Daiichi-TV(静岡第一テレビ)
【袴田事件】弁護団が検察に「特別抗告」断念求める 新たな鑑定書の作成も明らかに…
57年前のいわゆる袴田事件で、東京高裁が裁判のやり直しを認める決定をしたのに対して、検察が不服を申し立てる「特別抗告」を断念するよう求める動きが連日続いている。16日弁護団が会見を開き新たな鑑定書を作成中であると明らかにした。
16日正午ごろ、東京高検を訪れた袴田巌さんの弁護団。
検察に対して「特別抗告を断念するよう」に再び申し入れた。 (小川 秀世 弁護士)
「13日にも申し入れをしてそれから後に、検察官が決定に対する意見を発表したこともあって」「もう一度そういうことを踏まえた申し入れ書を渡してきた」 今週(13日)、東京高裁は袴田巌さんの再審=裁判のやり直しを認めたが、検察はこの決定に不服がある場合、20日までに特別抗告すれば裁判をやり直すかどうかは再び最高裁判所で審理することとなる。こうした中、16日の会見で袴田さんの弁護団は、検察のこれまでの主張を否定する新たな鑑定書を作成中であると明らかにしたのだ。
(弁護団の会見)
「いま明らかにしたのは、特別抗告をすること自体を躊躇させる、障害になるだろうとここで発表した」
今回、高裁が再審開始を認める重要な新証拠となったのは、犯行時に着ていたとされる「5点の衣類」についた「血痕の色」だ。この衣類は、事件発生から1年2か月後に血痕の赤みが残った状態でみそタンクの中から見つかった。弁護団と検察はそれぞれが独自に、血が付いた布をみそに漬ける実験を行い、その結果などから弁護団は長期間みそに漬かると「血痕は黒くなる」、検察は「赤みが残ることはある」と主張が対立していた。
弁護団は、2022年の秋ごろ検察が独自に行ったみそ漬け実験の写真について、画像解析の専門家に鑑定を依頼した結果、検察が「赤みが残った」と主張していた部分は「血痕の色」ではなく「みその色」だったことがわかったというのだ。
(袴田さん支援クラブ 白井 孝明さん)
「周辺で見えている赤と人によってはいうかもしれないこの色は、血痕の色ではない。血痕は事実上色を失っていて、ここは色を失った血痕を透かして、みその色をみている」「どの写真を解析してもほぼ同じ結果がでるので これを専門家が説明してくれた」
弁護団はこの鑑定結果をまとめている最中だと説明し、検察は「特別抗告」をするべきではないと強く訴えた。
(小川 秀世 弁護士)
「赤みが残ったとかを蒸し返すしかないと思うが」「化学的に全然間違った主張に過ぎないんだということを明らかにできる」「特別抗告をするような状況にはないと思いますね」
一方、東京高検の山元裕史次席検事は「主張が認められなかったのは誠に遺憾である 決定の内容を精査し、適切に対処したい」とコメントしている。
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元プロボクサー袴田巌さんの再審認める決定 東京高裁 証拠“ねつ造”疑い言及
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袴田巌さんの再審認める決定 東京高裁 証拠“ねつ造”疑い言及
57年前、静岡県で一家4人が殺害された、いわゆる「袴田事件」で、無罪を主張しながらも死刑が確定した、袴田巌さんについて、東京高等裁判所は再審=裁判のやり直しを認める決定をしました。有罪の根拠とされた証拠について、決定は「捜査機関が隠した可能性が極めて高い」と、“ねつ造”の疑いに言及しました。

袴田巌さん(87)は、57年前の1966年に今の静岡市清水区で一家4人が殺害された事件で、死刑が確定しましたが、無実を訴え、裁判のやり直しを求めています。
9年前、静岡地方裁判所が再審を認める決定を出し、袴田さんは死刑囚として初めて釈放されましたが、その後の東京高裁は一転して再審を認めず、さらに最高裁が審理が尽くされていないと判断したことから、東京高裁で再び審理が行われる、異例の展開をたどっていました。
最大の争点は、逮捕から1年以上あとに現場近くのみそタンクから見つかった衣類についた血痕の色の変化です。
衣類は有罪判決の決め手となった証拠ですが、袴田さんが隠したものかどうかを検証するため、1年以上みそに漬かった状態でも血痕に赤みが残るかどうか、弁護側と検察の双方が主張を繰り広げました。
13日の決定で、東京高裁の大善文男裁判長は、弁護側が示した実験結果などについて、「1年以上みそに漬けられると血痕の赤みは消えることが、専門家の見解からも化学的に推測できる。袴田さんが犯行時に着ていたという確定判決の認定には合理的な疑いが生じる」として、「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」にあたると判断し、再審開始を認めました。
さらに、「衣類は事件から相当な期間が経過したあとに第三者がタンクに隠した可能性が否定できず、事実上、捜査機関による可能性が極めて高い」と厳しく批判しました。
また、袴田さんの釈放についても、「無罪になる可能性や再審開始決定に至る経緯、袴田さんの年齢や心身の状況に照らして相当だ」として、引き続き認めました。
決定に不服がある場合、5日以内に検察は最高裁判所に特別抗告することができますが、決定が確定すれば、裁判がやり直されることになります。
東京高裁の前では支援者らから喜びの声
東京高等裁判所の前では、再審を認める決定が出された直後の午後2時すぎ、裁判所から出てきた弁護士が「再審開始」や「検察の抗告棄却」と書かれた紙を掲げると、集まった支援者らから大きなどよめきが起きました。
そして、「よくやった」とか「よかった」といった喜びの声があがっていました。
その後、袴田さんの姉のひで子さんが、裁判所から笑顔で出てきて、「再審が認められ本当にうれしいです。56年間闘ってきて、この日がくるのを心待ちにしていました。これでやっと肩の荷が下りた感じがします」と話していました。
また、弁護団の小川秀世弁護士は「当然の決定だと思いますが、本当にうれしいです。検察に対しては特別抗告をしないよう要請します」と涙を流しながら話していました。
そして、ひで子さんと小川弁護士が抱き合って喜びを分かち合うと、支援者から大きな拍手が送られていました。
このあと、袴田さんの支援者20人余りは午後3時前に東京高等検察庁の前に集まり、プラカードを掲げながら「検察は再審開始決定に従え」とか「袴田さんに真の自由を」などとシュプレヒコールをあげていました。
弁護団長「検察官の主張ことごとく排斥 画期的だ」
再審を認める決定を受け、袴田さんの姉のひで子さんと弁護団、それに支援する日弁連=日本弁護士連合会が会見を開きました。
この中でひで子さんは「再審開始になることを願って今まで生きてきたので、大変うれしく思っています。家に帰ったら本人に『よい結果が出たから安心しなさい』と言うつもりです。早く死刑囚でなくなることを願っています」と喜びを語りました。
また、西嶋勝彦弁護団長は「決定は、高裁での審理の争点だった血痕の色について検察官が行った実験には信用性がないと判断した。これまで争われてきた論点についても検察官の主張をことごとく排斥していて、画期的だ」と述べました。
そのうえで「それぞれの証拠を総合評価して、無実になる可能性があることを明言していて、速やかにやり直しの裁判に移行するべきだと表明していると思う」と強調しました。
また、日弁連の再審法改正実現本部で本部長代行を務める鴨志田祐美弁護士は、「再審手続きを定めた法律には証拠開示について明文化した規定がなく、再審開始を認める決定が出ても、検察官が不服を申し立てることができるため、審理が長引き、取り返しのつかない悲劇を生み出している。法改正しかないということを世の中に訴えていきたい」話していました。
東京高検「主張認められず遺憾 適切に対処したい」
再審の開始を認める決定を受け、東京高等検察庁の山元裕史次席検事は「検察官の主張が認められなかったことは遺憾である。決定の内容を精査し、適切に対処したい」というコメントを出しました。
きょうの袴田さんの様子は
支援者によりますと、袴田巌さんは、13日は午前9時半ごろに起床し、朝食にみかんやりんごなどの果物を食べたということです。
ひで子さんが袴田さんのひげをそったり、髪を整えたりしていました。
ひで子さんは決定文を受け取るため東京高裁に向かい、袴田さんは同行しません。
ひで子さんが「きょうは東京へ行ってくるから。一晩、泊まってくるからね」と伝えると、袴田さんは「あ、そう」と応じていました。
午後は、支援者の運転する車で、幼少期に足を運んでいた浜松市浜北区の「岩水寺」を訪れました。
袴田さんは寺の本堂の前でさい銭箱にお金を投げ入れると、静かに手を合わせ、線香をあげていました。
また、寺の近くにある大きな仏像の前でも手を合わせていました。
そして記者から「きょうはどんな日ですか」と声をかけられると、「勝つことだね。勝つ日だと思うがね」などと話していました。
識者「『疑わしきは被告人の利益に』という考え方に」
決定について、元裁判官で刑事裁判の経験が長い、半田靖史弁護士は「『血痕の赤みが失われるか化学的に説明する』という最高裁から与えられた課題について、高裁は専門的な知見によって合理的に裏付けられたと認定した。『疑わしきは被告人の利益に』という考え方に立ち、誰が衣類を隠したのかはっきりわからなくても、血痕に赤みが残っているのはおかしいとさえ言えればよいと判断した」と評価しました。
その上で、「検察が行った実験も弁護側の理論を裏付けるものと判断された。検察は立証の機会をたっぷり与えられていたので、潔く結論を受け入れるべきではないか」と指摘しました。
袴田事件 今後の手続き
再審開始を認めた東京高裁の決定に不服がある場合、検察は5日以内に最高裁判所に特別抗告することができます。
今回は週末を挟むため、特別抗告の期限は今月20日となります。
特別抗告が行われれば、再審開始の判断は最高裁に委ねられることになり、審理が続きます。
一方、13日の決定が確定すれば、静岡地方裁判所でやり直しの裁判が行われ、無罪に大きく近づくことになります。
過去の再審判断と法改正の動き
過去にも死刑や無期懲役が確定した事件で再審開始が認められ、無罪となったケースがあります。
死刑が確定した事件では、
▼1948年に熊本県で夫婦2人が自宅で殺害された免田事件や、
▼1954年に静岡県で当時6歳の女の子が連れ去られて殺害された島田事件などで無罪が言い渡されました。
無期懲役が確定した事件では、
▼1990年に栃木県で当時4歳の女の子が殺害された足利事件や、
▼1997年に東京電力の女性社員が殺害された事件などで、
再審によって無罪が言い渡され、その後、確定しています。
最近では、大阪 東住吉区の住宅で11歳の女の子が死亡した火事で殺人などの罪で無期懲役が確定し、服役していた母親が、2016年に再審で無罪となっています。
また、先月27日には、39年前に滋賀県日野町で起きた強盗殺人事件で無期懲役が確定し、服役中に死亡した男性について、大阪高等裁判所が再審開始を認める決定を出しました。
再審が認められるまでに長い年月がかかっていることから、日弁連=日本弁護士連合会は「法制度の不備がえん罪被害を救済する妨げになっている」として、再審手続きに関する法律を速やかに改正するよう求めています。
先月公表した意見書では、
▼再審の手続きでも通常の裁判と同じように裁判所が検察に対して証拠の一覧表を提出するよう命じられるようにするほか、
▼手続きが長期化しないよう、裁判所が再審を認めた場合には検察による不服の申し立てを禁止すべきだとしています。
ボクシング界の支援団体「感無量のひと言」
元プロボクサーの袴田巌さんに対して、ボクシング界は支援団体を設立して拘置所で袴田さんに面会したり、再審を求めるデモを行ったりするなど、長年にわたって活動してきました。
再審を認める決定について、支援団体の中心メンバーで元東洋太平洋バンタム級チャンピオンの新田渉世さんは、「感無量のひと言だ。ほかの支援者や弁護団の活動のたまものだが、ボクシング界でも精いっぱい支援してきたのでうれしい。まだ確定ではないが、ボクシング界の大先輩である袴田さんに勝利の見込みが出てきたので、おめでとうと伝えたい」と喜びを話しました。
その上で、「検察には特別抗告をしないように求めていきたい」と話していました。
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日経新聞
袴田事件の再審認める 東京高裁、死刑確定から42年
1966年に静岡県で一家4人が殺害された事件で死刑が確定した袴田巌さん(87)について、東京高裁(大善文男裁判長)は13日、裁判のやり直しを認める決定をした。最高裁での死刑確定から約42年、再審の道が開かれる可能性が高まった。
検察が特別抗告すれば、最高裁で審理が続くことになる。特別抗告を見送れば、静岡地裁で再審が始まる。再審開始が決まった場合、戦後の死刑確定事件で5例目。
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「袴田事件」再審開始決定を出した元裁判長が語る「再審」
1966年に静岡県で一家4人が殺害される事件が起きました。
犯人として逮捕・起訴されたのはプロボクサーだった袴田巌さん。
死刑が確定しましたが、その後も一貫して無実を訴え、40年以上にわたって「再審」=裁判のやり直しを求め続けています。
きょう(13日)東京高等裁判所は袴田さんの再審を認める決定をしました。
「袴田事件」と呼ばれるこの事件では、9年前にも再審を認め死刑囚を初めて拘置所から釈放するという前例のない決定が出されていました。
異例の判断の裏に何があったのか、当時の裁判長が取材に応じました。
袴田事件とは
1966年6月、いまの静岡市清水区でみそ製造会社の専務の家が全焼。
焼け跡から一家4人の遺体が見つかり、この会社の従業員で元プロボクサーの袴田巌さんが、強盗殺人などの疑いで逮捕されました。
袴田さんは当初、無実を訴えましたが、逮捕から19日後の取り調べで自白。しかし、裁判では再び無罪を主張しました。
事件発生から1年余り後、すでに裁判も始まっていた時期に、みそ製造会社にあったタンクから血の付いたシャツなど「5点の衣類」が見つかります。
犯人のものなのか、それとも“ねつ造”されたものなのか、現在に至るまで争われ続けている証拠です。
1968年、1審の静岡地裁は、45通の調書のうち44通は自白を捜査官に強要された疑いがあるとして証拠として認めませんでしたが、この「5点の衣類」が有罪の証拠だと認定し、袴田さんに死刑判決を言い渡しました。
2審の東京高裁と最高裁でも無罪の主張は退けられ、1980年に死刑が確定しました。
再審求め翻弄された40年
死刑が確定したよくとしの1981年、袴田さんの意を受けた弁護団は再審=裁判のやり直しを裁判所に求めますが、2008年、最高裁で再審を認めない判断が確定しました。申し立てから実に27年がたっていました。
2回目の再審の申し立ては異例の展開をたどります。
2014年、静岡地裁は再審開始を命じるとともに、袴田さんの死刑の執行を停止する決定を出します。
「捜査機関が重要な証拠をねつ造した疑いがある」と当時の捜査を厳しく批判し、拘置所にいた袴田さんの釈放までも認める前例のない判断でした。
しかし、検察が不服として即時抗告。東京高裁は地裁と逆の判断をして再審を認めず、最高裁は「審理が尽くされていない」として再び高裁で審理するよう命じました。最高裁では5人の裁判官の意見が3対2で分かれ、2人は「再審を認めるべきだ」と述べていました。
“僕は犯人ではありません”
袴田巌さんはいま、浜松市で暮らしています。
釈放されてからは、外を自由に歩きたかった日々を取り戻すかのように散歩が日課となり、毎日数時間、歩き続けていました。
一方で、死刑への恐怖から自分の世界に閉じこもるようになり、今も意思の疎通が難しい状態が続いています。
そんな袴田さんを事件発生から半世紀以上にわたって支え続けてきたのが、姉のひで子さん(90)です。
6人きょうだいの5番目と末っ子で年が近く、子どものころはよく2人で川遊びに出かけるなどいつも一緒にいたといいます。
ひで子さんは優しい弟が事件を起こすはずはないと信じ続けてきました。
家族のもとには、勾留中の袴田さんから毎日のように手紙が届きました。そこには、無実を訴える悲痛な声がつづられていました。
袴田巌さんの手紙
「僕は犯人ではありません。僕は毎日叫んでいます。此処静岡の風に乗って世間の人々の耳に届くことを、ただひたすらに祈って僕は叫ぶ」
「事件には真実関係ありません。私は白です」
ひで子さんは仕事のかたわら、可能な限りの時間とお金を弟のために費やしました。面会も重ね、袴田さんを励まし続けましたが、裁判では死刑が言い渡されます。周囲からの冷ややかな目に心身は傷つき、一時はお酒を飲まないと寝つけない状態にもなったといいます。
ひで子さん
「まさか巌がね、そんなことするわけないと思っていた。夜ふっと目を開くと巌のことを考えて眠れなくなって、お酒飲んで寝る。顔の肌なんか、粗壁を触っているようだった。それでも朝には化粧をして、仕事に行かなきゃいかんから行っていた。全部敵に見えたもん。弁護士でさえ敵に見えた。支援者でさえ敵に見えた。誰もわかってくれないし」
死刑が確定したあと、袴田さんの心は少しずつむしばまれていきました。
ひで子さんとの面会も拒否するようになり、3年7か月ぶりに対面を果たしたときは、みずからを「袴田巌ではない。神になった」と語り、会話は通じませんでした。
その後も面会拒否の期間が長く続きましたが、ひで子さんは諦めず、浜松市から月に1度、東京のに拘置所に通い続けました。
48年ぶりに家族のもとへ
ひで子さんの長年の活動が実を結び、袴田さんを支援する輪は徐々に拡大し、再審を求める運動も広がりました。
そして2014年3月、静岡地裁で再審開始が決定。
袴田さんは釈放され、48年ぶりにひで子さんのもとに帰ってきました。
「再審開始・釈放」決定出した裁判長
袴田さんを釈放する決定を出した村山浩昭元裁判官(66歳)です。
当時、静岡地裁で裁判長として袴田事件の審理にあたりました。
1983年に裁判官になってから主に刑事裁判を担当し、おととし退官。いまは弁護士として裁判に携わっています。
死刑が求刑される事件を一度も担当したことがない裁判官も多い中、村山さんは秋葉原無差別殺傷事件など複数の死刑事件で裁判長を務め、「究極の刑」の判断に何度も向き合ってきました。
裁判官が判決や決定を出すために話し合う「評議」の内容は公にしてはならないと法律で定められています。
しかし、あの異例の決定がどのように生まれたのか知りたいと取材を申し込むと、「墓場まで持って行かなければならないこともある。その前提でいいなら」と話をしてくれました。
「証拠開示」が導いた”ねつ造“の指摘
村山さんが静岡地裁に赴任したのは2012年。
静岡地裁では市内で2000万円が奪われた強盗傷害事件やうなぎの産地偽装事件など数々の刑事裁判を担当し、判決を言い渡しました。
赴任した当時、袴田事件の審理は大詰めを迎えつつありました。前任者から引き継ぎ、裁判長として審理を担当することになった村山さんは「身の引き締まる思いだったし、何とか判断を出すまで頑張らなければならないと思った」と振り返ります。
最大の争点は、有罪判決の決め手となった証拠「5点の衣類」が本当に袴田さんのものなのかどうか。判決では袴田さんが犯行時に着ていたものと認定されましたが、現場近くのみそタンクの中から衣類が見つかったのは袴田さんが逮捕されてから1年以上もあとだったため、弁護団は「逮捕されたあとに別の誰かが入れたものだ」として、ねつ造された証拠だと主張していました。

静岡地裁の審理では衣類についた血痕のDNA鑑定が行われ「袴田さんのDNAとは一致しない」とする鑑定結果が出ていました。
さらに村山さんは検察にこれまで出していない証拠がないか、あれば開示するよう積極的に働きかけました。その結果、「5点の衣類」はねつ造の可能性があると判断し、再審開始と釈放を認める決定を出したのです。
決定では「捜査機関によってねつ造された疑いのある証拠によって有罪とされ、極めて長期間死刑の恐怖の下で身柄を拘束されてきた」と指摘しました。
再審に関する法律には検察がどこまで証拠を開示すべきかなどの定めはありません。
裁判長の裁量に委ねられる中、なぜ積極的な対応を取ったのか尋ねると「規程がないからこそ自分たちでやらなければ」という思いだったと明かしました。
村山元裁判長
「証拠の開示がいかに重要かというのは過去の例からも知っていたので当然だと思いました。前任の裁判長の功績である程度開示が進んでいたこともあって違和感なく検察にも強く言うことができました。『5点の衣類』についても『写真だけでなくネガも出してほしい』と散々言って検察官は『あれば出します』と言っていたんですが、結局『ない』と。その後の高裁の審理で『警察署にありました』と出してきましたけどね。
正直言ってたくさん証拠開示されても心証に響くものはそんなに多くはありません。ただ丹念に見ていくとこんなものがあったのかということもあるんです。有罪となった裁判の段階で出されていたら結論が変わっていたかもしれないという証拠が1個でも2個でも出てきたら、そのこと自体が重大な問題ですよね」
異例の執行停止
村山元裁判長は袴田さんが求めていた再審開始を認める決定を出し、同時に「拘置の停止」、つまり拘置所からの釈放も命じました。
再審開始を認めた場合の条文には「刑の執行を停止することができる」という記載はありますが、死刑囚を釈放できるかどうかまでは書かれておらず、解釈も分かれていました。
前例がない判断に不安や恐怖はなかったのかと尋ねると「それはありました」という村山さん。それでも決断したのは2つの確信があったからだといいます。
村山元裁判長
「決定に書いたように、最大にして唯一の証拠と言ってもいい『5点の衣類』は捜査機関によるねつ造の疑いがあると考えたのが1つ。
もう1つは、袴田さんは一体何年拘束され、このまま拘置が続いたらどうなるのかと思ったことです。実は私は東京拘置所まで袴田さんに会いに行っています。本人から直接意見を聴き、心身の状態がどうなっているのか知りたかったのですが、袴田さんは会ってくれませんでした。看守さんから伝えてもらっても『袴田事件はとっくに終わった』とか『自分は魔王になった』『神様だ』などと言って、精神的に追いこまれていて拘置所の人も心配していました。私が調べた限りでは裁判所が拘置の停止を命じた例はなく、解釈上も死刑の執行は止められても、拘置は止められないと理解するのが普通だったんですけど、果たしてそれでいいのかなと。裁判官は判例などを重く見るので、確立したやり方については自信を持ってやりますけど、新しいやり方は一種の冒険です。そういう意味ではある程度確信がないとできないです」
手探りの再審制度
一方、再審開始について「勇気を出して覚悟を持ってやらないといけないということではなく、やり方のスタンダードの規程があった方が、当然スムーズに行くと思う」と話します。
再審の手続きは刑事訴訟法で定められていますが、条文は19しかなく、しかも大正時代から一度も改正されていません。審理の進め方などの詳細について定めはなく、裁判官の裁量に任されているのが現状です。
村山元裁判長
「今の再審制度のままでは、どの立場に立っても手探りです。検察官から『私は何をしたらいいですか?』と聞かれたこともありますし、再審に関わったことがない弁護士が請求をしようとしたら大変な状況です。再審事件の審理が無理なく進められるよう制度を整えることは、えん罪被害者の救済だけでなく、裁判官や弁護士、検察官など審理に関わるすべての人のためになると思います。だからこそ袴田事件の審理を経験した元裁判官として、法改正の必要性を訴えています」
“もっと早く正されないといけなかった”
私たちは最後に、「長年の裁判官人生の中で袴田事件はどんな存在か」と尋ねました。
すると村山元裁判長は、ひとつひとつの言葉を丁寧に紡ぎながらこう答えました。
村山元裁判長
「大変な事件でしたが考えれば考えるほど『こういうことはあってはならない』『もっと早く正されなければいけなかった』と思いました。
一緒に審理した裁判官2人とは『とにかく一生懸命やろう』としょっちゅう話していて、決定を出すときにはみんなして『こんなもの絶対に許しちゃいかん』と怒っていました。
元裁判官としては、自分のやった裁判がひっくり返されたら大変辛いですけど、それでもやはり救済されるべきものは救済されないとおかしいと思います。私にとっては、再審法の改正という今後の人生の課題まで与えてくれた事件でもありますし、ひで子さんに会えたことは一生の喜びです」
東京高裁の判断は
そしてきょう(13日)、東京高等裁判所は決定で弁護側がこれまでに示した実験結果などについて「無罪を言い渡すべき明らかな証拠にあたる」と認め、村山さんたちの9年前の判断に誤りはないとして再審開始を認めました。
決定は争点となっていた5点の衣類について「事件から相当期間経過したあとに第三者がタンクに隠した可能性が否定できない。事実上、捜査機関の者による可能性が極めて高い」と“ねつ造”の可能性を指摘しました。
釈放についても「袴田さんが無罪になる可能性、再審開始決定に至る経緯、袴田さんの年齢や心身の状況に照らして相当だ」として地裁の決定を維持しました。
決定を受けて弁護団はこれ以上審理を長引かせるべきではないとして、検察に対し最高裁に特別抗告しないよう強く求めています。
東京高等検察庁次席検事は「主張が認められなかったことは遺憾だ。決定の内容を精査し、適切に対処したい」とコメントしています。
失われた日々

東京高裁の決定が出る3日前の3月10日、袴田さんは87歳の誕生日を迎えました。去年の夏ごろから長く歩くことが難しくなり、支援者の車で出かけることを望むようになりました。さらに糖尿病を患い、日常生活では介助が必要な場面も出ています。
袴田さんを支え続け、ともに暮らすひで子さんも2月で90歳になり、去年から毎月、医師の往診を受けるようになりました。
人生の大半を再審に費やしてきた2人。
司法の判断に翻弄され続け、袴田さんは今も“死刑囚”のままです。
ひで子さんは「真の自由を与えてほしい」と強く願い続けています。
ひで子さん
「いつ死んでも良い人間だもの、年で言えばね。あたしもそうだけど、巌もそう。いつ何があっても覚悟しているけど、再審開始を見届けにゃ、死ぬにも死ねんよ。
今はなんも言わんけど、巌の48年はすさまじいもんだと思う。死刑囚でなくなったよって伝えてやりたい。それだけです」
袴田さんもひで子さんも高齢になる中、「無罪かどうか」ではなく「裁判をやり直すかどうか」を判断するのに40年もかかっているという事実、そして村山元裁判長が感じた法制度の不備は、えん罪の救済はどうあるべきか、重い課題をつきつけています。
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取り調べは「拷問」、裁判長は勘違い、エリート調査官も「誤り」 「袴田事件」の経過を改めてたどって判明した、刑事司法のずさんな実態(後編)
「こがね味噌」工場のみそタンクから見つかった「5点の衣類」(山崎俊樹さん提供)
1966年に静岡県で起きた「こがね味噌」専務家族4人殺害事件。逮捕された袴田巌さんは、長時間に及ぶ警察の取り調べで意識朦朧とする中、「自白」させられた。静岡県では、これ以前にも似たような過酷な取り調べを経て自白調書が作成され、死刑判決後に再審で無罪となった事件がある。「島田事件」だ。捜査主任は、袴田さんの取り調べにも駆り出された天竜署次長の羽切平一警部。国家地方警察(国警)静岡県本部の職員録を見ると、羽切氏は島田事件当時、捜査課で強盗や殺人事件を担当する強力係長だったことが分かる。取り調べの実態を知れば、犯行を告白した「自白調書」がいかに信用できないかが見えてくる。(共同通信=藤原聡)
【前編はこちら】 https://www.47news.jp/47reporters/9049392.html
▽名刑事から一転、「拷問王」と呼ばれた警部補
「スワッタママデ私ハ小便ヲモラシタノデアリマス」。島田事件で死刑確定となった赤堀政夫さん(93)が1974年12月、第4次再審請求で静岡地裁に提出した上申書の一節だ。赤堀さんは、たどたどしい文章で「16時間の取り調べの間、便所へ行かせてくれなかった」と訴えた。袴田さんの取り調べとの酷似に驚かされる。
赤堀政夫さんの上申書の一節。16時間の取り調べの間、便所へ行かせてくれなかったことなどが書かれている
赤堀さんは、静岡県島田市で1954年3月、幼稚園の女児が行方不明となり絞殺体で見つかった事件で殺人罪などに問われ、死刑判決を受けた。その後、再審が開かれて1989年に無罪となる。
島田事件のほかにも静岡県では、死刑判決後に無罪となった強盗殺人事件が2件ある。幸浦事件と二俣事件だ。冤罪事件が相次いだ背景には、国警の紅林麻雄警部補の存在があった。
二俣事件を振り返ってみる。静岡県二俣町(現浜松市天竜区)で1950年1月、親子4人が刺殺され、現金が奪われた。紅林警部補は、近所に住む18歳の少年に目を付け、別件の窃盗容疑で逮捕、4人殺害を厳しく追及した。
少年は二俣署裏の土蔵に押し込められ、殴る蹴る、引きずり回すなどの拷問を受けた。4日後、少年は「4人を殺害した」と「自白」し、虚偽の供述調書が作成された。
その後、少年が死刑を求刑されたのを知った捜査員の山崎兵八巡査が良心の呵責に耐えかね、拷問の事実を法廷で証言。警察は山崎巡査を偽証罪で逮捕し、免職にした。少年は一、二審で死刑判決を受けたが、最高裁が破棄し、無罪となった。