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 本日は、107人もの人々が犠牲になったJR福知山線の脱線事故から18年目の4月25日です

 

 

 

 

 

 当ブログ管理人は現在、習志野市の通学路とバス道路の交通安全を実現する会代表です。

 

 この事件の前年6月、習志野市に転入し大久保東小学校に転校したばかりの4年生の女の子が、京成大久保駅踏切南側でダンプにひかれて亡くなるという痛ましい事件が起き、この事件をきっかけに、習志野市議会と習志野警察、千葉県警察に対する署名活動と要請等に取り組み、その実現が半年先に先送りされ、大変な危機感をもって交通安全対策に取り組んでいました。

 

 当時、通学路で登下校中の小学生が交通事故で犠牲になる事件が相次ぎ、各マスコミは特集を組んで警鐘乱打していました。

 

 2005年4月25日、この日の18時から日テレで習志野市の歩道のないバス道路・通学路のこどもたちの超キケンな様子を取材した映像の放映予定でした。

 

 

 京成大久保駅南側のバス道路は全域歩道のない通学路の市道で、習志野市は現在も歩道整備をサボり続けています。

 当時、武石インターの取り締まり実施に伴い、その隣の習志野インターに接続しているこのバス道路に、ダンプ流入し、産業道路・ダンプ街道となることは、千葉県警察も習志野警察も習志野市長も習志野市教育長も知っていたにもかかわらず、一切交通安全対策を講じなかったため、まず、引っ越したばかりの小学生が犠牲になり、毎週毎週重大事故が発生していました。

 

 京成大久保駅南側の超危険な歩道のない通学路・バス道路の大型車通行規制を実現するため市民が会を立ち上げ、相談し、署名活動と要請活動に取り組み、1年足らずで3・3キロの大型車通行禁止を実現し、現在も違反車通報活動を続けています。

 

 

 

 JR福知山線脱線事件は、自民党公明党政権による安全と国際人権規約を無視した憲法違反の国鉄民営化とさらなる儲け優先のJR暴走によって引き起こされた惨害です。

 

 国家ではなく”人間の安全保障”を実現することこそが、政府と自治体の最優先課題です。

 

 政府も地方自治体もJR等鉄道会社も、日本国憲法(第98条)と世界人権宣言および国際人権規約に基づき、せめて欧州連合のように、利益最優先の民営化ではなく、命と安全最優先の持続可能な公共交通環境整備政策への大転換が大変急がれています。

 

 

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「お父さんお母さんありがとう。晴れ姿を披露できました」18歳で大事故に巻き込まれた青年の壮絶18年「人生を2回やったような気持ち」【JR脱線事故からきょう18年】

 

18年を振り返る山下亮輔さん(36)

 

 「お父さん、お母さん。大切に育ててくれてありがとう。18歳の時に大きな事故に遭いましたけれども、二人のおかげで社会に復帰でき、このような晴れ姿を披露することができました」(結婚式にて)

 

  【写真を見る】JR脱線事故から18年…発生時刻には列車が通過し手を合わせる人たち 

 

 大破した先頭車両の中に閉じ込められた、当時18歳の大学生。きょう4月25日は事故から18年、事故前と事故後と同じ年数が経ちました。山下亮輔さん(36)。生死の境をさまよいながら懸命に生き抜いた18年間を、MBS「よんチャンTV」の取材に応えました。 

 

 あの日、山下さんは脱線したJR福知山線の一両目に乗車していました。車両はマンションに直撃して地下に埋もれ、絶望視された一両目から18時間後に救出されました。当時、医師は「クラッシュ症候群を放っておけば命に関わる」と両脚の切断を考えたといいます。

 

18歳で事故に遭った山下亮輔さん

 

 10か月にわたる入院、治療は一進一退。40℃を超える熱が40日間続いて再度、両脚切断の可能性を告げられたこともありました。その間、山下さんの母親は一日も欠かさず病院に泊り込みました。 母親「頑張れっていうのもつらいし、代わってあげることもできない」  退院し成人した山下さんは、「誰かのためになりたい」と、伊丹市役所で働いています。いまも両脚に麻痺があり杖は手放せません。5年前から通う病院では、3回の手術を経験しました。  1人で生きていくことも覚悟してきましたが、ある女性との人生の出会いがありました。福祉の仕事で一緒になった奈央さんです。「こんな自分に自然体で接してくれる」と交際を経て、事故から18年を前に結婚が決まりました。 式のエスコートは、長期間看病を続けてくれた山下さんの母親が務めました。「こんなことができると思ってなかった、あの時は。しんどかったのは本人やけど、それを見てるのも辛かった」(母、顔を覆って泣く) 山下さん「今、こうしてここに立って、笑顔でいられるのも皆さまのおかげです。僕のゆっくりの歩くペースに合わせてくださってありがとうございます」(結婚式にて)

 

山下さんにとっての「福知山線事故から18年」

 

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多くの人に救われてきました。

 

これからは自分が人の支えになれるように。

 

きょうは山下さんの節目の日です。 「当時、事故があったときは18歳。そこから18年、事故の前と事故後で、同じ18年が経った。人生を2回やったような気持ち。当たり前のものが無くなった。当たり前のものがこれから無くならないように、今を生きると思って、一日の大切さを持ち続けたいと思っています」(山下亮輔さん)

 

 ◎JR福知山線脱線事故 2005年4月25日午前9時18分頃、JR塚口駅と尼崎駅の間で、宝塚発同志社前行きの上り快速電車が制限速度70km/hを大幅に超える116km/hでカーブに進入し、先頭車両から5両目車両までが脱線した。

 

運転士1人と乗客106人が死亡し、562人が負傷。

 

 

 

 

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 NHK

JR福知山線 脱線事故18年

 記憶や教訓どう伝えていくかが課題に

107人が死亡したJR福知山線の脱線事故から25日で18年です。
遺族や会社の間では、事故車両の保存のあり方をめぐる議論が今も続いていて、事故の記憶や教訓をどう伝えていくのかが課題となっています。

18年前の2005年4月25日、兵庫県尼崎市でJR福知山線の快速電車がカーブを曲がりきれずに脱線して線路脇のマンションに衝突し、107人が死亡、562人がけがをしました。

25日は、マンションの一部を残す形で整備された追悼の施設で慰霊式が行われる予定で、事故が起きた午前9時18分に黙とうをしたあと、JR西日本の長谷川一明社長がおわびと追悼のことばを述べることになっています。

長年の懸案となってきた事故車両の保存について、JR西日本は、ことし2月から大阪 吹田市にある社員研修センターの隣に専用の施設の整備を進めています。

完成は、当初予定していた来年秋から1年程度、延期となる見込みで、事故現場に残されていた遺留品なども保存し、当時の記憶を伝えることにしています。

この施設をめぐっては、一般に公開するかどうか、遺族やけがをした人、それに、会社の間で議論が続いていて、JR西日本は、今後も遺族らから意見を聞くなどして整備を進めることにしています。

事故から18年がたつ中、記憶や教訓をどう伝えていくのかが課題となっています。

兵庫県尼崎市の事故現場に建てられた追悼施設「祈りの杜」では、午前6時ごろからJR西日本の社員などが、花を運び入れるなどして準備を進める様子が見られました。