うつりかわる鷺沼
習志野市鷺沼地区の歴史と自然
安原修次 編
関東大震災(大正12年9月1日)
これはすごかった。家の柱なども一尺(30㎝)ぐらいゆれた。道路が一尺も割れて、国道へ出ても張って逃げたものだ。
一二時ころ地震があって、一時頃には東京が火事ですごい煙だった。夜になると、この辺りまで明るかった。電燈をつけなくてもよいぐらいだった。
あくる日から、一週間ぐらいは、東京から国道を歩いて避難する人が続いた。したくはゆかた一枚で、半分こげている人もあれば、頭の毛が燃えてちぢれたようになっている人もいた。先に歩く人が綱を持ち、子どもの記者ポッポみたいに、つかまって逃げて行ったものだ。
そのうちに、
「朝鮮人が爆弾を落として東京を火事にし、今、船でこっちへ渡ってくるから用心するように」
という知らせがあった。
そこで、船を持っている人は見張りをし、消防団の人は飛びをもって警戒した。習志野訴騎兵連隊と鉄道連隊が、鉄砲をもって道路を警備していた。
ちょっと見て朝鮮人みたいなおかしな格好をしている人をつかまえた。朝鮮人はみんな、連隊まで連れていくことになっていたが、兵隊はみんな気が張っていたので、連れて行く途中で五,六人殺してしまった。
今の新津田沼駅のあたりの原っぱだったが、そこでとびでぶんなぐったりけったりした。
東京の深川に姉さんがいたので心配になり、地震があって、三日目に東京まで歩いて行った。鉄道も不通なので、にぎりめしを沢山持って歩いて行ったが、土師がみんな落ちて、江戸川を渡れないので困った。倒れた家の木が渡してあり、その上を歩いた。
九月三日に深川に着いてみると、まだ死んだ人がごろごろしていた。どこに姉さんの家があったのか、みんなやけ野原でわからなかった。周りを見回して、一番高くてよく見えたのは、浅草の一二階だった。あとはみんな焼けて平らになってしまっていた。
(○○○○ 66歳)
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1923年 大正12年