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NEWSWEEK

植民地支配の「罪」をエリザベス女王は結局、最後まで一度も詫びることはなかった

 

<黒人奴隷を酷使して植民地で儲けたことで大英帝国の礎を築いたという過去を、逝去したエリザベス女王は謝罪しなかった>【ハワード・フレンチ(コロンビア大学ジャーナリズム大学院教授)】

 

1961年には旧植民地ガーナを訪れ、かつて栄えたアシャンティ国の王族に会った KEYSTONE-FRANCEーGAMMAーKEYSTONE/GETTY IMAGES

 

まずい、わが国は出遅れたぞ。16世紀の半ば、エリザベスという名のイングランド女王は周辺諸国を見回して、そう気付いた。

 

見よ、大陸の諸王国は世界の果てまで領土を広げているではないか。

 

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先鞭をつけたのはポルトガルとスペインだった。まずはポルトガルが15世紀半ばに西アフリカまで船を出し、現地の金を輸入し始めた。

それからサントメという小さな島を占領し、大規模農場で「売買可能な商品」としての黒人奴隷を働かせるという画期的な手法を考案し、サトウキビの大量生産を始めた。

 大西洋を南下してサトウキビを栽培・加工し、そこで働かせる奴隷も現地で調達する。この経済モデルはたちまち欧州諸国に広まり、各国の経済を急成長させ、西洋人が「その他大勢」に君臨するという神話を生み出した。

 しかしエリザベス1世の時代(シェークスピアが活躍した時代だ)、イングランドの威光が及ぶのはせいぜい隣国アイルランドまでだった。

これに不満な女王は、貴族やジョン・ホーキンスのような海賊をけしかけ、大西洋上でポルトガルやスペインの商船を襲わせ、積み荷の金やアフリカ人奴隷を強奪させた。 

こうしてエリザベス1世は、後の大英帝国の土台を築いた。それに続いた諸王は彼女の路線を引き継ぎ、1631年にはその名も「ロンドン冒険商人会社」を設立した。言うまでもないが、この「冒険」はアフリカの金と奴隷の暴力的な搾取を意味していた。

後にこの会社は「王立アフリカ冒険商人会社」と名前を変え、なんと1000年に及ぶアフリカ貿易の独占権を付与されることになった。 

同じ頃、大西洋の反対側にあるカリブ海の小さな島で、大英帝国が本格的な一歩を踏み出した。イングランドがバルバドス島を、国王直属の植民地としたのである。 

 

■奴隷なくして帝国なし 

 

そして当然のことながら、ポルトガルがサントメ島で始めた道徳的には許せないが経済的にはうますぎる植民地経営のモデルを採用した。

サトウキビの大規模農場を造り、アフリカ大陸から鎖につないで運んできた男女の奴隷を死ぬまで働かせた。 

その数は、ずっと広い北米大陸の植民地に送り込んだ奴隷の総数に迫る。

こうして植民地バルバドスは、本国イングランドにとって、文字どおり「金のなる木」となった。 西洋諸国の学校では南北アメリカ大陸を「新世界」と呼び、その開拓時代にヨーロッパの諸帝国が活躍したと教えている。

よく語られるのは、スペインのコンキスタドール(征服者)が南米のインカ帝国やメキシコのアステカ文明を滅ぼし、ガレオン船に大量の金銀財宝を積んで持ち帰ったという武勇伝だ。

 

おぞましい事実から目を背ける教育

しかしイングランドの植民地バルバドスの例を見れば明らかなように、アフリカ人奴隷を酷使する「新世界」の大規模農場(最初はサトウキビを、後には綿花やコーヒーを栽培した)の生み出す利益は、新大陸開拓とは比較にならないほど大きかった。 

当時のイングランドは、アフリカ人奴隷を人間として扱っていなかった。そのおぞましい事実に目を背けたいから、イギリスでは昔から、大英帝国の基礎はインドで築かれたと教えてきた。

 だが実は、イギリスのインド統治が始まるよりずっと早くに、カリブ海の島々(いわゆる「西インド諸島」)で、とんでもなく稼げる植民地が成立していた。

 

 当時、そこで最も栄えていたのはフランス領のサンドマング。この島での暮らしは悲惨だった。悲惨すぎた。だからアフリカ人奴隷は1791年に決死の反乱を起こした。

そして10年以上も戦い、ようやく解放を勝ち取った。そして「新世界」ではアメリカに次いで古い独立国が生まれた。今のハイチだ。 

近代のヨーロッパが経済的にも軍事的にも世界最強になり得たのは奴隷制のおかげだ。

 

しかしヨーロッパには昔から、この歴史的事実を否定したがる人がいる。イギリスにもたくさんいる。そして奴隷貿易は大して儲からなかったし、植民地における大規模農場の果たした役割も小さいと言いふらしている。

 

 とんでもない話だ。

 

ではなぜナポレオンは、最大規模の遠征隊をサンドマングに送り込んで奴隷の反乱を鎮圧しようと試みたのか。

それだけの犠牲を払う価値が、奴隷の島にはあったからだ。 

 

しかしナポレオン軍は敗退した。

隙を突いてスペインが乗り出し、奴隷の軍隊と戦ったが、やはり負けた。

 そしてイギリスだ。

既に世界最強の帝国となっていたイギリスは、アメリカ独立戦争での敗北という屈辱を忘れるためにも新たな植民地を手に入れようとし、史上最大の遠征隊を送り込んで反乱を鎮圧しようとしたが、やはり不名誉な敗北を喫した。 

 

サンドマングでの戦死者は、アメリカ独立戦争での犠牲者よりも多かった。

 

しかしイギリスのどこを探しても、サンドマングに散った兵士たちを顕彰する旗の掲げられた場所はない。そしてたいていの学校は、この悲しい歴史について教えていない。

 

 ちなみにフランス皇帝ナポレオンは、懲りずに2度目の遠征隊を送り込んだが、こちらも無惨な敗北を喫した。そして財政的な損失を補うため、北米にあった広大な植民地ルイジアナをアメリカに売り渡した。当時のアメリカ大統領はトマス・ジェファソン。

アメリカはこれで、領土を一気に2倍に広げた。

 

大英帝国は「良性」だったのか?

9月8日の逝去以来、エリザベスという名を持つ2人目の英国女王の生涯がほぼ無条件に、際限なく称賛されている。

 

そこで奴隷制の過去が問われるとしても、せいぜい女王は大英帝国の終焉を見届け、20世紀後半における脱植民地化のシンボルになったという程度の言及にとどまる。

 

 筆者はジャーナリストとして、長らくかつての植民地に暮らしてきた。

奴隷制と、それが世界に及ぼした数々の影響について多くの文章を書いてもきた。

 

大英帝国にはアフリカの人的資源と天然資源を搾取し、奴隷化し、支配した過去がある。

 

この根深い問題に目を向けることなく、通り過ぎようとする今の状況には大いに違和感を覚える。 

 

読者のほぼ全員と同じように、私もこれまでの人生全てをエリザベス2世の時代に過ごしてきた。

 

大方の人が認めるように、彼女の自信に満ち、落ち着き払った態度は貴重な資質であり、変化の激しい世の中にあって、彼女は安定と一貫性を担保する存在であったと思う。

だから故人に対する悪感情はかけらもない。

 

しかし彼女が君臨した帝国、そして帝国主義そのものを許すことはできない。

 

 今は多くの英国民が、新しい内閣の人種的・民族的多様性を絶賛し、主要閣僚に白人男性がいないという新たな高みに達したことに誇りを感じている。

 

これ自体は結構なことだ。

 

けれども、そういう事実や津波のような追悼報道に溺れて忘れてはいけない事実がある。

 

イギリスが実現した「帝国」は、その歴史のほぼ全体にわたって、露骨な人種的優越主義の代名詞だったという事実だ。 

 

白人の優越は帝国の大前提の1つだった。私たちは大英帝国(に限らず、全ての帝国)を民主主義と関連付けるような議論に惑わされてはならない。そんなものはナンセンスとしか言いようがない。 保守党新内閣の新たな多様性の権化とも言える財務相は、イギリスの植民地だったガーナから1960年代に移住してきた移民を両親に持つクワシ・クワーテング。彼は2011年に発表した著書『帝国の亡霊』で、賢明にもこう指摘している。 「民主主義という概念は植民地行政官たちの頭になかった。

 

彼らの頭は階級制度や白人の知的優越、家父長制といった思想で埋まっていた」 ただし、大英帝国を「良性」の専制国家と見なす彼の見解には同意できない。

冷徹な目で事実を見つめることを避けてしまうと、そういう虫のいい神話がはびこるものだ。そもそも奴隷制の上に築かれた大英帝国は、その歴史の大半を通じて民主主義とも人権意識とも無縁だった。

 

200年間、インドの住民の所得は増えず

私はアフリカの問題に関して多くの文章を書いてきたから、この主張を補強するようなアフリカ大陸での事例ならいくらでも紹介できる。

だがここでは、大英帝国は黒人以外の人種に対しても見境なく非道であった事実を示しておきたい。 

 

中国を見よ。

 

イギリスは貿易収支の帳尻を合わせ、中国に対する優位を守るため、戦争までした。これでも大英帝国は「良性」だったのか。 大英帝国の歴史については重要な2冊の著書がある。一方は既に古典的な名著だが、もう一方はまだ新しい。 

まずは歴史家マイク・デービスによる大著『ビクトリア朝後期のホロコースト』(2000年)だ。

19世紀後半の大英帝国が世界的な干ばつの連鎖に付け込んで、いかに領土の拡大と遠方の異民族に対する政治的支配を進めたかを詳しく記している。 大英帝国が最大の標的としたのはインドだった。悲惨な飢饉が繰り返されていたのに、リットン伯爵やエルギン伯爵のような特権階級のインド総督は大量の食物を輸出して稼いでいた。

さらにアフガニスタンや南アフリカなどでの戦費を補うため、植民地に対する課税を強化した。 一方で、貧しい植民地住民を助けようとはしなかった。植民地政府は貧民を、社会にも経済にも無用な存在と見なしていた。そして「死にかけた農民を怠けさせるだけ」の人道支援などは無用と決め付けていた。 デービスの著書は告発状として徹底的に詳細を極める。なかでも強烈な一文を、ここに引用しておこう。 

 

「英国によるインド支配の歴史を要約する一個の事実がある。

 

1757年から1947年までの期間に、インドでは住民1人当たりの所得が少しも増えていない事実だ」 もう1冊の名著はアフリカ学の専門家キャロライン・エルキンズによる新著『暴力の遺産 大英帝国史』だ。こちらは20世紀の出来事に焦点を当てており、エリザベス2世の時代に起きた多くの残虐行為にも触れている。例えばケニアでは、キクユ人を平定するため、彼らを肥沃な農地から追い立て、100万人以上を「帝国史上最大の収容所列島」に閉じ込めていた。 エルキンズの著書が教えてくれるのは、ケニアにおける強制移住が例外的な事例ではなく、長年にわたる植民地支配の経験から生まれた策だという事実。

 

植民地に赴任する行政官はだいたい似たような顔触れで、インドやジャマイカ、南アフリカ、パレスチナ、マレー半島、キプロス、アラビア半島のアデンなどを渡り歩いていた。そして暴力と拷問、残酷な処罰による抑圧のノウハウを蓄積していた。

 

 

イギリスというシステムを体現する存在

つまり、かつてポルトガルがアフリカのサントメ島で始めた奴隷制+大規模農場の経済モデルは、南米のブラジルへ移植され、カリブ海やアメリカ南部へも伝わり、そのたびに進化していったのだ。 もちろん、初代のエリザベス女王と違って、故エリザベス2世に国政を動かす権限はなかった。しかし英連邦諸国への度重なる訪問を通じて、女王がイギリスという国とそのシステムを体現する存在だったことは事実。そして過去の植民地支配を一度もわびなかったことも事実だ。

 

 一方で、エリザベス2世の治世に大半の植民地が独立を果たしたこと、その多くが民主国家となり、程度の差はあれ国民の権利を守っていることも事実だ。 しかし、それをもってイギリスの帝国主義が「良性」だったと言うのは間違いであり、あの帝国が支配下の人々の権利を尊重していたと言い張るのも大嘘だ。時代錯誤も甚だしい。

 

 From Foreign Policy Magazine