったのも報道機関。戦後も偏見が残る記事が見られた。

 
 

 例えば、戦前の新聞は寺の境内にいたハンセン病患者を「一掃」と伝え、患者が通行人に不快の念を抱かせていたと説明した。患者が死刑執行され、現在再審請求中の菊池事件について、戦後の報道では「らい者の凶行?」と患者であることをあえて記し、特異性を強調した。

 ローカル放送でも療養所への慰問や交流を中心とした報道が主流で、内部の資料映像はほとんど残っていない。違和感を持ちながら踏み出さないという体質があった。旧ジャニーズ事務所の性加害問題でメディアの責任が問われているのと似た現象だろう。